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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2019年2月10日説教(ルカ10:17-24、弟子たちの派遣の意味)

投稿日:2019年2月10日 更新日:

2019年2月10日説教(ルカ10:17-24、弟子たちの派遣の意味)

 

1.十二人の派遣と七十二人の派遣

 

・ルカ福音書を読み続けています。ルカは9章1節以下でイエスが十二人を派遣されたことを伝えます。「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わされた」(9:1-2)。この十二人の派遣はルカだけでなく、マルコ、マタイにもあります。おそらくイエスが弟子訓練のために送ったものでしょう。ところがルカ10章にはそれとは別に七十二人の弟子たちを諸方に送ったとルカは記します「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」(10:1)。この七十二人の派遣はルカのみにあります。この記事は何を意味するのでしょうか。

・七十二人は聖なる数です。また当時の世界全体の民族の数を示すとも言われています。ここにあるのは世界全体に遣わされていく神の民の姿です。「十二人の派遣」は、「イエスが派遣された」とルカは記しますが、「七十二人の派遣」の場合は「主は遣わされた」とルカは区別しています(ここでは復活者イエスを指す「主」(ホ・キュリオス)が用いられています)。またここにある「遣わす」という言葉には、「アポテロー」という言葉が用いられています。後に使徒を示す「アポストル」の原語になった言葉です。

・おそらく、七十二人の派遣は生前のイエスによる派遣ではなく、復活後のイエスによる派遣命令をルカがここに記したと理解するべきでしょう。彼らに与えられた使命は宣教すること、「神の国が近づいた」と告知することです。しかし現実は厳しい「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」と言われる厳しい現実です(10:3)。復活されたイエスにより派遣されて、パレスチナやシリアで福音を告知した最初期の巡回伝道者たちが、周囲から激しい反対と迫害を受けた状況を反映している記事ではないかと思われます。そして17節から帰着した弟子たちの報告が語られます。

 

2.七十二人が帰って来る

 

・派遣された七十二人の伝道者は帰着し、彼等は伝道の成功を喜び勇んで報告します。「主よ、お名前を使うと悪霊さえも私たちに屈服します」(10:17)。それに対してイエスは「私はサタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を私はあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(10:18-20)と語られます。復活のイエスは伝道隊の成功の喜びと派遣する際の心配を、天上から転落する悪魔や、蛇やさそりなど忌むべき存在を用いて象徴的に語られ、成功に浮かれないようと彼等に伝えられます。

・21節以降のイエスの言葉は、イエスの派遣命令を受けて伝道活動を行う弟子たちへのイエスの祝福でしょう。イエス復活後の福音告知活動において、霊感を受けた預言者が、「アーメン、私はあなたたちに言う」という定式で、主イエスの言葉を語り、それが主イエスの言葉として共同体に伝承され、福音書に残されたものと思われます「そのとき、イエスは聖霊にあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ。これは御心に適うことでした。すべてのことは、父から私に任せられています。父のほかに子がどういう者であるか知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません』」(10:21-22)。

・今、弟子たちは、復活されたイエスに出会い、その栄光を拝し、そのイエスから遣わされて、イエスがなされる力ある業を体験しています。彼らは預言者たちによって約束され、王たちによって予表されていた終末の時代を体験しています。「それはなんと幸いなことか」と復活者イエスは彼らを祝福されます。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」(10:23-24)。神の国は既に来ている、だからあなたたちは力強い業を為すことが出来るとイエスは約束されています。これは現在、教会に集う私たちにも贈られた言葉です。

 

3.イエスを見送った弟子たちに聖霊が与えられた。

 

・今日の招詞に使徒言行録1:10-11を選びました。次のような言葉です「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる』」。ガリラヤで再度の召命を受けた弟子たちはエルサレムに戻ってきます。そのエルサレムに戻った弟子たちへ復活のイエスは語られます「エルサレムを離れず、前に私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」(使徒1:4-5)。

・弟子たちは尋ねます「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(使徒1:6)。最後の晩餐の時、イエスは言われました「あなたがたは、私が種々の試練に遭った時、絶えず私と一緒に踏みとどまってくれた。だから、私の父が私に支配権をゆだねてくださったように、私もあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、私の国で私の食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」(ルカ22:28-30)。王国はイエスを王として再建される、キリストが死から復活されたからには、約束の時は来たのではないか。「今こそあなたが王座につかれる時、王国回復の時ではないか」と弟子たちは問うたのです。

・しかしイエスの答えは意外なものでした「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる」(使徒1:7-8)。「神の国がいつ来るかは、父なる神がお決めになることで、あなたがたはそれを待てばよい。今あなたがたの為すべきことは、イスラエルだけではなく、全世界に神の国の福音を伝えていくことだ」と。弟子たちは、エルサレムに神の国が建てられ、自分たちが支配者になると期待していたのに、逆に自分たちがエルサレムから出て行くことを通して神の国を造って行かなければいけない。呆然とする弟子たちの前をイエスは昇天して行かれました。

・弟子たちはぼんやり天を見つめていました。その弟子たちに天から声がありました「なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒1:11)。天に帰られたイエスは再びおいでになる、そのことを準備するために、あなた方は為すべき事をしなさいと天からの声は促します。この声に促されて、弟子たちはエルサレムに戻り、仲間と心を合わせて祈り始めます。

・そして準備の整った弟子たちに聖霊降臨の時が与えられ、弟子たちは宣教の旅に出かけていきます。彼等は伝道の成功を喜び勇んで主に報告します。その言葉がルカ10章に再録されているのです。「主よ、お名前を使うと悪霊さえも私たちに屈服します」(10:17)。聖霊に押し出されて語られた言葉は、多くの人々の心を動かし、それは人々に「どうしたら救われますか」という悔い改めを促しました。聖霊が働いて弟子たちに言葉を語らせ、聖霊が働いて人々にそれが真実であることを悟らせました。信仰を与えられた者が召され、宣べ伝えることを通して、人は聞き、信じ、呼び求めるようになります。

・聖霊に促された言葉は傍観者であった群集を変え、回心者が与えられ、この回心者がまた祈り求めて、やがて語る者に変えられていきます。皆さんもかつて聞いて回心し、バプテスマを受けました。今、皆さんに求められているのは、聞く者から語る者へと変わることです。ルカは何故七十二人の宣教を語ったのか、それは伝道とは召命を受けた少数者が行う業ではなく、全員で行う働きであることを示すためです。「収穫は多いが、働き手が少ない」(10:2)。どの町にも村にも、イエスの助けを必要とされる人がたくさんいます。その人たちに福音を告げ知らせるのは、牧師だけではだめなのです。牧師一人が語っても、その言葉は広がりを持ちません。皆さんが語ることにより、働きが拡大されて行きます。聖霊を共にいただき、この教会を、「地上におけるキリストの体」として形成していく役割が私たちに与えられています。

・バプテスマを受けていない人は、ぜひバプテスマを受けていただきたい。バプテスマを受けるとは、傍観者から参加者になることです。まだ私たちの教会に属していない人は、ぜひ教会に加わっていただきたい。この教会を通して為される神の業に、共に参加してほしい。教会員の方には、この教会を通して神は働かれるとの信仰に固く立ち、迷わないでほしい。つまずくこともあるでしょうが、そのつまずきを超えて、この教会の礎になっていただきたい。教会は死んだイエスを記念するために集まる場所ではありません。生きて世界を支配されるイエスから、聖霊をいただいて、この世に出て行く力を与えられる場所なのです。

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