1.「終末は来た」として混乱する教会への手紙
・パウロは迫害と艱難の中にあるテサロニケ教会に二つの手紙を書いています。第一、第二の手紙です。テサロニケ教会は迫害の中にあり、パウロは彼らを慰めるために手紙を書きました。それが第一テサロニケの手紙で、紀元50年頃に書かれました。その後の時間の経過の中で、教会の人々が主イエスの来臨を待望するだけでなく、「主の日は既に来た」として、「日常の働きを放棄する者も出ている」状況に変わり始めてきました。そのためパウロは彼らに第二の手紙を書いて、「主の再臨をどのように待ち受けるべきか」を伝えます。それが第二テサロニケの手紙で、紀元51年頃とされています。
・テサロニケ教会のある人々は、迫害の激化の中で、「終末はすぐに来る。いや、既に来ている。仕事などしている時などではない」と熱狂し、教会を混乱に巻き込んでいました。パウロはそのような教会の混乱を心配し、「惑わされるな」と伝えます。「主イエス・キリストが来られることと、その御許に私たちが集められることについてお願いしたい。霊や言葉によって、あるいは、私たちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」(2:1-2)。
・テサロニケ第一の手紙に記された「終末の接近」というパウロの言葉が、テサロニケの信徒たちを慌てさせたのかもしれません。パウロは第一の手紙の中で書きます「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主の御言葉の通りに言いますが、主が再び来られる時まで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません」(第一テサロニケ4:14-15)。「主が再び来られる時まで生き残っている私たち」というパウロの言葉に、人々は終末が近いことを予感し、「世の終りの前には悪の力が強まり、信仰者は迫害されるだろう」とのマルコ13章の預言も併せて、教会内のある者たちは、自分たちに加えられる迫害や弾圧を、「終わりの時のしるし」と誤解したのかもしれません。
・人々は戦争・地震・飢饉・迫害等の緊急事態に遭遇すると、それを終末の前兆だと考える傾向があります。エホバの証人は1914年10月を「終わりの日の始まり」と定義し、4年後の1918年に「主の再臨」があると預言しました。第一次世界大戦が1914年に始まり、キリスト教徒同士が殺し合いを始め、戦死者1600万人にも達しました。史上最大の大戦争でした。加えて、スペイン風邪の大流行で当時の世界人口の三分の一にあたる5億人が罹患、2000万人を超える人が犠牲になりました。まさに「世界の終末」が迫っていると思わざるを得ない出来事を前に、エホバの証人の終末預言が為されています。彼らは言いました「諸国民の時は終わる」、「ヨーロッパの目下の大戦は聖書のハルマゲドンの開始だ」。しかし戦争が終わっても終末はありませんでした。終末の接近を唱えて人々の回心を強要する教えは福音ではありません。パウロは、天変地異は終末の前兆でも預言でもないと戒めます。「まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりする者に反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです」(2:3-4)。不法の者とは誰か、滅びの子とは誰か、いかようにも解釈できる事柄をパウロは語っています。
・また手紙の中で、パウロは「悪を抑えている者の存在」を語ります。「今、彼(サタン)を抑えている者があることは、あなたがたも知っている通りです。それは、定められた時に彼(サタン)が現れるためなのです。不法の秘密の力は既に働いています。ただそれは、今のところ抑えている者が、取り除かれるまでのことです。その時が来ると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御自分の口から吐く息で殺し、来られる時の御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます」(2:6-7)。ここの表現もまた理解が難しく、どのようにでも解釈できる言葉です。それが黙示の特徴です。この「抑えている者」が誰かは釈義が分かれます。歴史上は国家が秩序維持者として、「悪を抑える存在だ」とされてきました。しかし、初代教会はその悪を抑える役割を担うべき国家から迫害を受けました。教会は迫害の中で、「マラナタ」(主イエスよ、すぐ来てください、助けてください)と祈りました。
2.どのように終末を迎えるべきなのか
・人々は悪の支配が終わって、神の国が来る事を待望していました。イエスの弟子たちもそうでした。弟子たちは復活のイエスに尋ねます「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(使徒1:6)。それに対して、イエスは言われます「その時は神が定められるのであるから、あなたたちはそれを待て。そして今やるべき事をしなさい」(使徒1:7-8)。終末は信仰者には救いの完成の時です。だから私たちは福音の宣教にいそしみながら、その時を待ちます。パウロは語ります「あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。神は、このことのために、即ち、私たちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるために、私たちの福音を通して、あなたがたを招かれたのです」(2:13-14)。そしてパウロはテサロニケの人びとに語ります「兄弟たち、しっかり立って、私たちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい」。(2:15)。
・混乱期には、「今は仕事などしている時ではない」とか、「終末に備えて行動すべきだ」という者が必ず現れます。その人々に、パウロは、「毎日の生活の中で忠実に御言葉に従って生きることこそ求められている」と伝えます。「あなたがたのもとにいた時、私たちは、『働きたくない者は、食べてはならない』と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、私たちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」(3:10-12)。
- 聖書の勝手な解釈をしないで、主に委ねる
・今日の招詞に第一コリント13:12を選びました。次のような言葉です「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがその時には、顔と顔とを合わせて見ることになる。私たちは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」。私たちは終末がいつ来るのか、それがどのような形で来るかを知りません。また私たちが死んだ後どうなるのか、本当に天国があるのかも知りません。それは神の出来事であり、私たちは自分たちの未来を神に委ねれば良い。それを「知りたい、知ることが出来るはずだ」という誤った聖書の読み込みが、歴史上繰り返し起こってきました。
・典型的な例がヨハネ黙示録21章の解釈です。ある学者は語ります「ヨハネ黙示録21章は、神と悪魔の最終戦争で、悪魔は敗北し、古い世界があとかたもなく崩壊し、その後に新しい世界、神の国が始まると預言し、ここから千年王国論が生まれる・・・キリストが統治する千年王国という地上のユートピアは、サタン= アンチ・キリストを暴力的な闘争において打倒することによってのみ達成されるとする。17世紀半ばのイギリスにおいて、千年王国論がピューリタン革命を推進する力ともなっていくと同時に、この千年王国の思想はピルグリム・ファーザーズと呼ばれるピューリタンたちによって新世界アメリカにも移植される。彼らはアメリカを「ヨハネ黙示録」にある「新しい天、新しい地」として意識した」(丹治陽子「アメリカ的想像力における千年王国論的終末論」より)。神の国は神の恵みとして来ます。それを間違えると大変危険です。「新しい天、新しい地」、「神の国」を目指して建国されたアメリカが、今は世界最大の貧富や人種の格差社会になり、みんなが幸せになる社会を造ろうという共産主義運動が独裁国家を生み出しました。「人間が自分の手で造ろうとするユートピアは崩れる」、「神の国はあくまでも神の恵みとして来る」ことを踏まえることが大事だと思います。
・聖書が語るのはキリストに希望を置く終末論です「キリストの到来によって救いの完成が始まり、キリストと共に未来が既に始まった。私たちがイエスの人生と教え、十字架の死に至る彼の献身と復活を終末論的に理解するならば、私たちは山上の説教における戒めのメシア的解釈を、キリストの死と復活においてこの世における神の国の形成を発見する。神の国の倫理は服従であり、イエスへの服従の倫理は、イエスの未来を先取りする倫理である」(モルトマン・キリスト教倫理)。平易に言い換えれば「毎日の生活の中で、キリストの言葉に従って生きる」ことです。その生き方の一つが「キリストにある愚者」の生き方です。彼らは、世の中が悪い、社会が悪いと不平を言うのではなく、自分たちには何が出来るのか、どうすれば、キリストから与えられた恵みに応えることが出来るのかを考える人たちであり、この人たちによって福音が担われ、私たちにも継承されているのです。最後に皆様に大切な言葉を送ります「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」(ヤコブ4:15)、これが落ち着いた生活の極意です。