江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年3月29日説教(ヨハネ18:28-40、真理とは何か)

投稿日:2020年3月28日 更新日:

1.イエスとピラト

 

・私たちは受難節を迎えています。今年は、4月11日・土曜日に受難日礼拝を、12日・日曜日に復活礼拝を持ちます。今日は、受難日を前に、ローマ総督ピラトによるイエスの裁判の記事を読みます。ピラトの行った裁判は後に使徒信条にも書き込まれ(「主は・・・ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に」)、ピラトは稀代の悪人として、教会史に名を残しています。実際には何があったのでしょうか。ヨハネ福音書を読み解いていきます。

・木曜日の深夜、イエスはエルサレム郊外のゲッセマネで捕らえられ、大祭司の屋敷に連行されました。大祭司はイエスを「神を冒涜する者」として死刑を宣告しますが、当時のユダヤはローマの植民地であり、ユダヤ最高会議は死刑執行権を持たなかったため、彼らはイエスをローマ総督官邸に訴えます。金曜日の明け方のことです。総督ピラトは彼らの所に出てきて、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と訊ねます(18:29)。ユダヤ人たちはイエスを、「ローマに対する反逆者」として告発しました。ピラトはユダヤ人たちの宗教上の争いで、イエスが捕らえられたことを知っていました。だから言います「お前たちの律法に従って裁け」(18:31)。ユダヤ人たちは反論します「私たちには死刑執行権がありません」(18:31b)。やむなくピラトがイエスを裁くことになりました。

・ピラトがイエスに最初に聞いたのは、「お前はユダヤ人の王なのか」という問いでした(18:33)。イエスが「そうだ」と答えれば、彼はローマへの反逆者として有罪になります。この後も、ピラトがイエスに繰り返し尋ねるのは、「あなたはユダヤ人の王なのか」の一点だけでした。ピラトの問いに対して、イエスは逆に問われます「あなたは自分の考えでそう言うのか、それとも他の人の考えか」(18:34)。ピラトの考えであれば、彼はイエスをローマに反逆する地上の王と考えているわけであり、イエスはそうではないから、イエスの罪は否定されます。他方、ユダヤ人のいう意味での「王」であれば、それは「メシヤ=救い主」を意味し、イエスはそうですから、これを肯定されます。イエスはピラトに問い返されましたが、ピラトはそのような問題に関心はありません。ローマの行政官として彼の関心は、「イエスがローマに反逆しているかどうか」です。だからピラトは訊ねます「あなたは何をしたのか」(18:35)。

・イエスにとって自分が神から遣わされた者であることを証しすることは大事なことでした。故にイエスは言われます「私は王である。しかし、私の国はこの世には属していない」(18:36)。イエスは地上の国の王ではありませんが、神の国の王です。神の国は見えないし、神の国はこの世のものでもない。しかし、この世に存在しています。私たちは、日本というこの世の国に属し、同時に神の国にも属しています。二つの国は秩序を異にしますから、私たちは日本を愛し、日本のために働きながら、同時に神の国を愛し、神の国のために働くことが出来ます。「神のものは神に、カイザルのものはカイザルに」(マルコ12:17)という聖書の言葉はこれを意味します。

・しかし、二つの国の原理が衝突する時があります。その時、私たちは神の国の住民として、地の国と戦います。今、イエスが置かれている状況がそうです。地の国の代理人であるローマ総督ピラトが、「あなたは王か」と聞けば、イエスは敢然として「私は王である」と答えられます。たとえ、その答えが死を招くとしても、イエスは「その通りだ」と答えられます。ピラトは確認します「それでは王なのだな」(18:37)。イエスは答えられます「その通り、私は王である」。イエスは真理の国の王です。

 

2.真理で形成される神の国

 

・イエスは語られます「私は真理について証をするために生まれ、そのために世に来た」(18:37)。イエスは父なる神から遣わされて世に来ました。そして、父なる神がどのような方であるかを語りました。イエスの言われる真理とは父なる神のことです。ローマは武力によってその帝国を拡大していきますが、イエスは真理(神)を証しすることを通して神の国を広げていかれます。ピラトには理解できません。故に彼は尋ねます「真理とは何か」(18:38)。

・ピラトは、「何が真理か」について関心があるわけではありません。彼の関心は、「誰が支配者であり、誰が力を持っているか」です。彼はローマ総督として、目はローマを向いています。従って、ここユダヤで本国の不興を買うような面倒を起こしたくない。地元のユダヤ人たちを怒らせるようなことは避けたい。他方、行政官として、彼はイエスが処罰すべき反逆者でないことはわかりました。だから、イエスを釈放しようとします。ピラトはこの二つの欲求を調和させようと試み、ユダヤ人たちのところへ行き「イエスは無罪だ。釈放しよう」と提案します(18:38b)。しかし、ユダヤ人たちは納得せず「イエスを死刑にしろ」と要求します。彼らはさらにピラトを脅して言います「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いている」(19:12)。ピラトは正義よりも妥協を選び、ユダヤ人の要求するように、バラバを釈放し、イエスに死刑を宣告します。

・ヨハネの記事では、イエスを死刑に追い込んだのは、ユダヤの祭司長たちであったとされていますが、実際にイエスを処刑したのは、ローマ帝国です。ローマ帝国がイエスを、「社会の治安を乱す者」として処刑した。ではユダヤの祭司長たちは「罪がないのか」、それもまた違います。祭司長たちは、「イエスを殺すことが神のためであり、神に仕えることである」と確信していたのです。パスカルはパンセの中で語ります「人間は宗教的信念をもってするときほど、喜び勇んで、徹底的に悪を行うことはない」。十字軍によるユダヤ人の大虐殺や、中世における異端審問の罪も同じです。そこでは「神の名によって真理が殺される」、誤った宗教的盲信もまた罪なのです。

 

3.真理とは何か

 

・今日の招詞にヨハネ8:31-32を選びました。次のような言葉です。「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『私の言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする』」。ユダヤ教指導者たちは神の真理を知ろうとしませんでした。だから、彼らはイエスを捨てて、バラバを選びました。バラバは「暴動と殺人のかどで投獄されていた」(ルカ23:19)とありますから、ローマへの抵抗運動の指導者であり、民衆にとっては英雄的存在であったのでしょう。バラバは暴行の人、流血の人であり、目的のためには手段を選ばない人です。このバラバを選択したことが、ユダヤ亡国の始まりになりました。この後、ユダヤ人たちはローマへの抵抗を強め、終にはローマに対する独立戦争を始め、負けて国は滅びます。紀元70年、イエスの十字架死の40年後です。

・ピラトもまた真理を知らず、関心も示しませんでした。彼は「真理とは何か」と聞きながら、その答えを聞こうともせず、部屋を出て行きます。ヨハネ福音書では真理についての対話は突然途切れますが、聖書外典・ニコデモ福音書(ピラト行伝)第四章には続きがあります。(ピラト )「真理とは何か」、(イエス)「真理は天に属する」。(ピラト)「 地上には真理はないのか」、(イエス)「真理を語る者が地上で権力を持っている者により、どのように裁かれているかは貴下の知るところだろう」 。イエスはこの世の真理であるローマ法により裁かれようとしていますが、“まことの 真理 ”であるイエスが、“かりそめの真理 ”であるローマ法によって裁かれる皮肉をニコデモ福音書は描きます。ピラトはイエスが無罪であることを知っていましたが、ユダヤ人の圧力に負けて、正しい決断が出来ませんでした。ピラトはやがて皇帝に疎まれて失脚し、自殺したと伝承は伝えます。真理を聞こうとしない者は滅びるのです。

・真理こそ、国を造り、社会を造り、私たちの人生を完成させる力です。ローマは軍隊と法律によって、当時の世界を征服し、未曾有宇の世界帝国を建設しました。しかし、外敵の侵入と内部の堕落により、400年後に滅びました。キリスト教はイエスの死後、弟子たちが真理を証しする伝道を始め、やがて全世界に普及していきます。権力による征服は華々しいが一時的であり、真理による伝道は地味ですが、永続的です。イエスに勝ったかに見えたローマ帝国が、やがてイエスの弟子たちにより滅ぼされていきます。

・国立国会図書館本館2階ホールの壁に、「真理が我らを自由にする」という言葉が刻み込まれています。そこには日本語と共にギリシャ語でヨハネ8章32節の言葉も掲げられています。国会図書館は昭和23年に出来ましたが、創設に関わった羽仁五郎の提唱でこの言葉が掲げられました。戦時中の日本では、思想や学問は政治の統制下にあり、自由な発言や議論はできませんでした。今、戦争が終わり、新しい時代になり、学問の自由が与えられた、「さあ学ぼう、真理が私たちを自由にするのだから」。その意気込みが、言葉の中にあります。それから70年、現代の日本はまた、真理が覆い隠され、自由が抑圧される時代になりつつあります。森友、加計、桜を見る会等々の諸問題があやふやのままに幕引きされようとし、権力に逆らう人間は排斥される傾向が目立ちます。権力者の罪も、短期的には新型コロナウイルスの感染拡大に覆われて、「真理が明らかになる」可能性は少ないかもしれません。しかし真理はやがて明らかになります。

・今日、多くの人々は、真理に関心を示しません。真理を知っても、収入が増えるわけではないし、出世できるわけではない。逆に真理を知ることによって、この世の悪が見えてきて、生きづらくなります。しかし、歴史が示しますことは、真理は最終的に勝つということです。真理のギリシャ語アレテイアは、動詞形では「隠れていない」「明らかになる」という意味です。長い歴史の中では、真理を軽視したユダヤが滅び、ピラトが滅んでいきました。望月衣塑子「新聞記者」を読みました。一番惹かれたのは、最後の後書きの文章で、彼女がガンジーの生き方を目標にしているとの箇所でした。ガンジーは語ります「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって、自分が変えられないようにするためである」。世の風潮に流されずに、信念をもって事にあたれという意味でしょうか。「真理はあなたを自由にする」、大切にかみしめたい言葉です。

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