江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年1月9日説教(マルコ2:13-17、医者を必要とするのは病人である)

投稿日:2022年1月8日 更新日:

 

1.徴税人と食事するイエスを批判する人々

 

・イエスは「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)とその宣教を始められました。イエスが伝えたのは福音、すなわち「父なる神はあなた方を救うために私を遣わされた」という喜びの訪れです。しかし当時の宗教指導者、ファリサイ派や律法学者たちは、裁きを伝えました。「神の定めた律法を守らない者は裁かれる」と。福音を伝えるイエスは、律法を強調するファリサイ派の人々と衝突されます。それが今日読みますマルコ2章13節からの記事です。

・イエスはガリラヤ湖畔、カペナウムの収税所にいたレビに「私に従いなさい」と招かれます(2:14)。徴税人レビ、マタイ福音書では十二使徒の一人マタイに変えて記述しています(マタイ9:9)。徴税人は支配者ローマのために税金を集める仕事をしていました。彼らは不浄な異邦人の手先として働く者であるゆえに汚れた者とされ、しばしば不正の徴収を行なっていたため、人々から憎まれていました。イエスはその徴税人レビに、「私の弟子となりなさい」と招かれました。これは異例の招きです。ユダヤ教の教師は罪人とされた徴税人とは交際しないし、ましてや弟子に招くことなどありえない。それなのにイエスは徴税人レビを招かれ、レビは招きに感動してイエスに従います。彼は徴税人であるために、社会から排除され、差別されていました。その彼に評判の高いラビが声をかけ、弟子として招いてくれました。

・レビはその感謝を示したいと願い、イエスと弟子たちのために食事会を催しました。席上にはレビの同僚である徴税人も招かれ、また「罪人」と言われる人々もそこにいました。当時の罪人とは犯罪者ではなく、律法を厳格に守らない、あるいは守れない人々、つまり宗教的な罪人を指します。字が読めず律法を守らない人々は「地の民」と呼ばれて断罪され、食肉業や皮なめし職人、動物を飼う羊飼いたちは不浄な者、汚れた者とされていました。また血を漏出する婦人病やらい病を患う人々も汚れているとされ、交わりから除外されていました。ファリサイ派の人々にとって罪人と交わることは自身が汚れることであり、同じ食卓につくことは考えられませんでした。だから彼等はつぶやきます「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(2:16)。ファリサイ=分離する者、律法を厳守し、自らの清さを守るために汚れた者から分離する故にそう呼ばれ、自らは「敬虔な者たち」と自称していました。

・その彼らにイエスは言われました「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(2:17)。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」、文脈を考慮すれば、かなり辛辣な言葉です。「病人」とはイエスの周りに来た徴税人や罪人を指し、「丈夫な人たち」とはそのイエスの交りを批判した律法学者たちを指します。そして続く言葉はもっと辛辣です「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。言葉の意味は明確です。「神の国に招かれるのはあなた方ではなく、あなた方が批判するこの人たちだ」と言われているのです。この言葉は罪人として排斥されていた人々にはまさに福音であると同時に、自分を正しいとする人々への厳しい断罪の言葉になっています。

 

2.自分は正しいとする人はそうでない人を排斥する

 

・自らを正しいとする人は律法を守らない、あるいは守れない人を排斥することによって、自分の正しさを維持しようとします。日本のクリスチャンのある人々は「クリスチャンたる者は禁酒禁煙であるべきだ」と考えます。自分の体を損なうお酒や煙草は控えるべきだという主張は間違っていません。しかし自分が禁酒禁煙を守る人は、他の人々がお酒を飲み、煙草を吸うことに耐えられず、非難します。日本にキリスト教を伝えた宣教師の多くは米国人で、禁酒禁煙の伝統の中で育って来ました。だから彼らは言います「あなたは酒を飲み、煙草を吸う。それでもクリスチャンですか」。これは「どうして徴税人や罪人と一緒に食事をするのですか」とイエスに詰め寄ったファリサイ人と同じです。ヨハネ福音書によれば、イエスはカナの婚礼で水をぶどう酒に変えて「飲んで楽しみなさい」と言われました(ヨハネ2:11)。レビたちの会食の場でもぶどう酒が振舞われ、イエスもそれを飲んで楽しまれたと思われます。それなのにイエスに従う宣教師たちが「お酒を飲む人々は地獄に堕ちます」と主張するのはおかしい。しかしそれをおかしいと思わないのが律法主義の怖さです。

・この律法主義の怖さは教会でも警戒すべきです。私たちは、教会に集う自分を、「社会人として、家族人として、やましいところはない」と考えているかもしれない。しかしその時、私たちもまたファリサイ人の罠に陥り、救いを求めて教会に来る人々を排除している可能性があります。私たちは主日の礼拝を安息日として守りますが、この安息日規定は出エジプトの出来事から来ています。エジプトの地において、イスラエルの人々は奴隷とされ、休みなく働かされていた。そのイスラエル人が神の恵みによりエジプトから解放され、安息日が恵みの日として与えられました(出エジプト記20:8-10)。安息日とは仕事をしなくても良い日、喜びと楽しみの日、恵みの日でした。しかし、律法が与えられてしばらくしますと、安息日を守らない者は死刑とする規定が登場してきます(出エジプト記31:14)。

・イエスが否定されたのは律法そのものではありません。恵みとして与えられた律法が、いつのまにか「守らない者は裁かれる」という刑罰に変えられてしまう、その人間の罪をイエスは指摘されたのです。マタイは罪人たちとの会食の記事の中に、「私が求めるのは憐れみであって、生贄ではないとはどういう意味か、行って学びなさい」(マタイ9:13)と挿入しています。「あなたたちは神が生贄を求める方ではなく、憐れみを求められる方であることを知らないのか。それなのにあなたたちは人を攻撃し、生贄にすることに夢中になっているではないか」とマタイは批判しています。

 

3.この生きづらい世にあってどう生きるか

 

・今日の招詞にマタイ5:3-4を選びました。次のような言葉です。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」。イエスは徴税人レビを弟子として招きました。レビに代表される徴税人や罪人たちは、社会から排除され、また徴税人として働く以外に生活の道はなく、苦しんでいました。イエスはそれゆえにレビを弟子に招かれた。ある牧師は語ります「イエスがレビを弟子として召されたのは、レビが弟子としてふさわしかったからではなかった。ただレビが医者を必要としていた病人であったからである・・・レビは自分が医者を必要としている病人だなどと思ってもいなかった。主イエスが必要だと思ってもいなかった。しかし主イエスはそう思われた。だからレビをお召しになった」(吉村和雄、説教黙想アレテイア、NO59,2008年)。

・イエスは言われました「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。今日の日本社会でも世間から排除され、攻撃されて泣いている多くの人々がいます。刑法学者の佐藤直樹氏は語ります「この国では殺人等の犯罪率は世界一低いのに自殺者は先進諸国の中で際立って高い。世間に迷惑をかけてはいけないからと他人を殺す代わりに自分を殺す国であり、世間への同調圧力が多くの自殺者を生んでいる。また犯罪者が刑罰を終えて出所しても世間は許さないし、その家族までバッシングされてしまう。この国は壊れている」(佐藤直樹「加害者家族バッシング、世間学から考える」)。「自分は正しい」と思う人の圧力が空気、あるいは世間としてのしかかり、社会に閉塞感や生きづらさをもたらしています。その結果、日本では毎年3万人が自殺し(さらに50万人が自殺未遂)、うつ病者が70万人、引きこもり者が100万人以上とされています。イエス時代のユダヤ社会は律法主義の重さにあえいでいました。今日の日本人は「世間」からくる様々の圧力の重荷にあえいでいます。イエスはその重荷を共に担われました。そうであれば、私たちも世間の同調圧力にあえいでいる方々に何かをすべきです。

・昨年から今年にかけて、新型コロナウィルスがまん延し、感染者や医療従事者への差別や偏見が各地で見られ、SNSでの誹謗中傷も目立ちました。「自粛警察」という監視社会の重苦しさもありました。一昨年4月に「非常事態宣言」が出された時、ステイホームが合言葉のようになり、礼拝に集う私たちも白い目で見られました。しかし、世間の目や同調圧力に悩む人々に、私たちは彼らに語る言葉を持っています。招詞の言葉です「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」。私たちもかつて苦しい時に、神によって憐れまれた体験をした。その時、「困難の中にある人を神は知って下さり、憐れんで下さる」ことを知った、私たちもつらい時を過ごしたゆえに、そのように言いきることができます。

・聖書では世間をどのように見ているのでしょうか。ヨハネは語ります「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます」(第一ヨハネ2:15-17)。世を世間と言い直せば、「世間の無意味な規制や圧力に悩むな。それは神から来るものではない。世間の圧力はやがて去っていく。元気を出しなさい」と命じられています。イエスは姦通を犯した女性をかばい、「あなた方の中で罪を犯したことのないものがこの女に石を投げなさい」と言われました(ヨハネ8:7)。当時のユダヤ人は神を信じており、自分は神の前に罪なしと言い切る人はなく、誰も石を投げませんでした。しかし絶対なる神を信じない日本では容赦なく石が飛んでくると思われます。犯罪加害者家族への容赦ないバッシングはその一例です。その中でなお、その人を守り切ることができるか、私たちの信仰が問われます。しかし、初代教会はユダヤ教社会からの迫害の中で、キリスト教会になって行きました。

・ファリサイ人たちは徴税人や罪人と交わるイエスを許せませんでした。この不寛容がイエスを十字架にかけました。私たちは改めて、「イエスがレビを弟子として召されたのは、レビが弟子としてふさわしかったからではなかった。ただレビが医者を必要としていた病人であったからである」ということを銘記します。レビはイエスを必要としていた、だからイエスはレビを招いて下さった。私たちもイエスを必要としていた、だからイエスは私たちを招いて下さった。その招きに答えて、教会を形成する私たちは、世間の同調圧力に負けて、「死ぬしかない」と思い込んでいる人々を救うための働きが求められています。自殺防止のために活動する「命の電話」も、イギリスの教会から生まれた運動であることを想起します。

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