2020年2月9日説教(ヨハネ8:12-20、8:31-38、真理はあなたを自由にする)

投稿日:2020年2月8日 更新日:

1.イエスは世の光

 

・ヨハネ福音書を読んでいます。ヨハネ福音書のイエスは、「私は命の水である」、「私は命のパンである」、「私は世の光である」と、繰り返し「私は~である」と言われています。ギリシャ語では「エゴー・エイミー」、ヘブライ語では「アニー・フー」、旧約聖書においては、神顕現のしるしとして用いられている言葉です。ヨハネは「イエスは神の子」であるしるしとして、イエスに「私は命の水である」、「私は命のパンである」、「私は世の光である」という言葉を語らせます。イエスを「神の子」として受け入れるかどうかが、キリスト者と他の者を分けるしるしです。

・ヨハネは7章から続く仮庵際の物語を8章で再開します。仮庵祭の夜は、神殿の庭の大燭台に灯が灯され、「神殿の照明の儀式」が行われます。儀式は夜を徹して続き、鶏の鳴く翌朝まで、神の前に舞踏と賛美が捧げられたと言われています。イエスの「世の光の説教」は、この祭の光を背景に行われました。イエスは言われます「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(8:12)。光は闇を照らし、ものの形を明らかにします。詩編が歌うように、「あなたの御言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯」(119:105)です。神のみ言葉が光であり、その光が私たちの行く道を照らし、「暗い中でも私たちは安心して歩けます」と詩編作者は讃美します。光の役割の一つは、世を照らし、明るくすることです。

・同時にキリストの光は、私たちの心の奥に隠れた罪を照らし出し、暴き出す光でもあります。ヨハネ8章冒頭部分は「姦淫の女」の物語ですが、その中でイエスが「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、この女に石を投げなさい」(8:7)と言われると、「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまった」とあります(8:9)。世には人を糾弾する言葉があふれていますが、「罪を犯したことのない者がまず石を投げよ」と言われた時、良心ある者は相手に石を投げることはできません。人はすべて罪を犯さずには生きることはできない存在であることを知るからです。イエスの言葉が良心となって、人の心の隠れた罪の思いを照らし出す。これが光のもう一つの役割です。

 

2.真理はあなたを自由にする

 

・「世の光」に続いて、イエスが語られた言葉が、「真理はあなたたちを自由にする」(8:32)という言葉です。神殿の境内におけるイエスと律法学者との論争を聞いて、一部のユダヤ人たちはイエスが「神から遣わされた救い主である」ことを信じました(8:30)。その信じた人々に対して、イエスは語られます「私の言葉に留まるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(8:31-32)。あなたたちが私の言葉に留まり続けるならば、あなたたちは自由になるだろうとイエスは言われています。

・ここで自由として使われている言葉はギリシャ語「エレウセロス=自由人」で、奴隷(ドウーロス)に対応する言葉です。真理を知れば「あなたたちは奴隷ではなく、自由人になる」とイエスは言われました。聞いているユダヤ人たちは反論します「私たちは誰の奴隷でもありません」(8:33)。彼らは確かに自由人であり、誰かの奴隷になっているわけではありません。しかしイエスは、「あなたたちは本当に自由なのか。あなたたちは罪の奴隷ではないのか」と問われます。「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」(8:34)。

・国立国会図書館本館2階ホールの壁に「真理が我らを自由にする」という言葉が刻み込まれています。そこには日本語と共にギリシャ語の言葉も掲げられています。「へ・アレセイア・エレウセローセイ・ヒュマース」、ヨハネ8章32節の言葉です。国会図書館は昭和23年に出来ましたが、創設にかかわった羽仁五郎の提唱でこの言葉が掲げられました。戦時中の日本では、思想や学問は政治の統制下にあり、自由主義者とみなされた学者や評論家は裁判にかけられ、公職を追放されました。今、戦争が終わり、新しい時代になり、学問の自由が与えられた、「さあ学ぼう、真理が私たちを自由にするのだから」。その意気込みが、言葉の中にあります。2月5日に行われたアメリカのドナルド・トランプ大統領に対する弾劾裁判は共和党の反対多数で否決されましたが、共和党でただ1人ロムニー上院議員が造反し、有罪票を投じました。ロムニー氏は、この投票で共和党員の怒りを買うだろうと認めた上で、「大統領の逃れられない罪については、無罪評決に反対することが神への誓いを守ることになる」と語りました。真理が彼を自由にしたと言えるような気がします。

・ヨハネ福音書の言葉は、私たちは本当に自由になったのか、私たちは幸福になったのかと問いかけます。戦後、日本は自由の国になりました。私たちは、その自由を、「何をして良い自由」だと誤解し、その結果、みんなが勝手にやりたいことを行い、社会においては地域が崩壊して、隣に誰が住んでいるのかも知らない社会になってしまいました。家庭においてもみんなが勝手に行動し、家族はばらばらになり、離婚や子供たちの不登校や非行が増えました。私たちは行動の自由を得たかもしれませんが、少しも罪から自由になっていません。「あなたたちは自分が自由だと思っているが、実はまだ罪の縄目の中に閉じ込められているのではないのか」というイエスの問いかけに、私たちはどのように答えるのでしょうか。

 

3.罪からの自由

 

・イエスは「真理を知れば、あなたたちは罪の奴隷ではなく、罪から自由になる」と語られました。罪とは何でしょうか。聖書では罪とは、「神から離れる」ことだと言います。罪=ハマルテイアとは的から外れるという意味です。神なき世界では、人間は人間しか見ない。他者が自分より良いものを持っていればそれが欲しくなり(=貪り)、他者が自分より高く評価されれば妬ましくなり(=妬み)、他者が自分に危害を加えれば恨む(=怒り)。神のいない世界では、この貪りや妬み、恨みという人間の本性がむき出しになり、それが他者との争いを生み出していきます。

・ヤコブは語ります「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします」(ヤコブ4:3)。罪の思いが争いとなり、争いが死を招き、死が新しい罪を生んでいくのです。神なき世界では、この罪―死―罪という悪循環を断ち切ることが出来ない。私たちが生きて行く上で生じる苦難や困難の多くは、人間関係のもつれから来ます。その人間関係を良くしようといくら努力しても、人間関係は改善しません。何故ならば、汚れは私たちの外にあるのではなく、私たちの心の中にあるからです。罪の縄目から自由になるためには、自分の内にある罪から解放されなければいけない。

・今日の招詞にルカ23:33-34を選びました。次のような言葉です。「『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』。人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った」。イエスは十字架につけられた時、自分を殺そうとする人々の赦しを祈られました「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。イエスは、十字架の苦しみの中で、復讐を誓われたのではありません。「今に見ておれ」と恨みを内に持たれたのでもありません。イエスは自分を苦しめる者たちの赦しを神に祈られました。ここに罪-死-罪の終わりなき循環を断ち切る神の業が為されたのです。赦すことにより、敵との和解が可能になりました。私たちはこの十字架の言葉を聞くことによって、自分の心の中の悪しき思い=罪から解放されるのです。私たちは主の祈りを共に祈ります「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」。

・「真理はあなたを自由にする」とは、キリストの十字架という真理が、あなたを罪の縄目から解放し、他者を憎まない、他者の悪を数えないという自由人にするということなのです。真理とはキリストであり、自由とは「キリストにある自由」なのです。宗教改革者ルターは語りました「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者はすべての者に奉仕する僕であって、何人にも従属する」。キリスト者の自由とは他者に仕える自由なのです。その文脈を離れて、「人間の自由」だけを歌ってもそこには何も良いものは生まれないのです。

・イエスは言われました「私の言葉に留まるならば、あなたたちは本当に私の弟子である」(8:31)。私たちは、信仰を告白しバプテスマを受けました。それによって過去の罪を赦されました。しかし赦されてもなお罪を犯し続けます。ヨハネ8章のユダヤ人たちはイエスの言葉を聞いてイエスを救い主として受け入れました。しかし、彼らが求めた救い主はユダヤの国をローマ帝国の支配から解放する力の救い主で、イエスが苦難の僕として、自ら死ぬことによって救済を志しておられることを知った時、彼らはイエスの反対者になり、最後にはイエスを殺そうとします(8:59)。

・人間は信仰を持っても、都合の良い言葉しか聞こうとしない存在です。イエスの言葉に感激して、バプテスマを受けるのは比較的容易だと思います。しかし、試練の中で信仰を持続し、死に至るまでキリストのうちに留まり続けるのは難しいことです。福音の真理は長い信仰生活の実践の中でしか習得できないものです。しかし、イエスに留まり続ける、つながり続ける時、「真理は私たちを自由」にします。だから、私たちは毎週教会に来て、説教を通して、イエスの言葉を聞きます。そして、私たちが、イエスの言葉を毎日の生活の中で実践しようと始めた時に、私たちは少しずつキリストにある自由に近づいていくのです。

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