1.御子の降誕と人々の反応
・クリスマス礼拝の時を迎えました。今年はマタイ福音書を読んでいきますが、今日読みますマタイ2章では、イエスがお生まれになった時、東方から三人の占星術の学者たちが星に導かれてユダヤの地に来て、幼子イエスを礼拝したとマタイは記します。「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来た」(2:1)。占星術、今日の言葉で言えば天文学で、当時の人々はすべての出来事は天の支配下に置かれており、星の運航を観察することによって未来を知ることができると考えていました。紀元前7年に土星(ユダヤ人の星と言われていた)と木星(王の星と言われていた)が接近して異常な輝きを示したとされており、それこそユダヤに王が生まれたとの告知であると信じて、占星術師たちがユダヤに来たと伝承されています。東方とはバビロンの地を指すとされ、そこでは旧約聖書が読まれ、「一つの星がヤコブから進み出る」とのメシア預言がありました(民数記24:17)。マタイはこれらの伝承を取り入れて福音書を書いています。
・マタイは、「メシアの星」を東方の占星術師たちが見て、「パレスチナに世界を救う王が生まれた」と示されて、その星を追ってユダヤに来たと記します。占星術の学者たちはエルサレムの王宮を訪ねて聞きます「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(2:2)。「ユダヤ人の王」という占星術師たちの言葉は、ユダヤ王ヘロデを不安にしました「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた」(2:3a)。ヘロデはイドマヤ出身の異邦人であり、ローマ帝国の後押しを受けてユダヤ王になりましたが、民衆の支持はありませんでした。ヘロデは王権の正当性を保つためにユダヤのハスモン王家の血を引く女性を妻に迎えますが、彼女が王位を狙っているとの猜疑心から、妻を殺し、妻の親族を殺し、ハスモン家の血を引く三人の子たちも反逆罪で処刑しています。このようなヘロデですから、占星術師たちの「ユダヤ人の王が生まれた」との言葉に、自分の王位を脅かす者の出現を予感し、不安になったのです。
・彼は「メシアは何処に生まれるのか」と祭司長たちに質しました。祭司長たちはミカ書の預言から、それはベツレヘムであると答えます。ミカは預言していました「ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中から一人の君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう」(2:6)。新しい王の誕生を聞いて、ヘロデ王だけでなく、エルサレムの指導者たちも不安を感じたとマタイは記します「エルサレムの人々も皆、同様であった」(2:3b)。現状に満足する者にとって、新しい世を開く神の子の出現は不安をもたらすのです。祭司長たちはメシアがベツレヘムで生まれるとの預言を知り、今またメシアが生まれたとの報告を聞いても、誰も礼拝に行こうとはしません。ベツレヘムはエルサレムの南10キロのところにある小さな村です。他方エルサレムは神の都と呼ばれた大きな町でした。しかしその大きな町では誰もイエスを礼拝しようとはせず、30年後、エルサレムの祭司たちは、イエスを「神を冒涜する者」として、十字架にかけます。マタイが福音書を書いた80年頃にはエルサレムはローマ軍により破壊され、廃墟となっています。「ユダの地ベツレヘムよ。お前は決して小さいものではない」と記すことによって、大きな町エルサレムではなく、小さな村ベツレヘムで救い主が生まれられたことの意味をマタイは強調しています。
・占星術師たちはベツレヘムを目指して出発します。東方でみた星が先立って進み、彼等はイエスとその両親が住む家に導かれます。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(2:9-10)。「学者たちは喜びにあふれた」、直訳すると「彼らはこの上なく激しく、喜びに喜んだ」になります。彼らは数千キロの道を超えてここベツレヘムに来て、ついに彼らの求めていた方を見出し、「喜びに喜んだ」のです。そして彼らは「ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」とマタイは記します(2:11)。
2.イエスとの出会いが彼らの人生を変えた
・ある注解者は記します「黄金、乳香、没薬は未来を占うために必要な商売道具だった。占星術師たちはそれを捧げた。もう占う必要がなくなったからだ」と。黄金は生きるために必要であり、乳香は礼拝を捧げる時に用いられ、没薬は死者を葬るときに用いられます。それらは彼らが占いをする上で必要な道具でした。学者たちは、将来起こることを知るために、星占いをしていました。しかし神は彼らに救い主を啓示してくださり、その救い主は「インマムエル=神共にいます」という名の幼子であった。将来何が起こるかわからなくとも、救い主が共にいて下さるのであれば、どのような未来も受けいれることが出来る、魔術や占星術はもはや不要となり、彼らは自分の最も大事にしているものを救い主に捧げたとマタイは語ります。
・代々木上原教会の村上牧師は語ります「クリスマスに聖書を読んで私たちが出会うのは、美しい話ばかりでない。当時の人々の胸騒ぎや心配、血も凍るような恐怖も伝わってくる。ヘロデは新しい王が生まれたとの言葉に、自分の王位を危うくする者が現れたとして、ベツレヘムの子供たちを虐殺する。この災いを逃れるために両親は生まれたばかりの幼子を連れてエジプトに逃れた。主イエスは生まれるとすぐに難民になったのである」。村上牧師は続けます「イエスの母は未婚で妊娠し、世間の冷たい目にさらされ、母マリアが産気づいたのは旅先で、どこの宿にも泊めてもらえず、そのために赤ん坊は馬小屋で生まれ、ぼろ布でくるまれて、飼い葉桶の中に寝かされた」。「成人して、宣教活動を始められてからは、自ら『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない』(8:20)といった貧困の中で過ごし、最後は十字架刑の上で、『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』(27:46)と絶望の叫びをあげてその生涯を終えた。このような一生を送るためにイエスはこの世に生まれた。これは何を意味するのだろうか」。
・イエスの生涯を彩るキーワードは、「未婚の母」、「ホームレス」、「貧困」、「幼児虐殺」、「難民」、まさに現代の私たちが直面するのと同じ苦しみ、悲しみをイエスは既に体験されています。「神は私たちの悲しみや苦しみを知られ、それを憐れむために、あえてイエスにこのような人生を与えたもうた」としか思えません。神学者モルトマンは語ります「イエスは私たちのために、私たちの故に、孤独となり、絶望し、見捨てられたからこそ、私たちの真の希望となりうる」。このような方、私たちの苦しみや悲しみをご存知の方、インマヌエル(共におられる)なる方が、私たちの主、救い主であるとマタイはクリスマス物語を通じて証ししています。
3.クリスマスの意味を考える
・マタイはイエスを神の子として最初に拝んだのは、ユダヤ人ではなく、異邦人であったと語ります。神の民とされたユダヤ人たちは、「新しい王が生まれた」との知らせに自分の地位を脅かす存在を感じ、これを殺そうとしました。他方、神の民ではないとされた異邦人たちは「ユダヤに世界を救う王が生まれた」との知らせを受けて、数千キロの道のりを旅して、幼子を礼拝するために来ます。このことを通してマタイは、神はユダヤ人だけではなく全ての人の神であり、イエスの救いは、民族の壁を超えて全ての人にもたらされることを告げています。
・今日の招詞にヨハネ1:11-12を選びました。次のような言葉です「言は、自分の民のところへ来たが、民は受入れなかった。しかし、言は、自分を受入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。神の民となるべく選ばれたユダヤ人はイエスを拒絶しましたが、異邦人はイエスを受け入れ、その結果救いが全人類に及ぶようになったとヨハネは語ります。マタイが福音書2章で述べている事柄を、ヨハネは別の視点から語っています。
・「言は、自分の民のところへ来たが、民は受入れなかった」。しかし少数の人はこの神を受入れ、そして「言は、自分を受入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。自分を超越する存在を知り、その超越者に生かされていることを見出した時、人は初めて異なる者を受入れることが出来ます。人は何故戦争をやめることができないのか、自分と違う人を信じられないからです。被爆国である日本が、何故、「核兵器禁止条約に加盟できないのか」、近隣の他民族を信じられないからです。マタイの教会では既にユダヤ人も異邦人も共に礼拝をしていたとされます。だからこそ東方の占星術師たちの来訪をマタイが福音書で大きく取り上げています。
・パウロは語りました「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:27-28)。同じ主を信じる者たちは、異なる民族や人種であっても、和解できます。キリストは私のために死なれましたが、同時に私たちが争いあう他者のためにも死なれました。そのことを知る時、初めて他者との和解が可能になります。キリストが来られた時、多くの人はキリストを受入れませんでした。その結果、人々は果てしない争いを今日に至るまで続けています。しかし少数の者たちはキリストを受入れました。神は私たちを「和解のための器」として選んで下さったのです。アッシジのフランシスは祈りました「主よ、私を平和の器とならせてください」。私たちは和解の器としての使命を神から与えられています。私たちは和解の福音を宣べ伝えるために、今日この教会に集められています。そして今日、一人の兄弟が「イエスこそ私の救い主である」と告白してバプテスマを受け、私たちの共同体に入られます。「言は、自分を受入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とのヨハネの預言の成就が今日、私たちの教会でも起こったのです。クリスマスは悲しみの中でも喜びが与えられる、そのような時なのです。