江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年6月28日説教(第一テサロニケ4:13-18、再臨を待望する生活)

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1.再臨信仰

 

・パウロの書いたテサロニケ教会への手紙を読んでおります。今日、私たちは、テサロニケ人への手紙4章から、御言葉を聞いていきます。パウロはギリシャのテサロニケに福音を伝え、そこに教会が形成されましたが、その福音とは「イエスの十字架の死による購い、イエスの復活による救い、イエスの再臨による救いの完成」であったことが手紙の冒頭から読み取れます。パウロは言います「あなたがたは偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになった。また御子が天から来られるのを待ち望むようになった」(1:9-10)。「御子が天から来られる」、キリストの再臨です。現代の教会は、「十字架と復活」を中心に宣教しますが、初代教会においては、「再臨」、キリストが再び来られることを通して救いが完成することが信仰の中核的な意味を持っていました。主の祈りで、私たちは「御国を来たらせたまえ」と祈りますが、「御国が来る」、神の支配がこの地上に来るようにとの祈りこそ再臨、神の国の完成を待望する祈りです。

・再臨はギリシャ語では「パルーシア(到来)」ですが、それがラテン語で「アドベントゥス」となり、英語の「アドベント(待降節)」を意味するようになりました。クリスマスは、「イエスが来られた」事をお祝いすると同時に、「イエスが再び来られる」ことを待望する、すなわち再臨待望の時でもあったのです。今日の教会では再臨信仰が語られることは少なくなりましたが、初代教会の人々は、自分たちが生きている間にキリストが再び来られることを、当然のこととして信じていたのです。

・テサロニケではキリスト者は少数派であり、同胞からの迫害という苦難の中にありましたが、主が再臨され、神の国が完成すれば、苦難から救われるという希望に生かされていました。ところが教会員の一人がその再臨を見ずに死んでしまった。人々は動揺しました。再臨を待たずに死んだ者は、主の栄光=救いにあずかれないのではないか、自分も主が来られる前に死ねば救われないのではないかと、人々の間に不安が拡がっていきました。だからパウロは書きます「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」(4:13)。

・信仰を持たない人々にとって、「死は嘆き悲しむ出来事」であり、「死は受入れるしかない」出来事です。当時の手紙には次のように書いてあります「死に対して私たちが出来ることはありません。だからあなたたちはお互いに慰めあって下さい」(NTD新約注解・パウロ小書簡P442)。信仰を持たない人にとって、死は終わりであり、救いのない絶望です。これは現代においても同じです。多くの日本人は死を無の世界、全ての終わりと考えています。しかし、パウロは言います「イエスが死んで復活されたと私たちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(4:14)。キリストが復活されたのであれば、キリストを信じて死んだ兄弟もまた復活する、それなのに何故嘆き悲しむのかと。

・パウロは死者の復活の出来事を次のように描き出します「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、私たち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます」(4:16-17)。「ラッパの音を合図にしてキリストが天から降ってくる」、「私たちは空中で主に会う」、現代の私たちには受け入れがたい表現ですが、当時の人々は終末をこのように表現したのです。パウロがここで言っているのは、「人が死ぬとは眠ることであり、最後の日に彼らは起こされる」ということです。

 

2.キリストの復活を信じることは、自分たちの復活をも信じること

 

・パウロの手紙を通して明らかになるのは、テサロニケの人々は主の再臨の前に死ぬことを恐れた、つまり彼らは主イエスを信じて生きることしか考えず、その信仰の中に「死」を位置づけていなかったという事実です。だから死という現実が目の前に迫ってくると、動揺し、嘆き悲しみました。現代の私たちは彼ら以上に、死を認識しない生活をしています。かつては人生50年であり、若くして死ぬ人も多く、死がいつも隣にありました。しかし、人生80年になり、60歳になっても70歳になっても死なず、いつまでも生きるかのような幻想を私たちは持つようになりました。信仰においても死ぬことではなく、生きることが中心になってきました。

・主を信じ、その救いに預かるならば、苦しみや悲しみに打ち勝つ力をいただき、喜びと感謝の人生を歩むことが出来ると私たちは考えています。しかし、主を信じ、その救いにあずかる事の中に、「死がない」。だから近親者の死や自分の病気等により死が目前に迫ってくると、信仰者でさえ慌てふためく時代になりました。パウロが言うように「眠りについた人(死んだ人)たちについて、希望を持たない他の人々のように嘆き悲しむ」ようになったのです。

・現代の人々は、「自分自身が運命の支配者であり、自分自身が魂の主人である」と考えます。人々は死を意識せず、関心は現在に集中され、現在の幸福をあくまでも追求します。そのためにこの世は、自己利益を求める弱肉強食の世界になってしまい、弱い者、負けた者が苦しむ世界になりました。「勝ち組」、「負け組」、この世の有様を如実に示す言葉です。しかし、たとえ「勝ち組」になっても、死は歴然と存在し、死がすべての終わりであれば、私たちの人生は最終的には敗北します。

・信仰者は「この世界で進行している出来事は神の出来事であり、私たちの救いの物語であり、その物語はキリストの十字架と復活と再臨によって確かにされている」と考えます。信仰者は「死もまた神によって与えられる恵み」であると信じ、人生を走り終えた後、休息としての死が与えられ、最後の日には復活して永遠の命をいただく希望に生かされます。「死は眠りに過ぎない」、信仰者にとっても近親者の死は悲しい出来事であり、自分の死は怖い出来事です。しかし、その悲しみや恐怖を包む希望が与えられます。何故ならば、「キリストによって死は眠りに変えられた」という福音の言葉を聞くからです。

 

3.再臨信仰に立つ

 

・今日の招詞として、第一テサロニケ5:9-10を選びました。今日の聖書箇所に続く箇所です。「神は、私たちを怒りに定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、私たちのために死なれましたが、それは、私たちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」。パウロは死を眠りと表現します。「目覚めていても眠っていても」とは、「生きていても既に死んだとしても」、との意味です。眠るということは「目覚めて起きる時が来る」ことを意味しています。それが復活です。私たちの人生が死によって切断されるのではなく、死を通して続くことを信じることです。それは根拠のない信仰ではありません。イエスが十字架から復活されたことが確実であれば、私たちが死から復活することもまた確実なのです。

・パウロはコリント教会への手紙の中で、「キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえった」と語ります(第一コリント15:20)。歴史が語ることは、イエスの弟子たちはイエスに十字架に接して逃げましたが、やがて逃げた弟子たちが再び集められ、「イエスは復活された」と証言し、「証言をやめなければ殺す」と言われても、彼らは語り続け、死んでいきました。復活のイエスに出会うことを通して、「死が終わりではない」ことを信じたからです。復活は、キリストだけに起こった特別の出来事ではなく、キリストが「初穂」であり、私たちもそれに続くと初代教会の人々は信じたのです。

・現代は科学の時代です。私たちは科学的真理を信じます。しかしその結果、私たちは科学が承認することしか受け入れることができなくなり、復活を信じることが難しくなりました。復活を信じることの出来ない現代人は、ますます死の束縛の中に捕われ、死はタブーとなって社会から隠されました。しかし死は厳然としてあります。この科学の時代において、私たちは改めて復活の信仰を正しく語る必要があります。ヨハネ黙示録はイエスを「一度死んだが、また生きた方」と紹介します(黙示録2:8)。そしてこのイエスを信じる者は、「第二の死を死ぬことはない」と約束します。私たちは生物体として一度死ぬ。しかし永遠の命を与えられるゆえに、霊の死(第二の死)を死ぬことはないと語られています。

・私たちは復活を信じます。何故ならば、「神は、私たちを怒りに定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められた」と信じるからです。「イエスは私たちの初穂として復活された」、このことを信じる者は、この世の生に執着する必要がなくなります。この世で成功し、人から賞賛されることが人生の目標ではなくなります。それは同時に、障害を持って生まれ、幼くして命を召された子どもたちの人生も無駄ではなく、志半ばで病に倒れて亡くなられた方々の人生も無意味ではないと信じることを可能にします。「神は死を超えた命という救いをすべての人にお与えになった」、それが私たちの信じる福音です。私たちはこの福音を、病気で苦しんでいる人々や、親しい人を亡くして喪失感に悩んでいる人々に伝えていきたい。50年前にここに教会が立てられた、それは神が立ててくださった、そして今私たちはこの教会を拠り所にして、いまだ地の国にあって死の恐怖に震える人々に福音を伝える責務を負っています。復活と再臨の信仰に堅く立って、この教会を形成することこそ、私たちが決意すべきことなのです。

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