江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年1月16日説教(マルコ3:20-22,31-35,神の家族として生きる)

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1.イエスを連れ戻そうとするイエスの家族

 

・マルコ福音書を読んでおります。マルコ福音書3章では、イエスが行われた癒しの業に対して、エルサレムから来た律法学者たちが、イエスは「ベルゼブル(サタン)の力で癒しを行っている」(3:22)とか、「気が変になっている」(3:21)と批判しています。イエスの家族もその批判を聞いて、「イエスのことを取り押さえに来た」(3:21)とあります。イエスはユダヤ教当局者の非難を受けながら、また家族の無理解の中で、宣教活動を続けられました。今日はその中で、「イエスの家族の無理解」に焦点を当てて、「神の家族とは何か」を考えていきます。

・イエスは30歳の時に洗礼者ヨハネの「悔い改めの呼びかけ」に心動かされ、郷里を出てユダに行かれ、ヨハネからバプテスマを受けられました。その時、イエスに神の霊が下り、イエスは御自分が使命をもって世に遣わされた事を自覚されました(1:10-11)。その後イエスはガリラヤに戻って宣教活動を始められ、最初の言葉は「時は満ち、神の国は近づいた」(1:15)という言葉でした。イエスは人々が苦しむさまを見て憐れまれ、病気を癒され、悪霊を追い出されました。群集はイエスの癒しを見て、「神の力が働いている」と称賛し、エルサレムの宗教指導者たちは、イエスは「サタンの力で業を行なっている」と非難しました。その中でイエスの家族たちは、「イエスのことを聞いて取り押さえに来た」(3:21)とマルコは記します。

・そこに来たのはイエスの母と兄弟たちでした。父ヨセフはイエスが10代の時に亡くなったようです。父亡き後、イエスは長男として、一家の生計を担うために、大工の仕事に従事されていました。マルコ6章3節によりますと、イエスには4人の弟と2人の妹がいました。イエスは家族を養うために30歳までナザレで大工として働いておられましたが、その後、故郷を離れてヨハネ教団に入り、ヨハネが処刑された後も、家に帰らず、巡回伝道者となられました。家族にとって見れば、長男が家長としての責任を放棄して家を飛び出し、エルサレムの指導者たちから危険人物とのレッテルを貼られている、これは何とかしなければいけないと思ったのでしょう。常識的に見れば家族がイエスを取り押さえに来た動機は理解できます。

・律法学者たちはイエスを、「気が狂っている」と判断していました。当時の人々は奇跡を信じており、ある人が霊の力によって悪霊を追い出したり病気を癒したりしても、「気が狂っている」とは言いません。しかしイエスに対しては非難します。それはイエスの行為が神の教えである律法を軽視していると見えたからです。イエスは癒しの業をあえて安息日に為されています。安息日律法より大事なものがあることを伝えるためです。また汚れた者には触れてはいけないという清浄規定を無視して、らい病人に手を触れて癒し(1:41)、汚れた者とされた徴税人を弟子に迎え、食卓を共にしました(2:15)。それらの行為は、モーセ律法の「清浄規定」を厳格に守る律法学者たちには狂気の沙汰としか思えませんでした。そのため、律法学者たちはイエスを「あの男はベルゼブル(サタン)にとりつかれている」(3:22)と批判したのです。身内の者たちがイエスを取り押さえに出て来たのは、都の高名な学者たちから「狂っている」と評価される息子の行為を理解できなかったのでしょう。その物語の続きがマルコ3:31以下、今日の聖書箇所です。

 

2.神の家族

 

・イエスは宗教的権威者たちからは「サタンの手先」という烙印を押され、母や兄弟たちからは「狂っている」と批判されました。それにもかかわらず、イエスは神の国の宣教を続けられます。それはイエスの中に神から与えられた使命感、「神の国が来た」という緊迫感があったからでしょう。並行箇所のルカ11:20でイエスは言われます「私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ている」。そのようなイエスに従い、言葉に耳を傾ける者たちがイエスを囲んで座っています。弟子たちや病気を癒された人々、「罪人」と排斥されていた人々が、イエスを取り囲んで話を聞いていました。
・イエスの母と兄弟たちはイエスのところに来ましたが、家の中に入ろうとせず、「外に立ち、人をやってイエスを呼ばせ」(3:31)ます。「外に立ち」、イエスの話を聞こうとしない家族の気持ちが現れています。現代で考えれば、カルト宗教に捕らわれて家出した息子や娘を取り戻しに来た家族の情景のようです。生前のイエスは家族からそのように見られていたのです。「家族がイエスを取り押さえるために来た」というマルコの記事は、後に書かれたマタイやルカの福音書では削除されています。イエスの兄弟ヤコブは、やがてエルサレム教会の指導者になりますが、そのヤコブが生前のイエスを信じなかったばかりか、宣教を妨害しようとしたことを書く事をはばかった。また母マリアは後に神格化され、聖母マリアとされて行きますが、その母マリアでさえ、生前にはイエスを神から遣わされたメシアとは信じていなかったとは書けないからです。しかし、事実はマルコの言う通りです。「預言者は郷里では受け入れられ」(6:4)なかったのです。

・言葉を取り次いだ者はイエスに言います「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」(3:32)。それに対してイエスは「私の母、私の兄弟とは誰か」と答えられます。イエスは実の家族に対して、「私はその人たちを知らない」と言われたのです。これは血縁を大事にし、家族が共同体として暮らしていたユダヤ人には受け入れがたい言葉です。おそらく、その過激さえ故に記憶され、伝承されたイエスの肉声でしょう。その後、イエスは彼の話を聞いていた人々の顔を見つめながら言われます「見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる」(3:34)、「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」(3:35)。血の繋がった者が家族ではなく、信仰で繋がった家族、「神の家族」がここにいると宣言されたのです。

・イエスの家族はイエスの生前には、彼を受け入れることは出来ませんでした。イエスはこの後、肉の家族を持たない者として生きられます。そして、従う弟子たちにも家族を捨てるように求められます「私のため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも・・・後の世では永遠の命を受ける」(マルコ10:29-30)。この厳しい言葉の背景には、実の家族に理解されないイエスの悲しみがあります。ヨハネ福音書は書きます「兄弟たちも、イエスを信じていなかった」(7:5)。イエスが捕らえられ、処刑された時も、家族はその場にいませんでした。

 

3.家族を超えた家族の形成

 

・今日の招詞に使徒言行録1:14を選びました。次のような言葉です「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」。イエスの家族たちは、イエス生前には、イエスを受け入れることが出来ず、イエスは故郷喪失者として生きられました。ルカ福音書にイエスの言葉が残されています「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(ルカ9:58)。自分には帰るべき家がないという寂しさをイエスは告白されています。また「神の御心を行う人こそ、私の家族なのだ」というイエスの言葉の中には、血の繋がった家族に理解されない悲しみがあります。それぞれの家庭は様々な重荷があります。イエスの家族もそれを抱えていました。

・やがてイエスはユダヤ教指導者の憎しみを受け、告発され、捕らえられ、十字架で殺されます。その場にはイエスの家族は不在でした。ここに「私の家族がいる」と言われた弟子たちも、逃げ去っていませんでした。イエスの最後の言葉は「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(15:34)でした。イエスは神にも家族にも弟子たちにも捨てられて死んでいかれたのです。しかしそれで終わりませんでした。神はそのイエスを死から復活させられ、この復活を通して、イエスこそ神の子と信じる群が起こされ、彼らは教会を形成して行きます。人々は共に集まり、共に祈りました。その群れの中に、かつてはイエスを受け入れることが出来なかったイエスの家族も招かれています。使徒言行録は記します「彼ら(弟子たち)は都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった・・・彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒1:13-14)。

・ここに復活の出来事が、頑なだったイエスの家族たちの心を砕いていった奇跡を見ることができます。イエスの弟ヤコブはイエス排斥の筆頭者であったと思われますが、復活のイエスと出会って変えられ(第二コリント15:7)、やがてエルサレム教会の指導者となり、紀元62年にはユダヤ教会の迫害の中で殉教しています。かつてはイエスに激しく反発していた弟ヤコブが、「イエスの名」のために死んでいく者になったのです。手紙の中で彼は述べます「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブ」(ヤコブ1:1)。十字架と復活が肉の家族を超える新しい家族を形成するという出来事が起こったのです。この事は肉の家族の多くが共に礼拝に集えない現実を抱える私たちにも希望を与えます。私の夫や妻が、子供たちが、両親がいつの日かキリスト者になって共に礼拝を持つことができるという希望です。教会の大事な伝道課題の一つは肉の家族を教会に招き、信仰を継承することです。信仰のバトンを渡すことです。
・「神の国は来た」とイエスは言われました。しかし、人々の苦しみは相変わらず続き、病気や障害で苦しんでいる人は相変わらずいます。人々はお互いを傷つけあい、自分勝手に生き、そのエゴが家族や地域社会を壊し、人々を苦しめています。経済的に豊かになっても、自殺者は減りません。医学の進歩により寿命が伸びても、今度は寝たきり者の介護や認知症の問題が私たちを苦しめています。「キリストが来られて何が変わったのか、世は相変わらずサタンの支配下にある」と思わざるを得ない現実が私たちの周りにあります。それを変える鍵がイエスの言葉にあります「神の御心を行う人こそ私の家族だ」という言葉です。

・「神の御心を行う人」は、イエスに繋がることを通して神の家族とされた人々です。地上の血縁関係は人と人の「横の繋がり」であり、人間関係が崩れるようにその関係もいつかは崩れます。しかし神の家族は、イエスを通して神と繋がる「縦の関係」が基本になる家族です。神と繋がるからこそ、お互いが神の子として家族になり、お互い同士の関係が崩れても、神の家族関係は崩れません。私たちキリスト者は水に入れられて、この世に対しては死にました。古い自分に死に、新しい存在に生きます。私たちは、「血筋によらず、ただ神によって生まれた」者として、イエスの兄弟、姉妹、として生き、ここに「神の家族」という共同体を形成していきます。私たちは子供を生み、育てることを通して、「命のバトン」を繋いでいきます。そして今、私たちの信仰を継承してくださる人に「信仰のバトン」を渡していくのです。

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