江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年1月10日説教(マタイ4:1-11、荒野の試みの意味するもの)

投稿日:2021年1月9日 更新日:

 

1.荒野の試み

 

・マタイ福音書4章の「荒野の試み」が今日の聖書個所として与えられました。「人はパンだけで生きるものではない」という言葉で有名な箇所です。この誘惑物語はマルコ、マタイ、ルカの三福音書にありますが,マルコの記述は非常に簡略です「それから、"霊"はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」(マルコ1:12-13)。他方、マタイとルカでは、誘惑の内容が詳細に記されています。マタイはマルコを原型とし、そこにイエスの言葉資料を加えて編集しています。

荒野の試みの物語は核になるイエスの体験を基本にして、教会が「イエスをどのような方として理解したのか」という信仰の物語として形成されています。

・物語に入ります。イエスは宣教の始めに洗礼を受けられ、この時天から声が聞こえたとマタイは記します(3:17)。イエスが、ご自分が「神の子として世に遣わされた」ことを自覚されたのはこの時であったと思われます。「神の子として何をすれば良いのか」、イエスはそれを聞くために荒野に導かれました。マタイは記します「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、"霊"に導かれて荒れ野に行かれた」(4:1)。"霊"に導かれて、神ご自身がイエスを荒野に導かれたとマタイは理解しています。古代の預言者モーセやエリヤも荒野で神に出会っています。イエスの最初の試練は、断食の後に来ました。「四十日間、昼も夜も断食した後、(イエスは)空腹を覚えられた」(4:2)、断食は人間の精神を鋭敏にします。断食して空腹になられたイエスの耳に、声が聞こえました「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(4:3)。声はささやきます「目の前の石をパンに変えて自分を救え、神の子ならできるだろう」。しかし、イエスは言われます「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4:4)。

・二番目の誘惑は、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」(4:6)というものでした。奇跡を起こして、神の子であるしるしを人々に見せよとの誘惑です。イエスの時代、多くの偽メシアたちが奇跡を起こして人々を惹きつけていました。イエスは奇跡を行う力を持っておられました。その力を自分のために用いればよいのです。「神の子なら力を自分のために用いよ」という誘惑に、イエスの心は動いたでしょう。しかし、イエスは答えられます「あなたの神である主を試してはならない」(4:7)。

・三番目の誘惑は、「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう」(4:9)という誘いでした。当時の人々が求めていたのは、ユダヤをローマの支配から解放する栄光のメシアでした。国の独立を人々は求めている、お前は人々を束ねる力を持っている、人々を束ねてユダヤの独立を勝ち取ることこそ、メシアの為すべきことではないかとサタンは誘います。イエスは、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(4:10)と言われて、この誘惑を退けられました。

 

2.荒野の試みの背景にある申命記を読む

 

・イエスが体験された荒野の試練は、いずれも「神の子なら」という問いかけで始まります。マタイ福音書が書かれたのは紀元80年代ですが、少し前の時代(紀元66年~70年)、ユダヤはローマに対して武装蜂起を行い、敗北し、多くの人々が殺され、エルサレムは廃墟とされています。ユダヤ人たちはメシアを待望していましたが、メシアは現れず、ユダヤは戦争に負け、国を滅ぼされました。「神の子なら何故我々を救えなかったのか」、マタイ時代の人々は教会に迫りました。「イエスは本当にメシアだったのか」、その批判に答えるためにマタイはこの物語を書いているのです。

・イエスは誘惑に対して、申命記の言葉を引用して答えておられます「人はパンだけで生きるものではない」(申命記8:3)、「あなたの神である主を試してはならない」(申命記6:16)、「ただ主に仕えよ」(申命記6:13)。申命記の背景にあるのは、イスラエルの出エジプト体験です。エジプトで奴隷だった民はモーセに導かれてエジプトを出ますが、彼らが最初に導かれたのは荒野でした。荒野だから、食べ物に乏しい。食べ物がなくなると民は神を疑い、つぶやきます「我々はエジプトの国で、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられた」(出エジプト記16:2-3)。不平を言う民に、神は天からマナを与えて養われました。その経験の中から生まれてきた言葉が「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)という告白です。エジプトを出た民は、恵みが与えられれば讃美しますが、困難が来れば神を疑う存在でした。あてにならない神の約束よりも、パンをくれるならエジプトの奴隷のほうが良いとする存在でした。だから神は彼らを荒野に導かれ、飢餓を経験させ、そしてマナを与えられました。誰が彼らを生かしているのかを知らせるためです。

・申命記には、約束の地に入った民がその後どうなったのかも書かれています。イスラエルの民は約束の地に入ると、定住して農耕生活を始め、倉を建て、作物を蓄えるようになります。豊かになった人々は蓄えに頼り、神を忘れ、偶像礼拝を始めます。やがて、豊かな人はますます豊かになり、貧しい人はますます貧しくなるという社会的不公平が生じてきます。そこから振り返った時、人々は、「荒野の方が良かったのではないか。そこには神との生き生きした交わりがあり、人と人が助け合う生活があった」ことに気づきます。申命記は語ります「この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」(申命記8:4)ではないかと。物質的な豊かさが人を幸福にしないことに彼らは気づいたのです。イエスは石をパンに変えられませんでした。労苦なしに与えられるパンは、人を養う力を持たないからです。パンがないという苦難を通して、荒野の厳しさの中で、私たちは神と出会うのです。

・石がパンに変えられるということは食べるものに事欠かない、生存の基本条件が保証されていることを意味します。高所から飛び降りて傷つかないとは、どんな危ない橋を渡ってもいつも奇跡的に神に守られて安全であることに他なりません。世界の国々とその栄華を手に入れるとは、権力や名声・栄光を一身に集中させ、独占することです。私たちはイエスに、そして神に、「私たちを幸せにしてくれる」ように求めています。しかしイエスはそのようなものは「信仰では無い」ことを示されました。それは自分のために神を利用しようとするご利益宗教に過ぎない。そのご利益宗教を、聖書は「偶像礼拝」と呼びます。

・ドストエフスキーの小説「カラマーゾフの兄弟」の中に、「大審問官」というエピソードがあります。その主題はイエスが受けた荒野の試練で、大審問官は「イエスが誘惑を拒否したから人間は不幸になった」とイエスを告発します。物語は、異端を処刑する薪が燃えさかる16世紀スペインの町セビリア、ある日キリストがそこに現れます。彼は泣き叫ぶ母親のため、たちどころに死んだ女の子を蘇らせ、町の善男善女は、すわイエス様と色めき立ちましたが、この話を耳にした宗教裁判の責任者・大審問官は、ただちにイエスを捕縛し、牢獄に閉じこめます。深夜、大審問官は密かに獄を訪れ、イエスをなじります「お前は人類に自由を与えたが、そのため人類がいかに苦しんだか知っているのか。お前は荒野で悪魔に試みられて、『人はパンのみに生くるにあらず』と答えた。あるいは我に従えば地上の栄華を悉くとらせようという申し出に対して、『主なる神にのみ仕えん』と、すげない返事をした。この時お前は身をもって、良心の自由を人間どもに示したのだ・・・だがお前の人間どもはどうだ。この哀れな生物には自由や天上のパンよりも、地上のパンが遙かに大事で、お前の言う自由のためにかえって困惑し、苦悶しているではないか」。大審問官は人々が求めているのは地上のパンであり、神の言葉などではないと断言します。

・大審問官はイエスを告発します「我々はお前の名のもとに、その彼らから自由を取り上げて、彼らの救済という大事業に着手し、すでにその完成を見ている。今頃お前が出てきては、彼らを再び苦しめるだけだ。明日は我々の仕事の妨害に来たお前を火あぶりにする」。大審問官の難詰に囚人イエスは終始沈黙を守られていました。審問官はしばらくの間囚人の顔を見つめ、何かを言い出す事を期待しますが、囚人イエスは無言のまま、九十歳の冷たい血の気の無い老人の唇に静かに接吻します。それが囚人のなしたすべてでした。大審問官は、戸口に寄っていきなり戸をあけて叫びます「さあ、出て行け。そしてもう来るな、どんな事があっても」、囚人は静々と歩み去っていきます。この物語は「まず地上のパン、神の言葉はその次だ」という現実の中で、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る言葉で生きる」という信仰が成り立つのかを問いかけます。

 

3.荒野の試みの背景にはイエスの十字架死がある

 

・今日の招詞にヨハネ第一3:16を選びました。次のような言葉です「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです」。弟子たちはイエスの生前には、イエスを本当には理解していませんでした。彼らはイエスこそイスラエルを救うメシアだと期待していましたが、そのメシアが無力にも十字架で死ぬ様を見て打ちのめされます。しかしその彼らに復活のイエスが現れ、彼らは根本的に変えられ、理解します。「イエスはその奇跡を行う能力の故に神の子であったのでは無く、力を自己のために用いることを拒否して、最後まで神の意志に従われたことを通して神の子であったのだ」と。

・人はパンだけで生きるものではありません。これはイエスが十字架上で証しされたことです。イエスは十字架にかかって死ぬ必要などありませんでした。危険が迫っているのであれば逃げることも出来たし、当局と妥協することもできた。しかし、イエスは敵の中心地であるエルサレムに行かれ、祭司や神殿を批判し、捕らえられ、十字架にかけられ、罵られました「神の子なら自分を救え。今すぐ十字架から降りるが良い。そうすれば、信じてやろう」。この言葉は荒野の試練と同じ言葉です「神の子なら奇跡を起こせ」。しかしイエスは力を自分のために用いることをされませんでした。もし、イエスが誘惑に負けて、十字架から降りられたら、何が起こったでしょうか。人々は驚き、イエスを崇めたかも知れません。しかし、それだけで、神の国は来なかったし、イエスは私たちとは無縁の存在だったでしょう。イエスは十字架で死なれる事によって、私たちの救い主となられました。「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました」。その感動が人にイエスに従うことを促すのです。

・本当の奇跡とは、イエスが「力を自己のために用いることを拒否して、最後まで神の意志に従われた」ことです。イエスは言われます「パンが足りないという現実から逃げるな。石をパンに変えても何も生まれない」。「苦しみがあっても耐え忍べ。試練は神が下さる祝福なのだ。試練によってあなたはたくましくされるのだ」。キリスト教海外医療協力会は募金を集めて、アジア地方の医師や看護師養成のための事業を行い、ペシャワール会はアフガニスタンの農業支援のために井戸を掘り、水路を開発しています。みな、「力を自己のために用いることを拒否して、最後まで神の意志に従われた」イエスに動かされて、「兄弟のために命を捨てる」活動をしています。ここに神の奇跡があり、私たちも従うように招かれているのです。だから私たちの教会はそれらの団体に継続的な献金を捧げることによって支援を行うのです。

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