1.何事にも時がある
・コヘレト書を読み続けています。コヘレトは紀元前3世紀に生きた知恵の教師ですが、彼の著したコヘレト書(口語訳「伝道の書」)は、その内容が「神に対して懐疑的である」ことより、教会の中では正典としてふさわしいのかどうかが争われてきた書です。しかし、本音の言葉で人生の真実を指摘するその内容に、教会外の人たちも興味を持ち、もっと知りたいと考えている書です。最近ではNHKテレビでも5回にわたり放送がありました。コヘレト書には印象的な言葉が多くあります。今日のテキスト、コヘレト3章1節の言葉「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」も、心に迫る言葉です。私たちはこの世に生を受け、喜びや悲しみ、成功や挫折、様々の経験をしながら、年老い、やがて死んでいきますが、その時々に決定的な時を体験します。「何事にも定められた時がある」、私たちもそのことを実感します。
・コヘレトは語ります「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時」(3:1-2)。私たちの人生は誕生で始まり、死で終わりますが、いつ生まれ、いつ死ぬかを、私たちは決定出来ません。それは「定められた時」、神の支配下にあるとコヘレトは語ります。その与えられた人生の中で、いろいろな出来事が生起します。「植える時、植えたものを抜く時」、作物を栽培するにはまずふさわしい時に作付けを行い、一定の時が来れば収穫の時を迎えます。コヘレトは続けます「殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時(がある)」(3:3)。「殺す時、癒す時」、人と人は出会い、ある時には憎み合い、ある時には愛し合います。言葉の背景には戦闘行為があるといわれています。「破壊する時、建てる時」も同じ意味でしょう。コヘレトの生きた時代(紀元前3世紀)はエジプトとシリアの両大国がイスラエルを挟んでその勢力を争った時代でした。イスラエルは繰り返し、争いに巻き込まれ、ある時には戦争の時をコヘレトは生きます。その事情が8節「戦いの時、平和な時」に示されています。ここで語られる平和(シャローム)は単に戦争がないことではなく、秩序・正義・調和が保たれる時を示します。「泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時」(3:4)、人生は喜怒哀楽の連続です。
・時の中には私たちが決定できる時もありますが(求める時、保つ時)、多くの時は私たちの意思を超えた所で決定されます。人生の大きな枠組である「生まれる時、死ぬ時」は、私たちの選びの中にはありません。「私たちの時を支配しているのは私たちではなく、別の存在だ」とコヘレトは語ります。コヘレトはそれを「神」と呼びます。彼は語ります「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」(3:11A)。私たちは生きているのではなく、生かされています。しかし私たちは、生かす主体の神の業を「見極めることは許されていない」、だから人間には悩みが生まれるとコヘレトは語ります。「私は、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」(3:10-11)。
・死の後に何が待っているのか、人にはわかりません。天国に行くことは誰も保証してくれません。現代人の多くも神や超越者の存在を信じたいと思い、また死後の浄福や永遠の命を渇望していますが、既成宗教の提示する神や天国や永世は信じられないでいます。音楽評論家・吉田秀和氏は語りました「先日TVで地下鉄サリン事件の一周忌ということで、殉職した職員を弔う光景をみた。実に痛ましい事件である。あの人たちは生命を賭けて多くの人を救った。(中略)年をとって涙もろくなった私はそのまま見続けるのが難しくなり、スイッチを切った。切った後で、あの人たちの魂は浄福の天の国に行くのだろうか、そうであればいい、と思う一方で、『お前は本当にそう信じるのか』という自分の一つの声を聞く。そういう一切がつくり話だったとしたら、あの死は何をもって償われるのか」(朝日新聞、1996年4月18日夕刊)。神や超越者を信じたくとも信じられない、そこに現代人の不幸があります。
・「神のなさる業を見極めることは許されていない」、神は私たちに「永遠を思う心」を与えられました。しかし私たちが見ることが出来るのは過去と現在であり、過去と現在から将来を予測しようとしても将来は見えません。だから「人間にできることは与えられた現在を精一杯生きることだ」とコヘレトは語ります。「私は知った、人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは神の賜物だ、と」(3:12)。人は明日のことはわからない。そのことを不安に思い、嘆く時に、人生は不安なもの、空しいものになります。そうではなく、「明日のことは神に委ねる」生き方を選んだ時、平安が与えられます。イエスは言われました「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)。
- 与えられた時を生きる
・人には神から与えられた時があります。私たちは今現在を生きています。しかし私たちの人生は死によって限界づけられています。だからこそ、現在生きることに意味があるとコヘレトは語ります「私は知った、すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。今あることは既にあったこと、これからあることも既にあったこと。追いやられたものを、神は尋ね求められる」(3:14-15)。
・私たちが正しく生きようとしても、この世の現実は不条理に満ちています。正義を行うべき司法の場にも、行政の場にも悪があります。しかし「人はやがて神の裁きを受ける、正される時が来る、だから悪の存在に絶望しない」とコヘレトは語ります。「太陽の下、更に私は見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。私はこうつぶやいた。正義を行う人も悪人も神は裁かれる。すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある」(3:16-17)。不正に対して戦ってみても、現実は何も変わりません。2011.3.11に福島で原発事故が起こり、数万人の人が今なお避難生活を行い、原発周辺は立ち入りが制限されています。また原発の放射性廃棄物の処理にも目処が立っていません。その中で原発の再稼働が進められています。福島の原発事故をなかったことにしようとの政治の動きがあります。いくら反対してもその流れは変わらない。沖縄の人々がいくら辺野古への基地移転に反対しても、国はアメリカ軍基地の建設を止めません。70年前に沖縄戦で死んでいった人々の悲しみが封じ込められています。「何をしても空しい」、コヘレトが語る通りです。しかし、その空しさの中で、「すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある」ことを信じ、そのために今為すべきことをする。これがコヘレトの教える生き方です。
- 生かされた時を生きる
・今日の招詞にマルコ1:14-15を選びました。次のような言葉です。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」。「時は満ちた」、この時という言葉は、カイロスという言葉です。ギリシア語の「時」には、「カイロス」と「クロノス」があります。通常の時間(クロノス)の流れの中に、「その時(カイロス)が来た」、「救いの時(カイロス)が来た」とイエスはその宣教を始められました。コヘレトの語る、定められた時=ヘブル語ゼマンをギリシア語に翻訳したのがカイロスです。ナザレのイエスが来られることによって、決定的な時(カイロス)が来たと新約記者は理解しました。パウロが語ります「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤ4:4)。
・「定められた時がある」という言葉が人生を変えたと語るのは、政治学者の姜尚中氏です。彼は1950年熊本に在日韓国人二世として生まれ、早稲田大学政治学研究科博士課程を経て、ドイツ・エアランゲン大学に留学、1981年31歳時に帰国しますが、就職先がなく、大学非常勤講師やアルバイトをしながら働いていました。彼はNHKのインタビューの中で語ります「僕は主夫業そして非常勤をやりながら、今でいう非正規雇用に近い不安感の中にあった。その時、上尾合同教会の土門一雄牧師に私淑して洗礼を受けた。その中で彼が私に残した言葉は、『すべてのわざには時がある』だった。牧師は僕の姿を見て焦っていると思ったのでしょう。だから『すべてのわざには時がある、植えるに時があり、生まるに時があり、死ぬるに時があり、そして踊るに時があり、笑うに時があり、悲しむに時がある』と語った。ここから教えられたことは、今の自分は不遇かもしれないけど、必ず時が巡ってくるのではないだろうかと。その時のためにただ待つのではなくて、やっぱり日々の『今ここ』を頑張るしかないと。その後、土門牧師の紹介でICU(国際基督教大学)の助教授という定職をようやく得ることができた。37歳の時だった」(2012年5月10日NHK教育テレビ「仕事学のすすめ」から)。
・「必ず時が巡ってくる」、この「時」は、「カイロス(神が定めた時)」です。当たり前の時間の流れ(クロノス)の中に、突然に神の時(カイロス)が突入します。姜尚中氏はその時を「今ここを頑張りながら待ちました」と語ります。イエスが「神の国は近づいた」として宣教を始められたのも、このカイロスの時を指します。大事なことは、当たり前の時間の流れ(クロノス)の中に、ある日突然カイロスの時が来るが、それを意識しない人には、クロノスのままで終わるということです。姜尚中氏がどうせ駄目だと思って何もしなければ、せっかくの時も生かせなかった。イエスの「神の国は近づいた」という言葉を聞いて、イエスに従った人々はカイロスの時を持ちましたが、従わない多くの人にはイエスの招きはカイロスにはなりませんでした(ルカ14:17-20「宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った」)。私たちには将来のことはわかりません。宗教改革者ルターは語りました「たとい明日が世界の終わりの日であっても、私は今日りんごの木を植える」。世界がいつ終わるかわからない、また私がいつ命を召されるのか、わからない。わからないことは神に委ねて、私たちは今なすべきことを為していく、その時に「神の時(カイロス)」が私たちにも訪れるのです。