江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年1月23日説教(マルコ6:30-44、命のパンをいただく)

投稿日:2022年1月22日 更新日:

 

1.飼い主のいない民を憐れむイエス

 

・マルコ福音書を共に読んでおります。イエスは十二弟子を訓練のために各地に派遣されました(6:6-13)。弟子たちがイエスの下に戻ってきて、派遣先でどのようなことを行ったのか、どのようなことを話したのかを、興奮して次から次へ報告します(6:30)。イエスは弟子たちが疲れているのを見て、「あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休みなさい」と言われ、弟子たちと共に舟に乗って向こう岸に行かれます。イエスたちが舟に乗ったのを見た人々が、先回りして駆け出し、イエスたちを待ちました。今日の物語はそこから始まります。

・人々は驚くべき熱心さでイエスを求めています。もちろん、願いは自分や家族の病気の癒しでした。その彼らを、イエスは「憐れまれ」ます。マルコは記します「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(6:34)。そこには5千人の人がいたとマルコは記します。それほど多くの人々がイエスを求めて来ました。イエスは彼らを拒絶されず、「飼い主のいない」彼らを、「深く憐れ」まれました。

・「飼い主のいない羊」、イエス時代の民衆は信頼できる飼い主=羊飼いがいませんでした。ガリラヤ領主ヘロデは預言者ヨハネを捕らえ、その首をはねるような人物です。民のために執り成しをするべき祭司は、神殿税や捧げ物によって裕福な生活をしており、民が困窮しても気にかけませんでした。日常の生活指導を行う律法学者は律法を守ることの出来ない貧しい人々を、「地の民」と呼んで軽蔑していました。世の指導者は、民の利益よりも自分の利益を優先し、その結果、民は、「飼い主のいない羊」のような状況に放置されていました。イエスは今、その神から派遣された牧者として、その人々の前に立たれています。

 

2.深く憐れんで(スプラングニゾマイ)

 

・牧者イエスは民衆を見て、「深く憐れ」まれます。「深く憐れまれた」、ギリシャ語「スプラングニゾマイ」です。「スプランクノン(内臓)が痛むほど動かされた」という意味です。英文聖書はこの言葉を「compassion 」と訳します。同情、共感という意味ですが、原語のラテン語「コンパティオール」は共に苦しむという意味を持ちます。憐れみとは同情や共感のレベルを超えて、「共苦(共に同じ苦しみを苦しむ)」という深い意味を持ちます。

・イエスは人々に神の国の福音を伝えられました「神の国が来た。神はあなたがたを憐れんでくださる。あなた方は飢えているが神はあなた方を満たしてくださる」と。いつの間にか時間が経ち、夕暮れになりました。弟子たちが心配してイエスのところに来ます「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」(6:35-36)。それに対してイエスが言われます「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(6:37)。弟子たちは困惑します「私たちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」。5千人の人々に食べさせるだけのパンを買うお金はないし、仮にお金があったとしても、この寂しい場所で、そんなにたくさんのパンを買える訳がありません。弟子たちは正しい、人間業ではそれは不可能なことです。

・しかしイエスは動揺されません。イエスは弟子たちにパンはいくつあるのか調べるように言われます。五つのパンと二匹の魚がありました。イエスは「人々を座らせなさい」と言われました。旧約の時代、神は一握りの小麦粉で三年間、エリヤとやもめ一家を養われました(列王記上17:16)。神は必要な時に必要なものを与えてくださるとの信仰がイエスにありました。イエスは、天を仰いで感謝の祈りを唱えてから、人々にパンを分け与えられ始めました。また、干した魚も同じようにして分け与えられました。5千人の人が食べて満腹し、パンくずが十二の籠に一杯になったとマルコは記します。人間のつぶやきを超えて、神が行為されました。どのようにして、それが可能であったのか、マルコは何も言いません。

・おそらくは弟子たちがパンを配り始めるのを見て、人々も自分の手元にあったパンを出し、それを割って、隣人に与えたのでしょう。分かち合いを通して、パンは多くの人びとを満腹させるものになって行きます。ドイツの神学者ボンヘッファーはこの箇所について述べます「我々が我々のパンを一緒に食べている限り、我々は極めてわずかなものでも満ち足りる。誰かが自分のパンを自分のためだけに取っておこうとするとき、初めて飢えが始まる。」(「共に生きる生活」から)。

 

3.命のパンをいただく

 

・今日の招詞にヨハネ6:35を選びました。次のような言葉です「イエスは言われた『私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない』」。五千人へのパンの給食は四福音書全てにあり、この出来事がいかに印象深かったかがうかがわれます。招詞の言葉はヨハネの記録です。イエスが行われたパンの奇跡を見て、人々はイエスの力に驚きます「この人こそ、世に来られる預言者だ」(6:14)。人々は飢えていました。当時は、旱魃等の天候不順で作物が不作になれば、貧しい人は餓死する時代でした。彼らは思いました「五つのパンで五千人を養いうる人であれば、私たちの生活の貧しさも解決して下さるに違いない」。人々は食べるものにも事欠く現在を、腹一杯食べることの出来る将来に変えてくれる人を求めていました。その彼らの面前でイエスは奇跡を起こされました。

・人々はイエスを王にしようとします。イエスは群集の心の中にそのような思いが芽生えたことを知って、彼らを避けて対岸のカペナウムに戻られます(6:21)。人々はイエスを追ってカペナウムまで来ます。その彼らに言われた言葉が、招詞の言葉です「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」。「私が命のパンである」という言葉はギリシャ語では「エゴーエイミー(私は・・・である)、ホ・アルトス(そのパン)、テ・ゾーエー(命の)」です。ここで問題にされている命は「ゾーエー」としての命です。ギリシャ語の命には「ビオス」と「ゾーエー」の二つがあり、ビオスは生物学的命を指し、ゾーエーは魂の命、人格的な命を指します。人間が生きるには生きがいが必要です。その生きがいを消失し、「生きていてもしょうがない」という時、動物としての命(ビオス)は生きていても、人格としての命(ゾーエー)は死んでいます。私たちはここで、群集が求めるものとイエスが与えようとしているものの間にすれ違いがあることに気づきます。群衆はビオスとしての命を養うために地上のパンを求め、イエスは群衆に、「地上のパンは父なる神が下さるから、もっと大事なゾーエーとしての命を求めよ」と言われています。

・このイエスの言葉は、私たちにも生き方の見直しを迫ります。人はパンなしでは生きていくことが出来ません。私たちはパンを求めて、毎日働きますが、いつのまにか人生の大半が、「パンを獲得する」ことに費やされ、本当に必要な霊の糧を忘れてしまっているのではないかという問いかけです。私たちは多くのお金を費やして子どもを教育し、長い年月をかけて住宅ローンを支払います。そして子どもが独立し、家が残り、老後を迎えて、しばらくの時を過ごすと、やがて死が迫ります。「そのような人生で良いのか、何かが欠けているのではないか。人はパンだけで生きるのではない」とイエスは問いかけられます。

・では生きるために必要な「命のパン」は、どのようにすれば得られるのでしょうか。イエスは言われます「私は、天から降って来た、生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである」(6:51)。世の人に命を与えるためにはまず「罪」を贖わなければなりません。罪によって、命の源である神への道が閉ざされているからです。イエスはそのために自分の肉を裂き、血を流して、贖いの業をすると言われます。「私は十字架で死ぬことを通してあなたたちのパンになる。だから私を食べよ。私を食べることによって復活の命を得よ」とイエスは言われています。

・この個所において、由木康牧師は述べます「魂の世界では、人は自分の命を捨てただけ他人を生かすことが出来る。親は子の為に自分の命を消耗しただけ子を生かし、教師は生徒のために自分の命をすり減らしただけその生徒を生かし、社会事業家は助けを要する人々のために自分の命をすり減らしただけそれらの人々を生かす」(由木康「イエス・キリストを語る」、P183)。イエスは私たちのために自分の命を捨てて下さった、だから救われた私たちは自分の命をかけて応答する。それがキリスト者の礼拝です。

・初代教会の礼拝の模様を伝えるユスティノスの手紙が残されています。「日曜日と呼ばれる日には、町や村に住む者たちが一つの場所に集まる。そして使徒たちの回想録や預言者たちの文書の朗読が行われ・・・司式者が教えを説き、このような優れたことがらに倣うように勧告し促す。次に皆立ち上がり、共に祈りを唱える。祈りが終わるとパンとぶどう酒と水が運ばれる。司式者は祈りと感謝を捧げる。会衆はアーメンという言葉でこれに唱和する。一人一人に「感謝された」食物が与えられ、これに預かる。また欠席者の下には執事がそれを届ける。次に裕福で志のある人々は、各人が適切とみなす基準に従って定めたものを捧げる。このようにして集められたものは司式者の下に保管され、孤児や寡婦、病気やその他の理由で困窮している人々、獄にいる人々のために配慮する。司式者は窮乏の下にある全ての人々の面倒を見る役割を果たす」(「ユスティノスの第一弁明」)。初代教会の礼拝の中心は主の晩餐式、食べ物の分かち合いでした。困窮した者には執事たちがそれを届けました。現代のフードバンクの原型がここにあります。初代教会は「パンを共に分け合う」ことを通して、人生の不条理を克服していったのです。イエスは荒野で5つのパンで五千人を養うことを通して、それを私たちに教えてくださいました。だから私たちも献金を通して、あるいは直接的な分かち合いの行為を通して、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」というイエスの言葉に従って生きます。

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