江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年1月30日説教(マルコ7:24-30、私たちを癒される神)

投稿日:2022年1月29日 更新日:

 

1.カナンの女の信仰

 

・マルコ福音書を読んでいます。マルコは記します「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒された」(1:39)。人々は次から次へ、病気の人をイエスの許に連れて来ます。イエスは彼らを癒されますが、癒してもらった人々はすぐにイエスの許を去ります。もう用事が無いからです。イエスは人々の姿に失望されました。彼らが求めるのは、治癒であり、病気が治ることだけでした。彼らは「生かして下さる神の愛」を知ろうとはせず、ただ「治癒」だけを求め、満たされると去って行きます。どうしたらよいのか、「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた」(7:24a)とマルコは記します。イエスはガリラヤでの宣教に疲れられ、休息を求めて、異邦人の地に退かれたのです。しかし、そこにもイエスの評判を聞いた人々が押しかけてきました。マルコは記します「ある家に入り、誰にも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった」(7:24b)。イエスの癒しの評判は国境を越えて伝わっていました。

・そのイエスの下に、「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した」(7:25)とマルコは記します。その女は「ギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれであった」が、「娘から悪霊を追い出してください」とイエスに願います(7:26)。「悪霊に苦しめられている」、恐らく重い精神の病を病んでいたのでしょう。母親は医者や祈祷師の所に行きましたが、誰も治せませんでした。聖書には、彼女の夫についての言及がありません。もしかすると、子の障害の故に離別されたという事情があったのかもしれません。子の精神障害は親に、特に母親に重くのしかかってきます。この女性はわらにもすがる思いでイエスのところに来たのでしょう。マタイでは「叫んだ」とあります(15:22)。おそらく、髪を振り乱し、金切り声を上げて、娘の癒しをイエスに訴えかけたのでしょう。彼女の叫びの大きさが、彼女の苦悩の大きさを物語っています。

・しかし、イエスは何もお答えになりません。ガリラヤでは、あれほど多くの人の癒しをされたのに、この異邦人の地でイエスは沈黙されています。女性は必死でした。彼女はイエスの前に「ひれ伏した」とあります。土下座して、イエスの救いを求めました。その女性にイエスは言われます「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」(7:27)。犬とは異邦人を指す言葉です。イエスは言われます「私は失われたイスラエルの子たちを救うために世に来た。今はそれに全力を尽さなければならない」。イエスは異邦人の娘の癒しを拒否されました。

・しかし、この拒否の後ろには、受け入れがあることを私たちは知るべきです。子犬とは飼い犬のことであり、野良犬ではありません。飼い犬は主人の食べた残りを食べることは出来ます。それに気づいた女性は叫びます。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」(7:28)。女性は叫びました「私たち異邦人は選ばれた民ではありません。まずイスラエルの子たちが食べるべきです。しかし、父なる神は私たち異邦人にも恵みを拒否される方ではありません」。イエスは女に言われます「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」(7:29)。イエスは、「イスラエルの人びとは当然の権利のごとくに病気の治癒を要求したが、あなたは神の憐れみを求めた。だから、父なる神はあなたを憐れんでくださる」と言われたのです。イエスはこれまでの伝道方針を破って、異邦人の娘を癒されました。マルコは記します「女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた」(7:30)。

・イエスは、最初女性の求めを拒絶されました。「神の力を異邦人に用いることは私には許されていない」と言われました。このような拒絶の体験を私たちもします。病や苦しみが与えられた時、私たちは必死になって祈ります「主よ、どうかこの苦しみを取り去って下さい。どうか、憐れんでください」。しかし、何の答えもない時があります。そんな時、私たちは祈りが無視され、拒絶されたと怒り、祈りを止めます。この教会にも過去に多くの人が、自分の、あるいはお子さんの病の癒しを求めて来られました。そして癒されないと知ると、失望して去って行かれました。カナンの女性は必死に求めました。無視され、拒絶されても、求めました。他にあてが無かったからです。この熱心さがイエスの心を動かしました。

 

2.この物語を私たちの物語として聞く

 

・前に、心の病に苦しむ娘を持った母親の手記を読んだことがあります。彼女はこう書いています「聖書にイエス様が病人や悪霊に取りつかれている人たちをお癒しになった事が出てきます。その度に思うのは娘のことです。9歳の一人娘は知的障害で自閉症です。もしその当時、私が『イエスと言う救い主が現れて病人を治している』と聞けば、娘を連れてどんなに遠くても行ったことでしょう。『何とか治してほしい。どうぞ治してください』と祈っていると、時々虚しくなります。障害の重さばかり目に付いてしまい、絶望的になります」。心の病を持つ子がいる家族の苦悩は重いものがあります。全国精神障害者家族会がまとめた「心の病-家族の体験」という本を読むと、多くの苦しみの言葉があります。ある母親は、精神分裂病で入院した娘から「私の人生を返せ」と言われて、泣き崩れました。夫から「娘がこうなったのはお前のせいだ」と言われて、この子を殺して自分も死のうと考えた人もいます。

・しかし、多くの経験者は言います「何故ですかと叫び続ける時、苦しみの大きさに押し潰されてしまう。しかし、何をすべきかと考えた時に、この状態を受入れられるようになる」。カナンの女も思ったでしょう「私は何故こんなに苦しまなければいけないのか」。彼女はイエスと対話するうちに、神は私たちの不幸を願っておられるのではなく、幸いを願っておられることに気がつきました。だから彼女は言います「子犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです」。「神は私たちを異邦人という理由で見捨てられるような方ではない。神は私たちを憐れんで下さる」。女性はそう信じました。マタイ福音書によれば、イエスは女性に対して、「あなたの信仰は立派だ」とほめられました(マタイ17:28)。

 

3.その時も神は聞いておられる

 

・神は私たちの切なる祈りを聞かれます。しかし、どんなに求めても治されない病があり、どんなに求めても取り除かれない苦しみがあるのも事実です。私たちはどう考えるべきなのでしょうか。今日の招詞に詩篇22:2-3を選びました。次のような言葉です「私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか。なぜ私を遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。私の神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない」。悲痛な叫びです。救済を求めたのに救いは来なかった。苦しみの取り除きを求めたのに、苦しみは取り除かれなかった。詩篇作者の悲鳴が聞こえます。そして、この詩篇はイエスが十字架上で叫ばれた言葉としても有名です。イエスは最後の時に叫ばれました「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(詩篇22:1,マルコ15:34)。

・私たちはそれぞれの体験の中で、「祈りが聞かれないように思える時も、神は聞いておられる」ことを知らされます。私たちの祈りは神に届き、その祈りは最善の方法で答えられます。ただ、それが私たちの願う方向とは別なこともあります。重症心身障碍児施設・久山療育園を創設された川野直人牧師は語られます「言葉もなく、感情の表現も出来ない、寝たきりの重症の子を持った家庭がありました。長い看病の

後、その子は地上の生涯を終えて天に帰りました。その親の友人が、「大変でしたね、これで肩の荷が下りたでしょう」と慰めのつもりで言うと、その両親は「いや、手の中の宝を取り去られたようで、心に大きな穴がぽっかり空いたようです。あの子がいた時は、世話をすることは大変と言えば大変でした。しかし何もできないあの子が、たった一つできることは、おいしいものを口に入れると、さも嬉しそうな声をあげることでした。私たち夫婦は、今度はどんなうまいものを作って、あの子に食べさせて、あの子の嬉しそうな声を聞こうかと、心を砕くことが私たちの生きがいだったのです。今、私たちのその生きがいが取り去られて、これから何を心の支えにして生きて行ったらよいのか、今まであの子が私たちにとって、どんなに大きな大切な存在だったかをつくづく知らされています」と語られたそうです(久山療育園「共に生きる」から)。モルトマンは語ります「障害のある人たちのいない信仰共同体は障害があり、また障害となる信仰共同体である」(モルトマン「いのちの御霊 総体的聖霊論」から)。

・この障害を持った子は治癒されなかったが、癒された。「癒しと治癒とは異なる、必ずしも治癒が最善の道ではない」ことを知ることは必要です。本田哲郎神父は聖書の癒しについて語ります「文字通り“癒す”という言葉“イオーマイ” が出るのは、マタイとマルコで合わせて五回しかない・・・あとはすべて“奉仕する”という意味の、“セラペオー”が用いられる。英語 Therapy の語源となった言葉で、これを病人に当てはめると、“看病する”、“手当てする”となる。イエスにとって、神の国を実現するために本当に大事なことは、“癒し”を行うことではなく、“手当て”に献身することであった。イエスが為されたのは病の治癒ではなく、病人の苦しみに共感し、手を置かれる行為だった、その結果ある人々の病が癒されていった」(「小さくされた人々のための福音」)。イエスが行われたのは、治癒ではなく癒しであった、それは共感の業、共にいるとの決意です。

・河野進という牧師は歌いました「病まなければささげ得ない祈りがある。病まなければ信じ得ない奇跡がある。病まなければ聞き得ない御言葉がある。病まなければ近づき得ない聖所がある。病まなければ仰ぎ得ない御顔がある。おお、病まなければ私は人間でさえもあり得ない」(河野進「病まなければ」)。川野進牧師は岡山ハンセン病療養所で50年間も慰問伝道をされた牧師です。何故ハンセン氏病のような悲惨な病があるのか、神はなぜこの苦しみを取り除いて下さらないのか、その苦悶の中で読まれた詩です。人生には多くの苦しみがありますが、病気になって初めてわかる祝福があり、家族や友人を失って知る大切なものもあり、地上の財を奪われて初めて見える天上の宝があるとの言葉に共感します。

・聖書は、「私たちの求めと異なるものが神から与えられても、そのまま受け止めなさい」と教えます。時間の経過と共に、神が私たちに最善のものをお与え下さったことがわかるようになる時が来るからです。その時を、信仰と忍耐を持って待つのです。詩篇22編は絶望の叫びであるように見えますが、実は感謝の歌です。詩人は歌います「主は貧しい人の苦しみを、決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いて下さいます」(詩篇22:25)。聞いてくださる方があることを知った時、病気や障害の治癒がなくとも、人は立ち上がることができるのです。

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