江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年5月31日説教(使徒言行録10:34-48、異なる人を受け入れる) 

投稿日:2020年5月30日 更新日:

1.異なる人を受け入れる困難 

 

・今日、私たちはペンテコステ礼拝を持ちます。イエスが捕らえられ、十字架にかけられた時、弟子たちは逃げました。その逃げた弟子たちが復活のイエスに出会い、エルサレムに戻り、「この人こそ神の子であった」と告白し、伝道していきます。教会には信仰者が集められていきますが、彼らはユダヤ人以外の人々には伝道しませんでした(11:19)。聖書を読まず、神の戒めを守らない異邦人を、神が救われるとは思えなかったからです。しかし、その教会の思いを変える出来事が起こりました。異邦人コルネリウスの回心です。・今日、私たちは使徒言行録10章を通して、出来事の意味を学んでいきます。使徒言行録は10章全体を通して、ローマ人の百人隊長コルネリウスの回心物語を記します。ただ一人の人の回心にために、聖書がこんなに長い紙面を割くのは異例です。それはこの事件が世界史的な意味を持つ出来事だったからです。神はユダヤ人だけでなく全ての人の救いを望んでおられることが事実を持って示され、このことを通して、福音はユダヤ人のための民族宗教から、世界宗教に発展していきます。

・10章からの流れを簡単に見ていきましょう。「カイサリアにコルネリウスという人がいた・・・百人隊長で、信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」(10:1-2)。カイサリアはローマ総督と軍隊が駐留し、ローマによるユダヤ支配の中心となった町です。その町に、コルネリウスという軍人がいました。彼はローマの百人隊長でしたが、「神を敬う敬虔な人」でした。この人が祈っている時、主の使いが現れて言います「ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい」(10:5)。コルネリウスは指示のままに、ペテロを迎えるための使者を送ります。

・同じころ、ヤッファの町にいたペテロにも幻が下ります。「ペトロは・・・天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。“ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい”と言う声がした。ペトロは言った“主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません”。すると、また声が聞こえてきた“神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない”」(10:9-16)。ユダヤには厳格な食物規定があり、汚れた食べ物は決して食べません。しかし、神は今、「私が清めた物を清くないと言ってはならない」と戒められました。ペテロが幻の意味を思い巡らしていた時、コルネリウスの使いが来ます。ペテロは、幻の意味が、「ユダヤ人が汚れた者として交わらない異邦人の家に行きなさい」ということだったと悟り、迎えの人たちと共にコルネリウスの家に赴きます。

・ペテロはコルネリウスに会い、彼が幻を聞いてペテロを招いた事を知り、この出会いは神が起こされたことを知りました。だから、ペテロは語ります「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」(10:34-35)。「神は人を分け隔てなさらない」、簡単な言葉のようですが、実は重たい言葉です。ユダヤ人はローマ人を汚れた者として、彼らとは交際しませんでした。そのユダヤ人ペテロが、神の働きかけの中に、異邦人の家に出かけ、福音を語りました。「イエスを信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる」(10:43)とペテロが語り続けていると、一同の上に聖霊が下ります。ペテロの言葉を聞いていた、コルネリウスとその家族が神を讃美し始めたのです。ペテロは言います「私たちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水でバプテスマを受けるのを一体だれが妨げることができますか」(10:47)。ローマ人コルネリウスが、新しく生まれたイエス・キリストの教会の交わりに加えられていったのです。

 

2.その困難を聖霊は崩す

 ・コルネリウスの回心物語が教えることは、回心あるいは悔い改めと言う出来事は、当事者の信仰や人格によって生まれるものではないということです。コルネリウスは熱心な求道者でしたが、まだ割礼を受けていませんでした。信仰はありましたが、それを形あるものにはしていなかった。そのコルネリウスに聖霊が働きかけてペテロを招かせ、バプテスマまで導きました。神の働きかけを通して、コルネリウスは傍観者から主体者となります。福音の真理は導かれて歩み続ける中で明らかにされていきます。傍観者が主体者になる、その行為がバプテスマを受けることです。・ペテロも聖霊に動かされて行為しています。ユダヤ人の彼にとって、異邦人の家を訪ね、彼らと食事を共にすることは、モーセの律法に反する行為でした。“異邦人と交わるな”と教えられて育ったペテロに、聖霊は「神が清めたものを、あなたが清くないと言ってはならない」と導きました。ペテロがコルネリウスの家を訪ねたこの出来事が、やがて世界史を変える出来事になっていきます。このローマ人の回心を通して異邦世界に福音が広がり始め、やがて、ローマはキリスト教を国教とします。イエスを十字架につけたローマ皇帝の子孫たちがキリストの前に頭を下げる、その第一歩がここに始まったのです。

・ペトロもコルネリウスも、一歩を歩み出すために、多くのものを捨てなければなりませんでした。ペトロは律法に従った生活を捨てました。エルサレムに戻ったペテロは、教会の人たちから「あなたは割礼を受けていない者たちの所へ行き、一緒に食事をした」と非難されています(11:3)。コルネリウスもローマ人でありながら、ユダヤ人イエスの前に跪きました。これはローマ社会で生きるコルネリウスに多くの困難をもたらす出来事です。私たちがバプテスマを受ける時にも同じ困難が生じます。日本でキリスト者として生きることは、少数者として生きることです。私たちは世に在りながら、世に属さない者として生きていきます。それにもかかわらず、神はバプテスマ決心者を起こして下さる。それが聖霊の働きです。

 

3.バプテスマを受けて一つになる

 

・今日の招詞にガラテヤ3:27-28を選びました。次のような言葉です「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。パウロは人間を区別する三つの大きな要素として、男女の性の区別、奴隷と自由人の社会的身分の区別、ユダヤ人と異邦人の民族の区別を挙げています。性と身分と人種、この三つはいろいろな形で、人間同士の争いを招いてきました。しかし、パウロは、教会はこの差別を乗り越えることが出来るといいます。「キリスト・イエスにおいて一つ」になることによってです。使徒言行録10章は、聖霊の導きによって、教会が異邦人差別を乗り越えることが出来たことを示しています。

・それにもかかわらず、教会はこの後も異邦人差別を続けます。エルサレム教会は「割礼なしに救いなし」として、以後も異邦人に割礼を受けるように強制します。パウロがガラテヤ書の中で、「キリストにおいては、ユダヤ人もギリシア人もない」と述べたのは、母教会エルサレム教会の中に「割礼を受けてユダヤ人にならなければ救われない」と主張する人々がいたからです。コルネリウスにバプテスマを授けたペテロも、やがてエルサレム教会保守派の圧力で、無割礼の人と食事を共にするのを避けるようになります(ガラテヤ2:12)。また教会においては何の差別もあってはならないと言ったパウロ自身が、やがて女性差別的な発言を行うようになります。このことが示しますことは、差別は人間の本質的な罪の一つであり、肉の体を持つ限りなくならないという事実です。私たちはこの事実を見つめた上で、「主において一つになる」ことを求めていく必要があります。

・人は異なる者を受け入れることが難しい存在であり、異なる者を差別し搾取する存在です。日本では、3Kと呼ばれる「きつい、汚い、危険」な仕事の多くを、アジアや南米から出稼ぎに来ている人々に行わせています。日本の中小企業は研修生という名目で中国等から若い労働者を大量に受け入れ、彼らに法定賃金を下回る過酷労働を課しています。介護労働を外国人にさせようという動きもあります。介護は体力・気力を必要とする重労働ですが、賃金が安いため、日本人の介護労働希望者が少なくなり、政府は不足の労働力をアジア諸国から導入しようとしています。戦時中の日本は、韓国や中国から多くの労働者を強制連行して、鉱山や工場での重労働に従事させましたが、同じことが現在も行われているのです。私たちはこの現実を見つめる必要があります。この現実の中で、私たちは異なる人々とどのように交わればよいかを模索する必要があるのです。

・私たちの教会のある江戸川区には、数万人を超える外国の人々が住んでおられます。日本人と結婚されたフィリッピンの婦人たち、在日韓国の人々、さらには中国やインドから来られた人々です。多くの外国の方がこの地域に住んでおられるということは、私たちがこの外国の人々に対して伝道の責任があるということです。外国人伝道は容易なことではありません。言葉の壁だけでなく、習慣や考え方の相違があります。さらに、人々は聖書の解き明かしだけでなく、生活改善の問題も教会に求めて来られるでしょう。イエスが行われたようないやしの業です。それらの人々を教会に迎える時、混乱が生じると思います。違いが混乱を生みます。しかし、その混乱を通して、何かが生まれていきます。

・伝道とは、異質な人との出会いにより私たちが変えられ、その違いが豊かさとなる出来事です。ペンテコステの日に起きたことを思い起こしてください。「一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:4)。教会は言葉の奇跡により、異なる人に福音を伝えるために設立されたのです。今日、私たちの教会は複数言語による主の祈りを讃美しました。ギリシア語、ラテン語、英語、フランス語、中国語、韓国語、タガロク語、日本語も文語訳、ケセン語訳、本田哲郎訳と多様です。既に私たちは言葉の異なる人に福音を伝える準備が出来ています。後は踏み出すばかりです。今多くの寄留の人々が、この江戸川区におられます。この人々への福音宣教をこの教会の課題にしていきたいと心から願います。

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