2019年8月4日説教(創世記41:1-36、神の啓示の意味)
1.ファラオの見た夢
・ヨセフ物語を読み続けています。ヨセフは兄弟たちに妬まれてエジプトに奴隷として売られ、エジプトの地では主人の妻による誘いを断ったために告発されて投獄されます。踏んだり蹴ったりの人生でした。そのヨセフが獄にとらわれて3年が経ちました。その時、エジプトの王(ファラオ)は不吉な夢を見たと創世記は語ります。「ファラオは夢を見た。ナイル川のほとりに立っていると、突然、つややかな、よく肥えた七頭の雌牛が川から上がって来て、葦辺で草を食べ始めた。すると、その後から、今度は醜い、やせ細った七頭の雌牛が川から上がって来て、岸辺にいる雌牛のそばに立った。そして、醜い、やせ細った雌牛が、つややかな、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くした。ファラオは、そこで目が覚めた」(41:1-4)。不吉な夢です。ファラオはさらに二番目の夢を見ます「今度は、太って、よく実った七つの穂が、一本の茎から出てきた。すると、その後から、実が入っていない、東風で干からびた七つの穂が生えてきて、実の入っていない穂が、太って、実の入った七つの穂をのみ込んでしまった。ファラオは、そこで目が覚めた。それは夢であった」(41:5-7)。この夢もまた不吉です。
・エジプトの穀物生産の可否はナイル川に依存します。ナイルの水量が減少すれば飢饉が発生し、東風(砂漠の熱風)が吹くと、穀物が枯れてしまいます。当時、夢は神の啓示と考えられていました。ファラオは夢の意味を知るためにエジプト中の賢者を集めましたが、誰も夢の意味を解き明かすことができませんでした(41:8)。彼は焦ります。神が何かを啓示しておられるのにその意味が分からない。国家の存亡にかかわるかもしれない夢なのに、誰も夢解きが出来ない。その時、給仕役の長が自分の夢を解き明かしたヨセフのことを思い出し、ファラオに推薦することから、ヨセフの出番になります。
・「私は、今日になって自分の過ちを思い出しました・・・侍従長の家にある牢獄に私と料理役の長を入れられた時、同じ夜に、私たちはそれぞれ夢を見たのですが、そのどちらにも意味が隠されていました。そこには、侍従長に仕えていたヘブライ人の若者がおりまして、彼に話をした処、私たちの夢を解き明かし、それぞれ、その夢に応じて解き明かしたのです。そしてまさしく、解き明かした通りに・・・なりました」(41:10-13)。不遇の中にあっても導きを信じて待つ時、神の約束は成就します。しかし、それが何時なのか、どのようしてなのか、人は知ることが許されていません。給仕役の助言を受けてヨセフが牢から引き出されてファラオの前に出ます。
・ヨセフはファラオの夢の意味を解き明かします。「ファラオの夢は、どちらも同じ意味でございます。神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお告げになったのです。七頭のよく育った雌牛は七年のことです。七つのよく実った穂も七年のことです。どちらの夢も同じ意味でございます。その後から上がって来た七頭のやせた、醜い雌牛も七年のことです。また、やせて、東風で干からびた七つの穂も同じで、これらは七年の飢饉のことです」(41:25-27)。そしてヨセフはこの夢は神がファラオに飢饉への準備をさせるために与えられたと告げます「ファラオが夢を二度も重ねて見られたのは、神がこのことを既に決定しておられ、神が間もなく実行されようとしておられるからです」(41:28)。
・聖書の中心使信は、未来を決定するのは「人ではなく、神である」ということです。この世を支配するエジプト王さえも未来に対しては無力です。しかし神の言葉は、いつの日か、何らかの形で成就します。預言者イザヤは語ります「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も、むなしくは、私のもとに戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす」(イザヤ55:10-11)。
2.夢の対応策を示すヨセフとその登用
・ヨセフはファラオの夢を解くだけでなく、その対応策をも提案します。「ファラオは今すぐ、聡明で知恵のある人物をお見つけになって、エジプトの国を治めさせ、また、国中に監督官をお立てになり、豊作の七年の間、エジプトの国の産物の五分の一を徴収なさいますように。このようにして、これから訪れる豊年の間に食糧をできるかぎり集めさせ、町々の食糧となる穀物をファラオの管理の下に蓄え、保管させるのです。そうすれば、その食糧がエジプトの国を襲う七年の飢饉に対する国の備蓄となり、飢饉によって国が滅びることはないでしょう」(41:33-36)。
・ヨセフはこの13年間、奴隷として不遇の日々を送ってきました。その彼が自分を牢から解放してほしいと願うのではなく、エジプトのために自分の持てる精一杯の知恵を提供します。イエスは「平和を創り出す人は幸いなるかな」(マタイ5:9)と語れましたが、ヨセフはまさに「平和を創り出す」人だったのです。ヨセフの夢解きとその対応策はファラオの心を動かします。彼は語ります「お前ほど聡明で知恵のある者は、ほかにはいない」(41:39)。こうしてヨセフは宰相に登用されます(41:40)。17歳の時に奴隷としてエジプトに売られてきたヨセフが(37:2)、30歳になってエジプトの宰相となります。13年間の忍耐が報われました。それはヨセフにとっての運命の転換でしたが、同時にエジプトにとっても飢饉の破局から救済されるという運命の転換にもなります。
・神の啓示通りに7年間の豊作の時が訪れます。ヨセフは豊作の7年間にできるだけの穀物備蓄を行なわせました(41:49「ヨセフは、海辺の砂ほども多くの穀物を蓄え、ついに量りきれなくなったので、量るのをやめた」)。7年間の豊作の後、深刻な飢饉がエジプトを襲います。その飢饉はエジプトだけでなく、当時の世界全体を覆います。「飢饉は世界各地に及んだ。ヨセフはすべての穀倉を開いてエジプト人に穀物を売ったが、エジプトの国の飢饉は激しくなっていった。また、世界各地の人々も、穀物を買いにエジプトのヨセフのもとにやって来るようになった。世界各地の飢饉も激しくなったからである」(41:56-57)。エジプトの豊かな穀物備蓄が世界の民を養ったのです。神は賜物が与えられた人の活用を通して、民を養われます。その中で、カナンにいたヤコブ一族も飢饉の中で食料を求めてエジプトに下ってきます「ヨセフの十人の兄たちは、エジプトから穀物を買うために下って行った」(42:3)。これがやがてイスラエル民族がエジプトに住むようになる端緒になります。
3.神は歴史に介入されるのか
・今日の招詞にマルコ15:34を選びました。次のような言葉です「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』。これは、『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である」。イエスが十字架上で叫ばれた最後の言葉です。多くの人たちがこの言葉の意味を求めて、思索を重ねてきました。東北学院大学・原口尚彰先生は東北大震災直後の2011 年6月7日に「神への問い」と題する説教をされました。「全能の神が創造主であり、世界はすべて主の御手の内にあるのなら、何故このような(悲惨な)ことが起こるのか、罪ない人が被災し苦しむのはどうしてなのかという問いは、心の中に絶えず生じて来ます。誰にも答えられない。良く考えてみると、この問いは「我が神、わが神、何故私をお見捨てになったのですか」という十字架上のイエスの問いでありました。神の子が、何故拷問を受け、断罪され、極悪人のように十字架刑を受けなければならなかったのかは大きな謎であり、不条理でした。そのような不条理な苦しみの中にある人間と共にイエスは歩み、その苦しみを共に担い、共に問い続けて下さるということに他ならないと思います」(東北学院大学『説教集』第16号、2012年3月から)。
・神は何故大震災を与えられたのか、歴史への神の介入をどう考えればよいのか。アメリカの聖書学者マーカス・ボーグは語ります「もし時に神が介入するのならば、介入がないことをどう説明するのか。実際に起きたすべての恐ろしい出来事を知りながら、神は常に介入するとの考えが意味を為すであろうか。もし神が介入してホロコーストを止めさせられたのにしなかったとすれば,それはどういうことか。神がテロリストの攻撃を止めさせられるのにしないと考えることに意味があるのだろうか」 。
・神は歴史には介入されません。歴史は人間の歴史であり、戦争を起こすのも悲惨な罪を犯すのも人間です。「神の前で、神と共に、神なしに生きる」(ボンヘッファー)、神は私たちと共におられますが、私たちに自立を求められます。神は啓示を通して私たちを導かれます。ヨセフに与えられた夢は神の啓示であり、その対応策はヨセフの知恵から生まれました。「飢饉が来る」という啓示を、「それに備えよ」いう智恵に昇華して対応したエジプトには幸いが与えられ、「三陸海岸は津波が繰り返される危険な地」という啓示を無視した日本は、津波によって多くの被害を受けました。3.11の大震災は自然災害ではなく、神の啓示を受け取ることが出来なかった日本人の智恵の欠如です。神の啓示に従って対応策を検討する、悪を止めることが、人の正しい対応であることをヨセフ物語は教えます。