2019年6月2日説教(ガラテヤ6:1-10、互いに重荷を担いなさい)

投稿日:2019年6月2日 更新日:

2019年6月2日説教(ガラテヤ6:1-10、互いに重荷を担いなさい)

 

1.肉ではなく、霊によって歩め

 

・ガラテヤ書を読み続けています。今日が最終回です。ガラテヤ教会はパウロが設立しましたが、パウロが立ち去った後、エルサレムから派遣された教師たちが来て、「人は信じるだけでは救われない。救われたしるしとして割礼を受けなければいけない」として、人々に割礼を求め、教会に混乱が生じていました。エルサレム教会の人々はユダヤ教の伝統の中で育って来ましたので、救いのしるしとして割礼を受けることは当然だと考えていたのです。しかし、パウロはこの割礼に猛然と反対し、ガラテヤ教会にあてた手紙の中で、言います「もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」(2:21)。
・パウロは続けます「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(5:13)。ガラテヤ書は宗教改革者マルティン・ルターの特に愛した書だといわれています。竹森満佐一先生はルターの言葉を記します「ガラテヤ書は私の信頼する私の手紙である。私のケーテ・フォン・ボーラである」(ガラテヤ書講解説教から)。ケーテ・フォン・ボーラ、ルターの妻の名前です。それほどに愛し、信頼してということでしょう。ルターは修道士でした。ルターの妻も修道女でした。二人とも結婚しないとの誓約をしていたはずです。しかし「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです」というパウロの言葉が二人を後押ししたのでしょう。二人は誓約から自由になって結婚しました。まさに聖書の言葉は私たちの人生を変える力を持っています。

・人はキリストの霊をいただくことによって、自分の中にある肉の欲が、霊の愛に変えられていきます。それは具体的にどういうことか、どのように実践すべきかを、パウロは教会の人々に伝えます。それが今日、お読みするガラテヤ6章「重荷を担い合う生き方」です。パウロは言います「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」(6:1)。私たちは洗礼を受けてキリスト者になりますが、それでも罪を犯し続けます。では洗礼を受けて何が変わるのか、それは「自分が罪を犯し続ける存在であり、それでもキリストに赦されて現在を生かされていることを知る」ことです。キリスト者は自分が罪人であることを知るゆえに、相手の罪を責めなくなります。そこに柔和が生まれ、この柔和が交わりを生みます。それが2節の言葉です「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」。重荷とは、労苦です。労苦を担い合いなさい、隣人を愛するとは、相手の労苦を共に担うことです。それは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私の許に来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)と言われたイエスの後に従う行為です

・パウロは、言葉を続けます「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが自分の重荷を担うべきです」(6:3-5)。私たちの行為は、最終的に神の御前で審判を受けます。その時、「あの人に比べて悪いことはしていない」とか、「世間の人は賞賛してくれた」等の言葉は何の意味も持ちません。神の前に立って恥ずかしくないように、今現在を生きなさいとパウロは語ります「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります」(6:8)。だから「たゆまず善いことを行いなさい」(6:9-10)とパウロは教会の人々に語るのです。

 

2. イエスの焼き印を身に帯びて

 

・パウロは手紙の最後に言います「この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(6:14-15)。もし人が神からの招き=福音を受け入れるなら、その人の生き方は根本から変えられます。新しい創造が始まるのです。新しく創造された人は「世に対してはりつけにされている」、世とは異なる価値観に生かされます。私たちも洗礼という形で、「イエスの焼き印」を身に帯びています。まだ洗礼を受けていない人はぜひ洗礼を受けてほしい。それはイエスと共に十字架に死に、イエスと共に新しい命を生きるという「焼き印」です。その焼き印を受けて人は教会に加わるのです。教会は地上にあるゆえに問題を抱えた群れではありますが、それでも地上に開かれた神の国の入り口なのです。

・パウロは言葉を続けます「これからは、だれも私を煩わさないでほしい。私は、イエスの焼き印を身に受けているのです」(6:17)。「焼印=スティグマ」、焼き鏝で奴隷につけられる所有者の印です。パウロはキリストに対する信仰故に数々の迫害を受けて来ましたが、体に残る鞭の傷跡こそ「イエスの焼き印」と考えています。だから彼はキリストなしの信仰には我慢がならないのです。だから彼は割礼を受けよと勧める宣教者に対して、「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい」(5:12)と激しい言葉を用います。

・ガラテヤ教会の人々も、またエルサレムの伝道者たちも、手紙の激しさにびっくりし、また憤慨したでしょう。伝道者たちに言わせれば、「自分たちはキリストの福音を伝えており、ただ同胞ユダヤ人の誤解を避けるために教会の人々に割礼を奨励しただけだ」ということでしょう(6:12)。またガラテヤの教会員も思ったことでしょう「自分たちはキリストの福音を信じている。ただその信仰に加えて律法の行いを守ろうとするのが何故そんなに悪いのか」。パウロは何故こんなに激しく怒るのでしょうか。それは「異なる福音」が、キリストの恵みを台無しにするからです。割礼に代表される律法主義は教会を壊す「パン種(腐敗の元)」なのです(5:9)。

 

3.教会の実生活の中で

 

・では人はどのように変わりうるのか、それを確認するために、招詞にヨハネ8:11を選びました。次のような言葉です「 女が『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた『私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』」。律法学者とファリサイ派の人々が姦通の現場で捕えた女性を連れて来て言いました「先生、この女は姦通をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せとモーセは律法の中で命じています」(8:4-5)。イエスは答えられます「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、石を投げなさい」(8:7)。イエスの答えを聞いた者は、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエス一人と、真ん中にいた女が残」されました(8:9)。イエスは、人々に、「あなたは本当に神の前に無罪だと言えるのか、本当に姦淫の思いを抱いたことはないのか」という問いかけをされたのです。良心を持つ人は誰も、「自分は神の前に罪を犯したことがない」と言うことが出来ません。だから誰も石を投げることが出来ませんでした。

・聖書に語る「罪」には二つの区分があります。英語では法を犯す罪、犯罪をCrime、内なる心で犯す罪をSinと言い分けています。そしてこの内なる罪Sinこそが外に現れ出て、Crimeとなるのです。イエスが、「あなたたちの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げなさい」と言われた後、ファリサイ人や律法学者が立ち去ったのは、「自分たちは神の戒めを破ったことはない。神の前でSinなる罪を犯したことはない」と言い切れなかったからです。聖書のいう罪を正しく認識した時、誰も他人を裁けなくなります。みながいなくなり、その場には女性とイエスの二人だけが残されました。イエスは残された女性に言われます。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」(8:10)。女性が「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(8:11)。イエスはそれ以上、咎めようとせず、女性を解放されました。

・ヨハネ7:53-8:11は聖書では〔 〕の中に書かれています。古い写本に記載がなく、後代の加筆の可能性が高く、資料的な問題があることを示します。この部分をルカ21:38の後に入れている写本もあり、おそらくは当初ルカ福音書にあったものが削除されて、後にヨハネ福音書に挿入されたのではないかと思われます。何故なのでしょうか。姦淫の罪を犯したにもかかわらず、その罪を無条件に赦されるイエスの態度に、ルカ教会の人々が戸惑ったからだと思われます。しかしヨハネ教会の人々はその戸惑いを超える真実を物語の中に見出したゆえに、あえてこの物語を自分たちの福音書の中に挿入したのだと思われます。

・ここに在るのは無条件の赦しではありません。「私もあなたを罪に定めない」とは、「あなたは罪を犯した。しかしあなたはこの辱めを通して自分の罪を知った。もう十分だ」という意味です。だから「もう罪を犯してはならない」。女を律法通り石打の刑で殺した時、一人の命が失われ、そこには何の良いものも生まれません。それは父なる神の御心ではない。しかし、女に対する処罰を猶予することによって、女は生まれ変わり、新しい人生を生き始める。ここに、「人を滅ぼすための裁き」ではなく、「人を生かすための裁き」が為されています。倫理や道徳を強調するルカ福音書の編集者はこれを削除し、偏見を超えて赦しの物語に注目したヨハネ福音書の編集者がこれを拾い、その結果「福音の中の福音」が残されました。愛するとは赦すことであるとの真理がここ示されました。内村鑑三はこの箇所を「この一篇の如き、これを全福音の縮図として見ることが出来る。もしこの篇だけが残っていてもイエスの感化は永久に消えない」と評しています(内村鑑三、1929.11、聖書の研究)。

・パウロが「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」(6:1)と語るのも同じです。「互いに重荷を担いなさい」(6:2)、排除するのではなく、受け入れなさい。イエスが一人の女性の人生を買い取られたように、あなたも赦された者として、あなたの出会う相手の人生を買い取りなさいとパウロは語るのです。ガラテヤ書には「イエスの愛」と、それに従う「弟子パウロの愛」が息づいています。そこを読み取った時、この聖書の言葉が私たちの生き方を変える言葉になるのです。

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