江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年8月15日説教(ローマ5:12-21、原罪からの解放~敗戦記念日を覚えて)

投稿日:2021年8月14日 更新日:

 

 

1.人間の罪の究極としての原罪

 

・「ローマの信徒への手紙」は、パウロが帝国の首都ローマにある教会に宛てた書簡です。パウロはいつの日か、世界の中心である帝国の首都ローマに行って伝道したいと願い、未知のローマの教会に手紙を書いています。通常であれば挨拶と自己紹介の簡単な手紙になるはずでしたが、ローマ教会には「ユダヤ人と異邦人の対立」があり、そのため、パウロは詳細な「罪からの救い」(救済論)を書くに至りました。ローマ教会はユダヤ人と異邦人の混合共同体でしたが、その共同体の中に民族の対立が生まれ、コリントにいるパウロにもその知らせが届きます。同じ信仰を持つ者の間に、なぜ対立や争いが生じるのか、パウロはその根源に、「人間の罪」を見ます。「罪」の文字はパウロ直筆の手紙に81回出ますが、そのうち60回はこのローマ書に現れます。ローマ書とはまさに「罪を主題にした書簡」なのです。

・パウロは最初の挨拶の言葉を終えるや、「罪とは何か」を説き始めます。異邦人の罪は、「神を知りながら、神を神として認めない」ことからくるとパウロは語ります。神は、その人間に対して、「彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられた」(1:24)。神の「懲らしめとしての欲望の放置」は、まず性的な放縦として現れ、同性愛や不倫が横行します。またそれは、対人関係に関する悪としても現れます。「自分さえ良ければ良い」というエゴイズムが人間世界を支配し、お互いを傷つける悪が生まれ、それらの悪が人を悲惨に陥れて行きます。神という絶対者のいないところでは、自分が神となり、欲望が露わに表に出る、それが性的放縦やエゴイズムとなるのです。そして「神を神として敬い、神の戒め(律法)を大事にする」ユダヤ人は罪から解放されているのか、「そうではない」とパウロは一転してユダヤ人の罪を指摘し、「異邦人もユダヤ人も罪の中にある」と結論付けます。「善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない」(3:12-18)。

・パウロは、人間の罪は人類の始祖「アダムの罪」から始まったと考えています。「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(5:12)。アダムの罪とは、彼が神の戒めに背き、智恵の木の実を食べたことに始まります。被造物が創造主である神から離れようとすれば、彼は死にます。罪を犯したアダムに神は宣言されます「お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3:19)。

・アダムはヘブル語で「人」を指します。アダムという人類の始祖が罪を犯したというよりも、アダムに代表される人間が、「罪を犯し続ける存在」であることを示すために、創世記は物語化されました。その後の教会では、人間の罪の問題を「アダムの堕罪の結果」とする原罪論が広く承認され、パウロもこの流れの中にいます。パウロは創世記に描かれたアダムに「人間の原型」を見て、彼の神への背きこそが「罪と死」をもたらしたと考えました。現実の人間は「幸福でありたいという願い」が、「不幸であるという現実」によって侵され、「真実でありたいという理想」が、「偽りを行っているという自覚」の中で戦わざるを得ない状況下にあります。パウロ自身がそのことを深く自覚していました。彼はローマ7章で告白します「私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善を為そうという意志はありますが、それを実行できないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(7:18-19)。これこそが原罪の働きです。

 

2.しかし、一人の従順が原罪からの解放をもたらした

 

・アダムの罪によってこの世界に死がもたらされました。しかし「キリストの死に至るまでの従順」が、アダムの罪を超える恵みをもたらしたとパウロは語ります。「恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです」(5:15)。キリストの死に至るまでの従順によって、「罪があっても、神の前に義とされる」恵みが与えられました。パウロは語ります「この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働く時には、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです」(5:16)。パウロは続けます「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです」(5:17-18)。

・パウロは結論づけます「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」(5:19)。人がアダムであった時=人間の本性に従って生きている時、そこは罪が支配する死の世界でした。神に背いているという人の在り方が、多くの個々の罪を生みました。しかしキリストにあっては、恵み(カリス)が支配します。人はキリストの贖いの業によって、「罪の世界」から「恵みの世界」に移されます。

 

3.キリストの贖いの業を受け入れる

 

・今日の招詞にローマ5:10-11を選びました。次のような言葉です「敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです」。パウロは信仰の核心を「神との和解(平和)」の中に見出しました。それは彼が自ら血の汗を流して得た真理です。キリストを信じて平和を見出す前のパウロは、「神の怒り」の前に恐れおののいていました。熱心なパリサイ派だったパウロは律法を守ることによって救われようと努力しますが、心に平和はありませんでした。

・パウロの救いを妨げているのは、彼の中にある罪です「内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」(7:22-24)。罪にとらえられているという意識、その結果神の怒りの下にある恐れが、パウロをキリスト教徒への迫害に走らせます。心に平和がない人は他者に対して攻撃的になります。自分を守るために他者を攻撃するのです。しかし、復活のイエスとの出会いで、パウロの思いは一撃の下に葬り去られました。

・パウロは死を覚悟しましたが、彼を待っていたのはキリストの赦しでした。恐ろしい神との敵対は一瞬のうちに終結し、反逆者パウロに神との平和が与えられました。だから彼はローマ5章で語ります「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」(5:6-8)。キリストは「神への反逆者であった私」のために死んでくださった。そのことを知った時、パウロの人生は根底から変わらざるを得なかったのです。

・パウロは続けます「それで今や、私たちはキリストの血により義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」(5:9)。「キリストの血によって」、キリストが私のために死んでくださって自分の罪が赦された、その罪の赦しを通して神と和解することが出来た、だから今は「神の平和」という恵みの中にいるとパウロは告白しているのです。彼は言います「私たちは神を誇りとしています。キリストを通して和解させていただいたからです」(5:11)。ローマ書はパウロの熱い肉声を伝える書なのです。

・「人間の罪」は、戦争という非常時の中で最大化されます。人間の歴史は戦争の歴史であり、私たちの国も繰り返し戦争を行ってきました。今日は8月15日、敗戦記念日です。私たち日本人は8月15日を「神の審きの日」と受け止め、戦争放棄を掲げる憲法を制定し、「もう戦争はしない」と決意しました。8月15日を敗戦記念日と呼ぶ時、そこには自分たちの罪に対して神の審きが下されたという悔い改めがあります。私たちは中国や韓国で取り返しのつかない罪を犯した、済まなかったという気持ちがそこにあります。ところが時代が移り、8月15日の意味が変わってきました。「敗戦記念日」という呼び名が、いつの間にか「終戦記念日」に変わります。終戦記念日と呼び変えた時、「苦しい戦争がやっと終わった」というニュアンスに変り、「私たち日本人も戦争で苦しめられた。原爆では大勢の人が死に、空襲でこんなに被害を受けた」という被害者意識が出てきます。

・もう戦争はしない、戦争のための武器を持たないという平和憲法で再出発しながら、いまでは「自衛力を持ち、周りの国から尊敬される普通の国になろう」としています。世間の人は言うでしょう「8月15日を敗戦の日と呼ぶのは止めよう、76年も前のことではないか、日本人が罪を犯したとしてももう許されて良い十分な時は流れたではないか」と。しかし、私たちクリスチャンはこの日を敗戦記念日として覚えます。私たちの罪に対して神の審きが与えられた日として記念するからです。

・イエスは語られました「平和を実現する人は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)。現在の私たちは、国を守るために軍隊を持ち、他国と相互防衛条約を結び、他国に領土を軍事基地として提供しています。また唯一の被爆国であるにも関わらず、核の傘に入るために「核兵器禁止条約」に加盟することさえできていません。軍隊は国を救わないし、核の威嚇も他国との相互防衛条約も何の意味もないことを、私たちは76年前に痛いほど体験しました。また私たちクリスチャンは国を救うのは武器や同盟ではなく、神との和解がないからであることを知っています。神との和解がないから隣人との平和がないことを知っています。私たちはその思いを政治活動ではなく、福音の伝道を通して伝えていきます。そのために8月15日を「終戦記念日」ではなく、「敗戦記念日」、私たちの「悔い改めの日」として覚えます。

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