江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年6月21日説教(第一テサロニケ3:1-13、主と共にあることの喜び)

投稿日:2020年6月20日 更新日:

1.信仰と迫害

 

・パウロはテサロニケ教会を再訪したいと願っていたが、諸般の事情がそれを妨げたと語ります(「私たちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました・・・私パウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました」(2:18)。そのため弟子のテモテをテサロニケに派遣します。「そこで、もはや我慢できず、私たちだけがアテネに残ることにし、私たちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをそちらに派遣しました。それは、あなたがたを励まして、信仰を強め、このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした」(3:1-3)。

・テサロニケ教会の信徒はユダヤ教会堂からの分離したユダヤ人、ギリシャ人、婦人たちの集会であり、ユダヤ教徒たちから迫害を受けていたでしょう。またローマ総督に処刑されたイエスを主と仰ぐ信仰運動が、帝国内で危険な宗教とみなされ、テサロニケでは排斥運動が起きていたことも使徒言行録に記されています(使徒17:6-7「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています・・・彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています」)。パウロは手紙の中で、キリスト者になるとは、「この世では苦しみを受ける」ことである事を明言します。「私たちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。あなたがたのもとにいた時、私たちがやがて苦難に遭うことを、何度も予告しましたが、あなたがたも知っているように、事実その通りになりました」(3:3-4)。

・「キリスト者は世で苦難を受ける」、それは「キリストがこの世に属さない」ように、「キリスト者も世に属さない」からだとイエスは言われました(ヨハネ15:18-19)。しかし、キリスト者は迫害を受けてもなおイエスに従い続けます。それは何物にも代えがたい宝がイエスの福音の中にあるからです。人はだれかの役に立つ時にはじめて生きがいを感じる存在です。イエスの跡に従うとは隣人に仕えることです。小説家スチーブンソンはライ病者が隔離された島を訪れた時のことを旅行記の中に書き記しています「このところには哀れなことが限りなくある。手足は切り落とされ、顔は形がくずれ、さいまれながらも、微笑む、罪のない忍苦の人。それを見て愚か者は神なしと言いたくなろう・・・しかし、もう一度見つめるならば、苦痛の胸からも、うるわしさ湧ききたりて、目に留まるは、歎きの浜で看取りする姉妹達。そして愚か者でも口をつぐみ、神を拝む」。多くの修道女たちがライ患者のために生涯をささげている。スチーブンソンはその姿に中に、神の働きを見出しました。

 

2.相手の救いを喜ぶ信仰

 

・パウロたちは、フィリピでの伝道に失敗し、テサロニケでも町から追われ、アテネでも民衆の無関心の中で伝道に失敗しています。今はコリントにいますが、コリント伝道もうまく行っていません。そこにテモテからうれしい知らせが届きました。「テモテがそちらから私たちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。また、あなたがたがいつも好意をもって私たちを覚えていてくれる事、更に、私たちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたも私たちにしきりに会いたがっている事を知らせてくれました・・・私たちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました」(3:6-7)。

・パウロはこの「うれしい知らせ」を、福音(エウアンゲリオン)と呼びます。パウロにとっては待ちわびた吉報、まさに「善い知らせ=福音」なのです。パウロは語ります「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、私たちは生きていると言えるからです。私たちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています・・・顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています」(3:8-10)。パウロは神への感謝の祈りをしています。「どうか、私たちの父である神御自身と私たちの主イエスとが、私たちにそちらへ行く道を開いてくださいますように。どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、私たちがあなたがたを愛しているように。そして、私たちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、私たちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン」(3:11-13)。ここでは三つのことが祈られています。「道が開かれて、テサロニケへ行くことができるように」、「互いの愛が増し加えられ、豊かにされるように」、「主の再臨の時に、聖なる、責められるところのない者へと強めてくれるように」。

 

3.パウロの伝道旅行と再臨の希望

 

・今日の招詞に第一テサロニケ4:16-17を選びました。次のような個所です「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず、最初に復活し、それから、私たち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、私たちはいつまでも主と共にいることになります」。第二回伝道旅行(49-50年)では、パウロはシラス、テモテを同行し、フィリピ、テサロニケを訪問し、テサロニケから追放された後はアテネに行き、そこからテモテをテサロニケに遣わします。パウロは一度ならず二度も、テサロニケに行こうと「心を決めました」が、何らかの事情で行けなかった。そのようなこともあってがまんすることができなくなり、テモテだけをテサロニケに遣わしました。その派遣理由はテサロニケの人々の信仰を強め、励ますためです。苦難の中にあっても、動揺する者が一人もないようにするため、自分たちの労苦がむだになることがないように、とパウロは祈ります。教会はパウロの手紙に励まされました。だから、その写しを大事に保存し、やがて編集され、聖書の一巻となります。

・パウロをここまで伝道に駆り立てた情熱は何なのでしょうか。「キリスト再臨(パルーシア)の希望」です。パウロは、イエスの復活は新しい時代の幕開け(終末の始まり、悪の世の終わり)であり、やがてキリストが再臨され、神の国が来るという信仰を初代教会に語りました。その終わりの日までに何とかして一人でも多くを救いたいと願っていました(第一コリント15:22)。パウロは、彼自身が生きている間に最後の時、主の再臨があると信じていました。だから彼は伝道を急ぎます。それが招詞の言葉です。

・「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます」、招詞の言葉は、現代の私たちには受け入れ難い表現で記述されています。パウロはユダヤ教黙示思想の影響下で、再臨の神秘をこのように表明したのです。ピカソの「ゲルニカ」という絵があります。祖国スペインのゲルニカが爆撃されて多くの人が死んだ、その悲しみが誇張された牛や馬のいななきや抽象化された人の顔で表現されています。そのような誇張された、象徴的な表現でしか伝えられない真実があります。パウロの言葉も同じです。ですから私たちは、終末の時に、このような出来事が文字通り起こると考える必要はありません。このような表現を通してパウロが語るのは、「人が死ぬとは眠ることであり、最後の日に彼らは起こされる」ということです。

・復活信仰がもたらすものが再臨信仰です。私たちはイエス誕生を祝う4週間前から待降節(アドベント)の時を持ちますが、アドベント=待ち望むのは「イエスの再臨」です。しかし2000年たってもキリストの再臨はありませんでした。今日の私たちは再臨信仰を失ってしまっています。だから信仰が「熱くもなく、冷たくもなく、生ぬるく」なっているとヨハネは批判します(黙示録3:15)。内村鑑三は再臨信仰を「希望の信仰」と語ります。「基督再臨とは万物の復興である。人類の希望を総括したもの、それがキリストの再臨である。これを理解してすべてがわかる。再臨を信じて聖書がわかり、聖書がわかって神を解し、人生を解し、自己を解した。神は死の苦痛を除き、自分と自然とを永久に結び、贖われた身体をもって完成された天地に不朽の生命を受ける希望を賜うた。」(関根正雄編著『内村鑑三』)

・近年、キリスト教的終末論の見直しが始まっています。ニカイア信条はうたいます「我らは来るべき世の命を待ち望む」。「死ねばすべてが無に帰す」と考える人々は、地上の富の最大化を目指し、地上だけで人生を完結しようとします。これが現代の資本主義社会であり、他者に配慮しない強欲資本主義となり、貧富や民族の格差拡大を解消できず、行き詰まりを見せています。他方、キリスト者は「来たるべき世」の命を待ち望み、「現在の生」を大事にし、「他者との共存」を求め、「天の富」を待ち望みます。再臨信仰は、新しい可能性を開く希望の信仰なのです。

・世の人々は語ります「能力のある者はそれに見合った収入を得るべきであるし、多く努力した者はそれだけ多くの報いを得るべきである。もし全てが平等無差別であれば、人間は向上心を失い、怠け者の社会になってしまう」。一見もっともな論理ですが、それは強者の論理であり、聖書はそれを明確に否定します「もし能力によって差別がなされた時、身体障害者や知的障害者は低い生活に甘んじるのが当然になる。もし働きによって差別がなされた時、病人や老人は押しのけられる。神はそのような社会を望んでおられない」。私たちは競争社会を望みません。私たちが望む社会は、ヨハネが黙示録で夢見た社会です。「そのとき、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(ヨハネ黙示録21:3-4)。イエスは救いの到来の時を語ります「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(ルカ4:18-19)。主イエスの再臨の時は救いの完成の時です。ですから私たちはイエスの再臨を待ち望む(アドベント)のです。

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