江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2019年12月8日説教(マタイ1:18-23、イエスの父ヨセフの苦悩と決断)

投稿日:2019年12月7日 更新日:

1.ヨセフを通してのイエス生誕物語

 

・私たちはクリスマスを待つ待降節の中にいます。先週、私たちは、ルカ福音書を通じて、イエス・キリストが、どのようにして生まれられたかを学びました。母マリアは受け入れることが難しい「婚姻外妊娠」という事実を受け入れ、「お言葉通りこの身になりますように」と出産を決意しました(ルカ1:38)。ルカ福音書は母マリアの側からイエスの誕生を描きます。他方、今日読みますマタイ福音書は父ヨセフの立場から物語を描きます。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(1:18)。

・「聖霊により身ごもる」、マタイは、普通の人には理解できない言葉を、何の説明もなしに述べています。人は通常は結婚している父と母から生まれます。その場合、妻の妊娠、子の誕生は祝福です。しかしそうでない場合は、子の誕生が大きな波紋を招きます。ヨセフはマリアの許嫁でしたが、まだ婚約中で、同居していません。その許嫁が身ごもった。ヨセフには身に覚えはありませんので、マリアが不義の罪を犯したと考えざるを得ません。ヨセフはマリアとの婚約を解消しようとしました。「 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(1:19)。この短い言葉の中にヨセフの苦悩が凝縮されています。

・これから結婚しようという女性が自分以外の人の子を宿している、ヨセフはこの事実を知って、怒り、悲しみ、苦しんだに違いありません。そして、「ひそかに縁を切ろうと決心した」。眠られぬ日が続く中でヨセフは夢を見ます。その夢の中で神の使いが現れ、ヨセフに「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿った」(1:20)と述べます。ヨセフはそれでも煩悶します。そのヨセフに天使は語り続けます「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」(1:21)。

 

2.ヨセフの苦悩と決断

 

・イエス誕生の次第は多くの人々に困惑を与えてきました。マタイ福音書はその冒頭にアブラハムから始まってイエスに至るまでの42代の系図を掲げ、イエスについては次のように語ります「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(1:18)。父の系図が突然母系に変わっています。ルカ福音書では、「イエスはヨセフの子と思われていた」(ルカ3:23)とあります。マルコ福音書ではイエスがナザレ村で「マリアの息子」(マルコ6:3)と呼ばれていたと報告しています。「父の名をつけて呼ぶ」のが慣例の社会では、決して好意的な呼び名ではありません。今日でいえば「シングル・マザーの子」、世間的に見れば、婚姻外妊娠となり、人間的に見れば不道徳な出来事です。しかし福音書記者は、これを信仰によって、「聖霊によって生まれた」と記述します。

・ヨセフは「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」との神の言葉を与えられ、マリアを受け入れて妻に迎えました。ヨセフはなぜ人間の理解を超える出来事を受け入れることが出来たのでしょうか。ヨセフは「許嫁が自分の関与しないところで妊娠した」という事実を目の前に突き付けら、苦悩し、「神様、何故ですか」とその不条理を何度も訴えたと思われます。そのヨセフの度重なる訴えに応えて、神がヨセフに現れ、「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」と示されたのです。それを現代の言葉に直せば、神はヨセフに「マリアの生む子をお前の子として受け入れてほしい。そうしなければ私の計画は挫折する」と言われたのです。

・これまでヨセフは自分のことしか考えていませんでした。しかしマリアの立場に立てば、もしヨセフが受入れなければ、マリアと幼子は悲惨さの中に放り込まれることでしょう。生存さえ危ぶまれる事態になるかもしれません。当時も今も女性が自立して生きていける社会ではなかったからです。そのことを知ったヨセフは神の啓示を受け入れます。ヨセフは苦悩のただ中で神と出会い、神の言葉を受け入れ、その結果マリアと幼子の命が救われました。現代日本では、10代の妊娠の60%において、赤子は人工妊娠中絶されるそうです。マリアとヨセフの苦悩は現代でも繰り返され、その多くが胎児を犠牲にする方法で対処されています。それに対しマタイは、「神に働きかけられた人の信仰により、悲惨な事柄も祝福の出来事になる」ことを伝えています。ルカ1章後半に「マリアの賛歌」があり、彼女は歌います。「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです」(ルカ1:47-48)。婚約者ヨセフが受入れてくれた喜びをマリアはここに歌っています。クリスマスの出来事は、深い悩みの中で、一人の信仰者の神との出会いと決断によって起こったのです。

 

3.苦悩の中から喜びが

 

・今日の招詞にイザヤ7:14を選びました。マタイがイエス生誕時に引用したイザヤの預言です。「それゆえ、私の主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。イエスの生誕から700年前、預言者イザヤの時代、シリアと北イスラエルはユダに侵略し、エルサレムを包囲し、「ユダの王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺して」いました(イザヤ7:2)。シリア・エフライム戦争の危機の中で、イザヤは、「神に信頼して鎮まりなさい。神が共におられる(インマヌエル)から、この戦争でユダが滅ぶことはない。そのしるしとして、敵に包囲されているそのただ中で、おとめが身ごもって、男の子を産むという平和な未来が来る」ことを告知したのです。

・しかし、アハズ王は「神に信頼する」ことが出来ず、自分の知恵で危機を打開しようとします。彼はアッシリア帝国に援軍を求め、アッシリアはパレスチナに侵攻し、シリアと北イスラエルを滅ぼしました。アハズ王の政策により、ユダ王国の当面の危機は回避されましたが、その政策は国家の独立をアッシリアに事実上売り渡すことによって国家の延命を図ったものであり、ユダはその後、アッシリアの属国として搾取され、体力をなくし、やがてアッシリアの後継バビロンに国を滅ぼされます。

・700年後、パレスチナに生まれたキリスト教会は、イザヤ7章のインマヌエル預言にイエス・キリストの誕生の意味を見出します。「『マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである』」(1:21)。何故ならば、「主が預言者を通して言われていたことが実現する・・・『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』。この名は、「神は我々と共におられる」という意味である」(マタイ1:22-23)。

・許嫁の妊娠を知ったヨセフは苦悩し、神に不条理を訴えます。その神がヨセフに現れ「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」と示されます。ヨセフは理解できません。しかし、この世には「理性を超える存在があり」、「自分が全てを理解しているのではない」ことを、ヨセフは知っていました。それ以上に、自分がマリアと幼子を受入れなければ、母と子は悲惨さの中に放り込まれることも理解していました。ヨセフは悩みぬいた末に神の啓示を受け入れ、マリアと子を受け入れていきます。そのことによって、母子の将来が保証されて行きます。聖書のクリスマス物語は、イエスが処女マリアより生まれたことを奇跡として語ることではありません。母マリアが婚姻外の妊娠という過酷な現実を神の御心として受け入れ、父ヨセフが許嫁の自分が関与していない妊娠を受け入れ、その父となることを決意した、その二人の信仰にこそ奇跡があると主張します。ここに描かれるのは「人間が信仰の決断を行うことによって、神の業が為された」ことです。神は私たちを用いて、その御業を為されるのです。

・ヨセフは理性では理解できなくとも、マリアとその子を守っていこうと決意しました。マタイ福音書の描く「父」としてのヨセフは、妻に子を産ませることで自分の血統を伝えるのではなく、神が与えられた子の命をその母と共に保護していく役割です。ヨセフはその役割を受け入れて生きました。成長したイエスは、村人から「私生児」と陰口されて苦しまれたでしょう。苦しまれた故にイエスは「自分の民を罪から救う」(1:21b)ことが出来ます。

・同志社大学でユダヤ教を研究しておられる勝又悦子先生は語ります「イザヤが発した預言は『インマヌエル=神が私たちとともにいる』という、実にシンプルなフレーズでした・・・私たち自身も、さまざまな悩みや苦しみの中にあるかと思います。しかし、そのような個々人の闘いのなかで、『神が私たちとともにいる』ことを感じることで、心の闇や絶望に立ち向かう力を与えてくれるのではないでしょうか」(2013年10月9日水曜チャペル・アワー)。

・私たちの人生には不条理があります。理解できない苦しみや災いがあります。希望の道が閉ざされて考えもしなかった道に導かれることもあります。12月4日に、30年以上もアフガニスタンの農業支援のために貢献した中村哲さんが銃撃によって殺されました。彼は私たちと同じバプテストの仲間です。「神様、何故ですか」と多くの人が叫びました。その翌日、12月5日に日本公演に来ていたアイルランドのバンドU2が、通常の演奏を中断し、前日にアフガニスタン・ナンガルハル州ジャララバードで銃撃されて死亡した故中村哲医師への追悼のために「Pride (In the Name of Love)」を歌いました。元々は銃弾に倒れたキング牧師に捧げた歌です。「Early morning. April4, Shot rings out in the Memphis sky. Free at last, they took your life. They could not take your pride」(彼らはあなたを殺したが、あなたのプライドを、愛というプライドをとることはできなかった)。「神が共におられる」ならば、苦しみや悲しみが祝福に変わる。クリスマスはそのことを改めて私たちに示す時です。

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