江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年3月22日説教(ヨハネ18:1-11、自ら捕らえられるイエス)

投稿日:2020年3月21日 更新日:

1.逮捕されたのではなく、逮捕させるイエス

 

・受難節を迎えています。ここで受難週の出来事を、日を追って見てみます。イエスは土曜日にベタニア村で、マルタ・マリアの姉妹たちと食事の席を共にされました。その席で、マリアから香油を注がれるという出来事がありました。イエスは翌日エルサレムに入城され、人々が棕櫚の葉を振って迎えたので、その日は「棕櫚の主日」と呼ばれています。エルサレムに入られたイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って、「オリーブ山」と呼ばれる所で過ごされました。木曜日の夜にイエスは弟子たちと最後の食事の時を持たれました。この時、イエスが弟子たちの足を洗われたので、この日は「洗足木曜日」と言われています。この最後の晩餐の席から、イスカリオテのユダは抜けて、祭司長たちのところに行きます。イエスは最後の時が迫ったことを悟られ、弟子たちに言われます「さあ、立て。ここから出かけよう」(14:31)。

・14章は18章につながります。一行が向かったのは、オリーブ山の中腹にあるゲッセマネの園でした。ヨハネは記します「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた」(18:1)。そこはイエスが祈るためにしばしば訪れた場所であり、裏切ろうとしているユダもよく知っていた場所でした(18:2)。「ユダが良く知っている場所」、イエスはあえて自ら捕らえさせる場所に進んで身を置かれたのです。カルヴァンは語ります「イエスは逮捕されたのではなく、逮捕させたのだ」と。何故ならば、それが「父の御心である」ことを知っておられたからです。

・そこにユダに率いられたローマ軍の兵士と、神殿警備の兵士たちが、武器を手に来ました。イエスはそれを予期しておられたので、自ら進み出て言われます「誰を探しているのか」。イスカリオテのユダはイエスを逮捕するための道案内として雇われています。ユダが引き受けなければ、大祭司たちは他の者を探し出したでしょう。イエスの逮捕劇において、ユダは決定的な役割は果たしていず、逮捕劇の主役はイエスです。彼は自ら逮捕されようとしておられるのです。18章1-11節の新共同訳の小見出しは「裏切られ、逮捕される」ですが、それはふさわしい言葉ではありません。ヨハネがここで語ろうとしているのは、「裏切らせ、逮捕させる」イエスの行いです。

・「誰を探しているのか」というイエスの問いに対して、兵士たちは答えます「ナザレのイエスだ」。イエスはそれに対して、「私である」と言われます。捕り手たちはイエスの勢いに押されて後退します。イエスは重ねて「誰を探しているのか」と問われました。兵士たちは「ナザレのイエスだ」と繰り返します。イエスは彼らに攻め込まれます「私であると言ったではないか。私を捜しているのなら、この人々は去らせなさい」(18:8)。「お前たちの目的が私を逮捕することであれば、弟子たちは立ち去らせよ」とイエスは言われました。イエスは自分のためには捕縛を覚悟された、しかし弟子たちのためには、無事に逃れることが出来るように安全に気遣いされた。ここに良い羊飼いとしてのイエスの姿があります。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」のです(10:11)。

 

2.神の引渡しとしての受難

 

・マルコやマタイは「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」と弟子たちの背信を描きます(マルコ14:50)。しかし、ヨハネは弟子たちが逃げたことを批判しません。むしろ、イエスが逃げるように言われたことを強調しています。イエスは「無駄な命を捨てるな、逃げよ、逃げることを通して、私の証人になれ」と言っておられるのです。この箇所に関連して、説教者として有名な、由木康先生は語られます「徳川時代のキリシタン迫害が残酷を極めた一因は、信徒に逃げよと教えなかったことだ。教職者は殉教の死を遂げても、信徒にはそれを逃れる道を与えるべきであった。信徒には、踏み絵を迫られたら、どんどん踏んで生きながらえ、心の中で信仰を持ち続け、信仰の火を絶やすなと教えるべきだった」と(由木康「イエス・キリストを語る」)。「積極的逃亡」、ヨハネは弟子たちが逃げることを通して、教会が形成されて行ったことを伝えます。

・逮捕劇の時、ペテロがイエスを守ろうとして剣を取り、大祭司の手下に切りつけて耳を切り落としました。しかし、イエスはペテロに剣を収めよと言われます「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」(18:11)。十字架は父が定められた必然の出来事だから受け入れていく、まだわからないのかとイエスはペテロを叱っておられます。イエスは最後の出来事を避けようと思えば、避けることが出来た状況にありました。エルサレムが危険な場所であることは知っておられ、エルサレムに来なければ十字架はなかった。ユダが知っているゲッセマネに来なければ、逮捕も免れたかもしれない。しかし、イエスはそうされなかった。良い羊飼いは羊のために死ぬ、イエスが死ぬことを通して、救いが生まれるからです。

・カール・バルトは「教会教義学」の中で、イスカリオテのユダの裏切りに用いられている「パラドーナイ」(ギリシア語「引渡し」)という言葉に注目し(マタイ26章21節、23節)、三つの引渡しがあると言います。第一が神的な引渡し、人間を罪から救うために神が御子イエスをこの世に引き渡された。第二がユダによる引渡し、ユダがイエスを敵に引渡し裏切った。第三が使徒たちによる引渡し、イエスの復活後、使徒たちがイエスのことを人々に伝えた(「伝える」という語も原語ではパラドーナイ)。ここにおいて、私たちは、イエスの十字架が、「受難」(パッション)という受け身的(パッシブ)な出来事ではなく、「引渡し」という能動的(アクティブ)な行為であったことを知ります。

 

3.私たちも父が与えられる杯を飲もう

 

・今日の招詞に、第一ヨハネ3:16を選びました。次のような言葉です。「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました」。2000年前に一人のユダヤ教教師が、捕らえられ、殺されました。それはユダヤ教指導者の妬みのためであり、ローマ当局者の騒動を防止する政策のためであり、民衆の願いが適わなかった失望のためでした。世の中では、権力に逆らう人々は理由もなく殺され、都合の悪い事実は闇から闇に葬られます。イエスの受難も、闇から闇に葬られるはずでした。ナザレのイエスさえ殺せばことは終わる、と指導者たちは考えました。

・しかし、そうならず、イエスがどのように逮捕され、どのように裁かれ、どのように殺されていったかの詳細が明らかにされています。それは弟子たちが命の危険をおかして証言していったからです。イエスが身をもって弟子たちを守られたゆえに、その場で捕縛されたのはイエスお一人でした。弟子たちは逃亡しました。その弟子たちが、イエスが復活され、新しく立ち上がり、詳細を証言していきました。この出来事を通して、私たちは、社会で数限りなく行われている悪がそのままで放置されるのではなく、必ず明るみに出され、裁かれることを信じることが出来ます。何故なら、神は知っておられ、証言者を用意されるからです。

・イエス逮捕劇が私たちに教えます第二のことは、苦難の杯は、父なる神から来ることです。イエスの逮捕は「受難」ではなく、「引渡し」でした。「父がお与えになった杯は飲むべきではないか」(18:11)。私たちは杯を飲むことが必要なのです。弱さの中に安住してはいけないのです。「あるがままでよい。そのままで良い」と教える教会がありますが、その教えには基本的な誤りがあります。十字架の苦難がないのです。神は私たちを愛する故に、私たちに苦しみの杯をお与えになる。その杯を通して、私たちは自分の罪を知り、悔改め、悔改めを通じて、新しい命が与えられる。「今のままでは良くない」、悔改めて、変えられる必要があるのです。

・ナチス時代を生きたドイツの牧師ボンヘッファーは、1933年ナチスが政権を取り、ユダヤ人や教会への迫害を始めると、抗議するために告白教会を組織し、「不正な指導者には従うな」と呼びかけます。彼は政権からにらまれ、逮捕される危険がありました。心配した友人たちはアメリカ行きを勧め、彼は1939年アメリカに渡り、神学校教師の職を与えられます。しかし、彼はすぐドイツに帰ります。他の人々が犠牲になって苦しんでいる時、自分も苦しみを共にしなければ、もう祖国の人に福音を語れないと思ったからです。危難の時に群れを捨てる羊飼いは、「良い羊飼いでなくなる」のです。ドイツに戻ったボンヘッファーは、ヒトラー暗殺計画に加わり、発覚し、1943年に捕らえられ、1945年4月に処刑されます。39歳でした。アメリカに留まれば死ぬことはなかった。しかし彼はあえてドイツに帰ります。イエスがあえてエルサレムに行かれ、あえてゲッセマネに行かれたように、です。

・私たちは弱い存在です。ですから、「試みに合わせず、悪より救い出したまえ」と祈ります。出来れば試練や苦難は受けたくない。しかし、一旦、試練や苦しみが与えられた時には、そこから逃げたり、避けたりしてはいけない。イエスも逃げられなかった。だから、私たちも、その苦難や悲しみを、「父から与えられた杯」として飲んでいく。その時に、イエスの言葉が私たちの耳に聞こえてくるのです「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(16:33)。それに対する応答が今日の招詞です「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました」。

・有名な「フランシスの祈り」があります「主よ、慰められるよりも慰める者として下さい。理解されるよりも理解する者に、愛されるよりも愛する者に。それは、私たちが、自ら与えることによって受け、許すことによって赦され、自分のからだをささげて死ぬことによって、とこしえの命を得ることができるからです」。私たちは慰められ、理解され、愛されることを求めるゆえに、人から裏切られ、理解されず、嘲笑されて苦しみます。「慰められ、理解され、愛される」人生は、受動的、人に依存する生き方です。しかし私たちは「人ではなく、神に依存」します。キリストは「受難」という消極的な生き方ではなく、「引き渡し」という積極的な生き方を選ばれた。だから、私たちも他者のために死んでいく能動的な人生を生きるように、意味ある人生を歩むように招かれています。

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