江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2019年12月15日説教(地には平和、人々の心には善意あれ、ルカ2:1-14)

投稿日:2019年12月14日 更新日:

1.ルカ福音書はイエス・キリストの誕生の時に、天から声があったと記す

 

・「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(2:14)。ルカ福音書はイエスが生まれられた時、天から声があったと記します。「天に栄光、地に平和」、有名な言葉です。イエスは「平和をもたらすために来られた」と聖書は記します。そのイエスが生まれられた時、地上の世界はどのような状況だったのでしょうか。2章前半にイエス誕生時の様子が描かれています。それによれば、両親が住民登録のために、ガリラヤのナザレから父ヨセフの本籍地であるユダヤのベツレヘムに行き、イエスはそこで生まれられました(2:4)。ガリラヤからユダヤまで120キロ、山あり谷ありの道であり、身重の女性を連れての旅は難儀であったと思われます。しかも旅の目的は納税と徴兵のために住民登録をせよとの植民地支配者ローマの命令によるものでした。彼らはベツレヘムに行きましたが、そこには泊まる宿もなく、マリヤは馬小屋でイエスを生んだとされます。地には、平和がなかったのです。

・両親に住民登録を命じたのは、ローマ皇帝アウグストスであったとルカは記します(2:1)。ローマはアウグストスのもとに世界帝国になり、「ローマの平和」(パックス・ロマーナ)と称されました。しかし、それは力による平和であり、力の均衡が崩れれば、すぐにも騒乱が起きる状況でした。彼の養父ユリウス・カエサルは暗殺され、彼自身も大勢の政敵を殺してローマ皇帝になっており、手は血にまみれていました。彼の死後、多くの皇帝が立ちましたが、多くは暗殺されたり戦死したりしています。ローマにも本当の平和はなかったのです。

・ユダヤを統治していたのはヘロデでしたが、彼はエドム出身でユダヤ人ではなく、ローマ皇帝に任命されてユダヤ王となっています。政治基盤は弱く、いつ権力の座から追われるかもしれない状況下にありました。そのため、彼は自分の地位を守るために、王家出身の妻を殺し、王位継承権を持つ三人の子も殺しています。マタイ福音書によれば、イエスが生まれた時、ヘロデは新しい王が生まれたとの噂に怯え、ベツレヘムの二歳以下の幼児を皆殺しにしたといいます。史実かどうかは別にして、そのような噂が流れたことは本当でしょう。ヘロデの手も血にまみれていました。ユダヤにも平和はありませんでした。

・このような状況の中でイエスは生まれられます。その時、天から声がありました「地には平和、御心にかなう人にあれ」(2:14b)と。この個所について説教者・加藤常昭はギリシャ語の構文を見ると別の訳が可能だと語ります「『平和が御心にかなう人にあれ』という時、『神の御心に添う生活をしている人にだけ平和があれ』と言っているように響くが、神がそんなことを言われるとは思えない。むしろ『地の上には平和、人々の心には善意が生まれるように』と訳す方が良い」と(加藤常昭説教全集から)。英語訳も加藤訳に近い「on earth peace, goodwill toward men」。「地の上には平和、人々の心には善意が生まれるように」と訳した時、ルカ2章の「天からの声」が「神の祈りの声」になります。人々の心に善意が生まれた時、平和は実現するのです。

 

2.平和(エイレネー)、シャローム(平安)

 

・新約聖書で「平和」と言う言葉は、ギリシャ語「エイレネー」が用いられています。ルカ福音書8章に12年間も出血を患う女性の癒しがありますが、彼女にイエスは言われました「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。出血を患う病は汚れた病として社会から忌み嫌われていました。この女性は病だけではなく、社会から排斥されて苦しんでいました。イエスは女性の病を癒されると同時に、社会の中でも平安に生きるように慰められ、言われました「安心して行きなさい」。この安心がエイレネー=平和です。平和=エイレネーとは、単に戦争のない状態ではなく、もっと積極的な平和=ヘブル語のシャロームです。

・この平和は神との和解により生まれます。神との和解なしに、人と人との間にも平和はありえないと聖書は語ります。ヤコブ書は語ります「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか」(4:1)。平和を妨げているのは人間の欲望、根源的な悪、エゴです。エゴが敵意を生み、敵意が争いを生みます。従って、平和の実現のためには、この敵意が滅ぼされねばなりません。聖書は、この敵意がイエスの十字架により、滅ぼされたと宣言します。今日の招詞にエペソ2:14-16を選びました「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。

・キリストが十字架に身を捧げられたことを通して、神との和解がなされ、この和解を通して、人の敵意が滅ぼされ、平和が成立したと聖書は語ります。しかし、人間の理性では、十字架の意義は理解できません。イエスの弟子たちでさえ、わからなかった。イエスが十字架につけられた時、弟子たちは失望して故郷ガリラヤに戻ります「この人は救い主ではなかった」。そのガリラヤでイエスが復活して彼等の前に現れた時、弟子たちは根底から変えられます。ペテロは自分の信仰を告白します「(イエスは)十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担って下さいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたは癒されました」(第一ペテロ2:24)。

 

3.十字架を通して人は変えられる

 

・「そのお受けになった傷によって、あなたがたは癒された」、キリストの十字架を通して赦され、神と和解した人は、人との平和をも確立します。その時、争いは消えます。何故なら、彼が先ず、考えることは相手の利害だからです。彼は赦されたから、彼も赦します。人が相手を赦し愛する時、争いは発生しません。しかし、歴史家は問います「イエスの前には平和はなかった。それは確かだ。でも、イエス後も人間は戦争を繰り返している。人類の2000年の歴史は戦争の歴史だ。イエスが生まれられても、状況は何も変っていない。何処に平和があるのか」。キリストの生きざまを知る私たちは反論します「違う、私たちがいる。私たちは右の頬を打たれた時、怒りを持って相手に打ち返すことはしない。私たちは右の頬を打たれた時、怯えて下を向くこともしない。私たちは右の頬を打たれた時、左の頬を出す。何故なら、イエスがそうされたからだ」。

・ドイツの聖書学者ゲルト・タイセンは「イエス運動の社会学」という本を書きました。イエスが来られて、弟子たちがどのように変えられたかを分析した本です。「イエスが来られても社会は変わらなかった。多くの者はイエスが期待したようなメシアでないことがわかると、イエスから離れて行った。しかし、少数の者はイエスを受入れ、悔い改めた。彼らの全生活が根本から変えられていった。イエスをキリストと信じることによって、『キリストにある愚者』が起こされた。このキリストにある愚者は、その後の歴史の中で、繰り返し、繰り返し現れ、彼らを通してイエスの福音が伝えられていった。彼らが伝えたのは、『愛と和解のヴィジョン』だった」。

・キリストにある愚者は、歴史の中で、次から次に現れました。12月4日にアフガニスタンで殉教された、私たちと同じバプテストの信徒(福岡・香住ヶ丘バプテスト教会)でもある中村哲さんは、語ります「裏切られても裏切り返さない。その誠実さこそが人を動かす」。彼は周りの人たちに「善意」という贈り物をし続けました。彼の座右の名は「一隅を照らす」だったそうです。人の善意が相手の悪をも照らし、変えていく。彼もまたキリストにある愚者なのです。パウロは語りました「あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」(第二コリント3:3)。キリストにある愚者として、キリストの手紙として生きるように私たちは召されています。

・ルカは記します「恐れるな、今日あなた方のために救い主がお生まれになった」(2:10-11)と。私たちはいろいろなものを恐れて生きています。自分が老いていくこと、やがて死ぬこと、耐えられない病気や苦難に見舞われること、人から捨てられて孤独になることを恐れて生きています。しかし、クリスマスの時に、「恐れるな」という神の声がありました。何故ならば、「今日、救い主がお生まれになった」からです。その救い主は「地の上に平和、人々の心に善意」をもたらされる方です。私たちはこの救い主によって救われており、救い主の言葉を伝える使者として召されています。キリストにある愚者として、キリストの手紙として生きたい。そのような願いを人に起こさせる出来事がクリスマスの夜に起きたのです。

・アッシジの聖フランシスは祈ります「主よ、私をあなたの平和の道具としてください。憎しみがあるところに愛を、いさかいがあるところに許しを、疑いのあるところに信仰を、絶望があるところに希望を、闇に光を、悲しみあるところに喜びをもたらすものとしてください」。この願いを持つことを促す時こそ、「地の上には平和、人々の心には善意が生まれるように」という神の祈りが響くクリスマスなのです。「地に平和」、キリストが死ぬことによって、私たちは、神との平和を得ました。今度は私たちがキリストにある愚者になることによって、平和を造り出す者になることが出来るように。私たちはそのような使命を与えられているのです。

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