1.神を知らない者の罪
・「ローマの信徒への手紙」の二回目です。パウロはいつの日か、世界の中心、帝国の首都ローマに行って伝道したいと願い、今、未知のローマの教会に手紙を書いています。通常であれば挨拶と自己紹介の簡単な手紙になるはずでした。しかし、ローマ教会には問題があり、そのため、パウロは詳細な救済論を書くに至りました。その問題とは、教会の中で、「ユダヤ人と異邦人の対立」が生まれていたことです。教会はエルサレムから始まり、ローマ教会もユダヤ人中心の教会として始まりましたが、次第に異邦人も加入し、民族混合の共同体になっていました。その教会内で対立が生まれ、コリントにいるパウロにも知らせが届きます。同じ教えを信じる信仰者の間に、なぜ対立や争いが生じるのか、パウロはその根源に、「人間の罪」を見ます。1919年カール・バルトが伝統的な神学に疑問を感じ、詳細な「ローマ書注解」を書いたのも、第一次世界大戦で、同じキリストを信じるドイツ人とイギリス人が互いを殺し合う姿を見て、人間の罪の問題を考えなければ救いはないと感じたからです。ローマ書の主題は「人間の罪」です。
・パウロは挨拶の言葉を終えるや、「罪とは何か」を説き始めます。それが1章18節から3章20節まで続きます。最初にパウロは、異邦人の罪を指摘します。それは「神を知りながら、神を神として認めない」ことだと語ります。外にあっては天地自然を通して、内にあっては人間の良心を通して、神は自己を示されましたが、彼らはそれを認めようとしない。そこで神は、「彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました」とパウロは書きます(1:24)。
・神学者の北森嘉蔵は「ローマ書講話」の中で、「パラディドナイ」という言葉が繰り返されることに注目します。「任された、渡された」という意味の言葉で、1:24「神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするに任せられた」、1:26「神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた」、1:28「神は彼らを無価値な思いに渡された(任された)」とあります。人の罪に対して、神は怒りを持って臨まれ、その怒りとして「人間が為すがままに任せられた、放置された」とパウロは言うのです。
・人は歴史以来、争い合い、殺し合ってきました。人間の歴史は戦争の歴史であり、今でも戦争をやめることはできません。何故か、神が人を「無価値な思いに渡された」(1:28)からです。人は生命を継承するために男と女に造られましたが、人間はこの性を快楽の道具として、不倫や強姦や同性愛を繰り返してきました。何故でしょうか、それは神が人を「恥ずべき情欲に任せられた」(1:26)からです。神の怒りとして「この世は罪と不正に満ちている、あなた方もその中にあるのだ」とパウロは指摘します。
・しかし、神の怒りは何故、「人を為すがままに任せる」という形で現れるのでしょうか。自己の罪を認識し、悔い改めない限り救いはないからです。人間が自分の罪を自覚するのは、「落ちる所まで落ちる」、何も頼りに出来るものがなくなった時です。「落ちる所まで落ちるために、神は人が為すがままに任せ」られる。その結果、社会は欲望と欲望がぶつかり合う弱肉強食の世界になり、弱い者は排除され、圧迫されていく。苦難に遭った時、初めて人は神を求める。他に頼るものがないからです。ルカ15章にあります「放蕩息子の例え」がその典型です。放蕩息子が自分の罪を認めたのは、お金を使い果たし、だれも助けてくれず、空腹の中で豚のえさでさえも食べたいと思った時でした。落ちるところまで落ちて初めて分かる自分の罪、それを知らせるために「神は私たちを悪の中に放置される」とパウロは語ります。悔い改めの前提は、自分は罪びとだとの認識です。
2.神を知りながら神を崇めない信仰者の罪
・「神を神と認めないところに異邦人の罪があった」とパウロは指摘しました。では「神を神として敬い、神の戒め(律法)を大事にする」ユダヤ人は罪から解放されているのか、「そうではない」とパウロは一転して今度はユダヤ人の罪を指摘します。それが2章1節からの箇所です。ユダヤ人は神を知らない異邦人を罪人として裁きながら、実際には異邦人と同じことを行っていると彼は指摘します「すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」(2:1)。ユダヤ人キリスト者たちは、異邦人改宗者に割礼を受けることを求め、律法を守らなければ救われないと主張していました。その結果、教会の中で異邦人キリスト者と対立し、そのことによって「神の御名を汚している」(2:24)とさえ語ります。
・そしてパウロは人間の罪の有り様を表示します。それが3章12節から始まる告発状です。「善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない」(3:12-18)。この「彼ら」を「私たち」と言い換えれば、それは私たちの姿です。「(私たち)ののどは開いた墓のようであり、(私たち)は舌で人を欺き、(私たち)の唇には蝮の毒がある。(私たち)の口は呪いと苦味で満ち、(私たち)の足は血を流すのに速く、(私たち)の道には破壊と悲惨がある。(私たち)は平和の道を知らない。(私たち)の目には神への畏れがない」。これが私たちの究極の姿です。平時には私たちは社会の道徳を守って生きています。しかし、戦争のような非常時になると私たちの生活は一変します。戦争において私たちは相手を殺し、弱い者たちを暴行し、相手の食べ物を奪います。そうしなければ生き残れないからです。8月5日のラジオ放送で、「今語る戦争の現実」と題して、満蒙開拓団からの逃避行証言を聞きました。歩けない者、幼子、妊婦は逃避行の妨げになるから殺せという指導者の命令で、母が子を、父が祖父の首を絞めた等々の体験談が語られました。非常時にこそ、私たちの真の姿があらわになります。現在はそれがシリアからの難民やアフガンからの亡命難民、あるいはコロナ禍での誹謗中傷の形で繰り返されています。
・この世は罪と不正に満ちている、あなたがたもその中にある、とパウロは語ります。パウロは厳しい言葉をローマの信徒に送ります。読んだ人は不愉快になったでしょう。しかし、その厳しさゆえに、このローマ書はたびたび歴史を塗り替える働きをしてきました。何故ならば、救いとは「自分の罪を知る」ことから始まるからです。近代を切り開いた宗教改革は、ルターがこのローマ書の研究を通して、罪の問題に目を開かれ、教会改革を行ったことから始まりました。「罪を知る」ことが救いの第一歩であるからこそ、パウロはローマ教会内のユダヤ人信徒、異邦人信徒に厳しい言葉を投げかけるのです。
3.神の引渡しとしての受難
・パウロは人間の本質的な罪が、異邦人にもユダヤ人にもあると告発します。ではどうしたら人は罪から解放されるのか、パウロは神から与えられた無償の赦しを見よと語ります。赦される人間の方は無償ですが、赦す神の方は代価を払われます。それが御子の十字架死です。今日の招詞としてローマ8:32を選びました。「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか」。この御子を「死に渡された」、という言葉は、先にみた「パラディドナイ」という言葉です。神は御子を「死に引き渡された、放置された」、何故ならば「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」(へブル9:22)からです。だから神は御子を私たちのために「放り投げて下さった」、それが御子の十字架死なのだとパウロは言います。
・パウロは律法を厳格に守るパリサイ派に属するユダヤ人でした。彼は自らを「同年輩の多くの者たちに比べ・・・先祖からの伝承に人一倍熱心」であったと語ります(ガラテヤ1:14)。その律法への熱心がパウロに、律法を軽視するキリスト教徒の迫害に走らせました。彼にとって、十字架で殺されたイエスを救い主として仰ぎ、律法を軽視するキリスト教徒は許しがたい存在でした。その彼がキリスト教徒を捕縛するためにダマスコに向かう途中で、突然の回心を体験します。天からの光に打ちのめされ、「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」という声を聞きます。彼は問います「あなたはどなたですか」。それに対して答えがありました「私は、あなたが迫害しているイエスである」(使徒9:5)。
・そのパウロは、キリストに出会う前の自分はどのような状況に置かれていたかをローマ7章に書いています。律法に熱心な者として戒めの一点一画までも守ろうとした時、彼が見出したのは、「律法を守ることの出来ない自分、神の前に罪を指摘される自分」でした。律法を通してパウロが見出したものは、律法を守れない自分が罪人であり、その罪から解放されていない事実でした。パウロが出会ったのは裁きの神でした。だからパウロはうめきの声を上げました(ローマ7:24 私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか)。その声に応えて復活のキリストが彼に現れました。パウロは限界状況に直面して、神に出会ったのです。その救済体験が「私たちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えます」(3:28)という確信になっています。
・宗教改革者マルティン・ルターもパウロと同じ経験をしています。彼は、若い時には、厳格な修道院生活を送り、毎日を修行の中に過ごしていました。しかし、どんなに修行しても、平安は与えられず、彼は激しい罪意識を抱きます。彼にとって神は、怒りに満ちた、裁きの神でした。しかし、ある日、ルターに突然の光が与えられます。ローマ書の学びを通して、彼は「人間は苦行や努力による善行によってではなく、ただ信仰によって救われる。人間を義とするのは神の恵みである」という理解に達し、ようやく平安を得ることができました。パウロと同じように、律法や行いを通して救いを求めた時、神は怒りの神として立ちふさがりましたが、すべてを放棄して神の名を呼び求めた時、世を救おうとされる恵みの神に出会ったのです。この新しい光のもとで聖書を読み直したルターの福音理解が、宗教改革を導いていきました。
・「人間がどのように努力しても、救われることも義とされることも出来ない。そういう窮地に陥っている人間に神の方から救いの手が伸ばされた」、それがキリストの十字架です。この真理は理性で理解できるものではありません。それは復活のイエスとの出会い体験で与えられる。その時、パウロの「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」(第一コリント1:18)の言葉が理解できます。「神の子が地上に来た、御子の十字架死を通して救いが来た」、この世の知恵では愚かな言葉です。しかし「救われる者には神の力」、私たち自身がキリストと出会った時に初めてわかる真理なのです。その出会いを求めて私たちは教会に集います。