江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年1月3日説教(マタイ3:1-17、イエスのバプテスマ、新しい出発)

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1.バプテスマのヨハネの宣教

 

・クリスマスが終わり、新年最初の礼拝の時を迎えました。私たちは改めて、昨1年を振り返り、コロナウィルス感染拡大の中で一日も休まずに礼拝を持てましたことを感謝いたします。今日から新しい年2021年の礼拝が始まります。この出発の時に当たり、イエスの出発点であるバプテスマの出来事を見ていきます。物語は3章1節から始まります「その頃、バプテスマのヨハネが現れて、ユダヤの荒野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った」(3:1-2)。そのころ、紀元28年ごろ、人々は「世の終わりは近い」と感じていました。イスラエルはヘロデ王の死後、三人の子供たちが領土を争い、混乱の中で首都エルサレムを含むユダ地方を治めるヘロデ・アルケラオ王は更迭されてローマの直轄領となり、ローマ支配に反対する人々はたびたび反乱を起こし、世情は騒然としていました。不安の中で、人々は乱れた世を救うメシアの到来を待ち望んでいました。そこに、洗礼者ヨハネが現れ、「天の国は近づいた」、「終末の裁きの時が近づいている」と述べ、人々に悔改めを迫りました。

・「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」(3:4)とマタイは記します。当時、ユダの荒野にはエッセネ派と呼ばれる修道僧たちが住み、祈りと断食の生活をしていました。彼等は罪を清めるために毎日水に入りましたが、ヨハネは体を洗っても人間に内在する罪は洗えないことを啓示され、人々に悔改めを迫る預言者として立てられます。ヨハネは叫びます「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」(3:7-8)、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(3:10)。ヨハネのもとへユダヤ全土から、またヨルダン川沿いの地方からも、人々が集まり、罪を告白し、バプテスマを受けました(3:5-6)。

・人々はヨハネこそ世を救うメシアかも知れないと期待しましたが、ヨハネは「私は悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、私の後から来る方は、私よりも優れておられる。私は、その履物をお脱がせする値打ちもない」と自分がメシアではないと語ります(3:11)。イエスはヨハネが「世の終わりが来た」として宣教を始めたのを故郷ガリラヤで聞かれ、「内心の声」に導かれて、故郷を出てユダに来られました。マタイは記します「その時、イエスがガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼からバプテスマを受けるためである」(3:13)。

 

2.ヨハネからバブテスマを受ける

 

・イエスはバプテスマを受けるためにヨハネの前に出ましたが、ヨハネは、イエスのバプテスマを思いとどまらせようとして「私こそあなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが私のところに来られたのですか」(3:14)と語り、それに対してイエスが「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(3:15)と答えられたと記します。これまで教会は、「イエスは神の子であり、何の罪を犯していないのだから、悔い改めのバプテスマを受ける必要はない」と、ヨハネがイエスに洗礼を授けることをためらったと理解してきました。しかし、それはあまりにも教理的な解釈です。イエスはあくまでも「人の子」として生まれ、「人の子」として育ち、「人の子」としてこの世の矛盾に怒りを感じられており、ヨハネの宣教の中に神の言葉を聞き、バプテスマを希望されたのだと思います。

・イエス当時の神殿は民の贖い、罪の救済の役割を担っていたにも関わらず、金持ちや貴族だけに目を向け、貧しい人々の救済は放置していました。また律法学者やパリサイ人は律法を守れない貧しい人々を、「罪人」と断罪して切り捨てていました。その結果人々は、「飼い主のいない羊」(9:36)のような状況に放置されていました。「神は人々をこのような不条理に放置されない、彼らもまた神の愛する子たちだ、彼らのために何かをしなければ」とイエスは思われたのでしょう。

・そのイエスの前に、神殿や教団の権威に遠慮することなく、人々に「生きる道」を教えるヨハネがいました。ルカ福音書によれば、ヨハネは人々に「いかに生きるべきか」を人々に語っています。「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」、「徴税人は規定以上のものは取り立てるな」、「兵士たちはだれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」 (ルカ3:11-14)。イエスはヨハネの新しい教えに感動され

、彼の弟子になるために受洗され、受洗後も、故郷には戻られず、ヨハネの下で学びを深められました。

・マタイは、イエスがバプテスマを受けられた時、「天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」と記します(3:16)。イエスの公の生涯はバプテスマを通して神の霊をいただくことから始まりました。その時、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者という声が、天から聞こえた」とマタイは記します(3:17)。「あなたは私の愛する子」、父なる神がイエスの決心を肯定してくださった。「私の心に適う者」、神の御心を行う者として自分は召されたことをイエスは自覚されたことを示す表現です。

 

3.赦されたからこそ悔い改めが

 

・今日の招詞にマタイ11:4-5を選びました。次のような言葉です「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。イエスは洗礼を受けられた後も、ヨハネ教団の一員として荒野に留まっておられましたが、次第にヨハネの言動に違和感を持たれるようになります。ヨハネの語るように、「罪びとを断罪し、悔い改めに至らせる」ことが、神の国なのかという疑問です。やがてヨハネはガリラヤ領主ヘロデ・アンテイパスを批判して、捕えられ、イエスはそれを契機にヨハネ教団から独立して、宣教を始められます。マタイは記します「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた・・・その時から、イエスは『悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた』」(4:12-17)。

・やがてイエスの評判が獄中のヨハネに届きます。ヨハネの使信は、「審きの時は近づいた、悔改めなければおまえたちは滅ぼされる」というものでした。ヨハネはメシアについて語りました「私の後から来る方(メシア)は・・・聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」(3:11-12)。ヨハネが期待したメシアは、不信仰者たちを一掃し、新しい世を来たらせる「裁き主」でした。しかし、イエスは罪人と交わり、貧しい人を憐れみ、病人を癒されている。裁きの時に罪人は滅ぼされる運命にあるのに、イエスは罪人の救いのために尽力されている。ヨハネは使いを出してイエスの真意を訪ねます。そのヨハネにイエスが語られた言葉が今日の招詞です。「福音とは喜ばしき訪れではないか。その喜びを聞いて、人は神の前にふさわしい者に変えられて行くのではないか」とイエスは語られました。

・ヨハネは預言者です。預言者は人々の罪を告発し、悔改めを促し、神の前に正しく生きることを求めます。だからヨハネは罪人を断罪し、悔い改めを求めます。私たちはキリストを伝えようとして、往々にしてヨハネの宣教を宣べ伝えています。「罪を認めなさい。悔改めなしには救いはない」、「信じなさい、信じない者は地獄に行く」。これは良い知らせ、福音ではありません。聖書が語り、イエス・キリストが命をかけて証しされたことは、「神はご自分の敵である者をさえも愛して下さる」という知らせなのです。「罪をまず認めさせて、その上で罪の赦しを語る。救いの前に罪人を造る」、これはヨハネ的な脅迫説教であり、イエスの語られた「良い知らせの訪れ」とは違います。イエスは「罪人は罪人のままで神の恵みを受ける」と語られました。若松英輔氏は著書「イエス伝」で語ります「理由は何であれ、入信することができない、あるいは祈ろうとしても祈ることができない、救われないと苦しむ人を横目に見ながら、自己の救いだけを求めるのが宗教であるならば、それは既にイエスの生涯が示していることとは著しく乖離している」。過ちを犯した人を排斥するのではなく、迎え入れることこそが、イエスの弟子となる道です。

・イエスの生き方を象徴する言葉がヨハネ8章にあります。姦淫の罪を犯したとしてイエスの前に連れてこられた女性にかけられた言葉です「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8:11)。まず罪の赦しがあり、その後に悔い改めを求める言葉があります。これが福音です。ここに、人を滅ぼすための裁きではなく、人を生かすための裁きが為されています。女性は姦淫の罪を犯したのでしょう。その女性に律法通り石を投げた時、一人の命が失われ、そこには何の良いものも生まれません。しかし、人を赦すことによって、人は生まれ変わり、新しい人生を生き始めます。そしてこの女性から命の水があふれ出し、周囲の人を潤し始めます。ここに本当の罪の裁きがあります。これこそヨハネには出来なかったイエスの為された裁きなのです。「罪人は罪人のままで神の恵みを受ける」、神の側から無条件の赦しを差し出された故に、私たちはバプテスマを受け、ここにいます。罪の断罪ではなく、罪の赦しを伝える良い年でありたいと願います。

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