2018年6月24日説教(2コリント12:1-10、弱さの中の強さ)
1.弱さの中に恵みが
・第二コリント書を読み続けています。本日が最終回です。この手紙を通して明らかになったのは、パウロがコリント教会の離反に苦しみ、何とかしてコリントの人々が「本当のイエス」、「本当の霊」、「本当の福音」に立ち戻ってほしいという願いの下に、手紙を書いているという事実です。本当のイエスとは「十字架で死なれた苦難のイエス」であり、本当の福音とは「イエスのように弱さを受け入れる時に救いが来る」ということです。しかしパウロに反対する人たちは、自分たちの強さや神秘体験を誇り、「パウロは神秘体験をしていないから本当のキリスト者ではない」、「パウロは異言を語れないから聖霊を受けていない」と批判していたようです。そのためにパウロはやむなく、自分の神秘体験を語り始める、それが今日読みます第二コリント12章です。
・パウロはこれまで自己の神秘体験を語ってきませんでした。神秘体験は自分だけの体験であり、他者と共有できるものではないからです。パウロはかつて語りました「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。しかし、私は他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」(1コリント14:18-19)。他者に理解されない言葉(異言)は福音=良い知らせではないのです。しかし、ここでは止むを得ず、パウロは自己の神秘体験を語ります「私は、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。私はそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです」(12:2-4)。
・「一人の人」、パウロのことです。「14年前」、この手紙が書かれたのが紀元57年前後ですから紀元43年頃、異邦人伝道旅行を始める前、彼がアンテオケ教会で活動していた時の出来事です。具体的に何があったのかは私たちにはわかりません。パウロはある時、天に引き上げられて、そこで主に出会うという体験をした、それはパウロには忘れられない体験でしたが、彼はそれを長々と語ることをしません。そのような体験を通して伝道者は自分の召命を確信しますが、自分を振り返った時、目に付くのは肉の身の弱さです。弱さを通して神を誇ることに、パウロは導かれていきます「このような人のことを私は誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」(12:5)。そしてパウロは彼の人生を決定づけた、ある出来事を語ります「私の身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました」(12:7-8)。
・パウロは深刻な病気を抱えていたようです。ある人は「癲癇」と推測し、別の人は「目の病」と考えています。何であるかはわかりませんが、それは彼の心身を苦しめると同時に、伝道の妨げにもなっていたようです。彼はその病を「サタンから送られた使い」と表現しています。パウロはこのとげを取り去ってくれるように、繰り返し主に祈りましたが、彼に与えられたのは「私の恵みはあなたに十分である」との言葉でした。「主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(12:9)。この体験を通してパウロは「キリストと共に苦しむことこそ恵みである」ことを理解しました。だから彼は語ります「それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱い時にこそ強いからです」(12:10)。
2.聴かれない祈り
・パウロの祈りは聴かれませんでした。彼に与えられた「とげ」は取り去られませんでした。しかしパウロはそのことを主に感謝しています。私たちの人生にもいろいろな「とげ」が与えられます。私たちはパウロと同じようにそれに感謝出来るでしょうか。内村鑑三の書いた文章に、「聴かれざる祈り」という短文があります。彼は「聴かれざる祈祷のいちじるしき例が三つある。モーゼの祈祷が聴かれず、パウロも聴かれず、イエスご自身もまた聴かれなかった」と語り始め、パウロについて、このコリント12章の体験を語り始めます「神は新約の忠僕であるパウロの祈祷をも斥けられた。パウロにもまた一つの切なる祈願があった。彼は、単に彼の肉体の苦痛としてだけ、これを感じたのではないと思う。彼が伝道に従事するに当って、彼は大きな妨害としてこれを感じたのであろう。彼は幾回となく、このために敵の侮辱を受けたであろう。彼の福音は、幾回となくこのために人に嘲られたであろう。彼は自分の健康のためばかりではなく、福音のために、神の栄えのために、この痛い刺が彼の身から除かれることを祈った・・・ところがこの忠僕に対する、主の答は何であったか・・・簡単であってすげなかった。『我が恩恵汝に足れり』(第二コリント12章9節)というものだった。君の痛い刺は除かれる必要はない。私の恩恵は、これを補い得て足りているということであった。パウロの切なる祈求もまた、モーセのそれと等しく聴かれなかった。新旧両約の信仰の代表者は、その厚い信仰を以てしても、その祈祷の応験を見ることが出来なかったのである」(内村鑑三「聴かれない祈り」、全集第20巻の現代語訳から)。
・新約学の織田昭先生は語ります。「パウロの『とげ』が実際に何だったのか、この文章からは特定できないが、恐らく、これは、後にコリント書を読む多くの読者が、自分の持つ弱さや悲しみと引き比べながら、それぞれなりに慰めを受けられるように、聖霊がそうお導きになったのかも知れません。お互い弱い肉の人間として、病気の不安も、老いの悲哀も、事業の挫折もあります。もし私たちがお互い、自分の弱さを恥じないで共感できたら、私たちはみんな同じように主キリストだけを頼りにして、自分の弱さを克服できますし、その弱いままで強く変えられるのです。パウロの最後の言葉はこうでした。『私が弱い時、まさにその時、私は強くなれる。』」(織田昭・エリニカから)。
3.キリストのために苦しむ
・今日の招詞にピリピ1:29を選びました。次のような言葉です「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」。パウロはコリント教会のために良かれと思い、手紙を書き、訪問し、指導しました。そのコリント教会はパウロに背き、パウロは裏切られた痛みに耐えています。しかしパウロがその苦難を、「キリストのために苦しむ」と受け入れた時、苦難が「恵みに変わる体験」をしています。ある人は語ります「水の冷たさは熱い所で初めてわかる。水の有り難さは水のない所で知れる」。苦難を通して私たちは神が共にいてくださることを知り、そこから生きる力をいただきます。
・教会には誤解や争いが絶えません。これが「神の教会か」と思うこともしばしばあります。パウロもまた、このあまりにも人間的な現実の中で、悩み、悲しみ、怒ります。しかし彼は教会に対する責任を放棄しません。神の恵みである信仰は、教会なしには生まれず、育まれることはないことを知る故です。しかし、その人間的対立の中から人の心に迫る手紙が生まれてきました。第二コリント書は国宝のような宝物です。そしてこの宝物は苦難の中から生まれてきたのです。
・生涯寝たきりの人生を送った水野源三さんは4冊の詩集を出しましたが、その第一詩集の表題は「わが恵み汝に足れり」(アシュラム・センター)です。今日の聖書個所から取られた表題です。その中に、「主よ、なぜ」という詩があります。次のような詩です「主よ、なぜそんなことをなされるのですか。私はそのことがわかりません。心には悲しみがみちています。主よ、どうぞこのことをわからせたまえ」。人生の現実にはとても納得出来ないものがあります。「私の恵みはあなたに十分である」と言われても困る時があります。その中で神を求めていく。そして「力は弱さの中でこそ十分に発揮される。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と誇れるようになった時、私たちの人生は素晴らしいものになります。私たちはパウロのようにはなれません。しかしパウロに憧れる事はできます。
・この世は力を賞賛し、強さを求めます。強さとは何でしょうか。アメリカ宗教史が専門の森本あんり先生は「宗教国家アメリカのふしぎな論理」という著書の中で述べます「アメリカ大統領ドナルド・トランプは破天荒な大統領だが、同時に熱心なクリスチャンとして知られる。彼が信奉するキリスト教は「成功の神学である」と。もともと聖書では神と人間の関係を、神は人間が不服従な時にも一方的に恵みを与えてくれるという「片務契約」で理解します。ところが、ピューリタニズムがアメリカに移植される過程で、「片務契約」は「双務契約」へと転移していきます。双務ということは、人間は神に従い、神は人間に恵みを与える義務があるというものです。これは信賞必罰、ギブ・アンド・テイクの論理であり、この論理の行き着く先には「神の祝福を受けているならば、正しい者だ」という考え方が語られます。「自分は成功した。大金持ちになった。それは人びとが自分を認めてくれただけではなく、神もまた自分を認めてくれたからだ。たしかに自分も努力した。だが、それだけでここまで来られたわけではない。神の祝福が伴わなければ、こんな幸運を得ることはできなかったはずだ。神が祝福してくれているのだから、自分は正しいのだ」。これがドナルド・トランプの信奉する、そして多くの福音派の人々が信奉するキリスト教であると森本先生は語ります。「神は従う者には恵みを与え、背く者には罰を与える。自分は成功し、恵まれている。だから神は自分を是認している。自分は正しいのだ」。この世的に成功したければ神を信じなさいという勧めの中で、アメリカ人の5割の人が毎週の礼拝に参加します。
・「神を信じて従えばこの世の成功は約束される」という信仰は、申命記を始めとした旧約聖書の信仰ですが、イエスともパウロとも異なる信仰の在り方です。私たちの主イエスは決定的に弱い方でした。彼は弱い者、病に苦しむ者、世から排斥された者の側に立ち、彼自身も強い人々により殺されていきました。その弱いキリストを神は起こされ、キリストは今なお生きておられます。正にパウロが言うように、「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。私たちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています」(13:4)。キリストの弱さを身にまとうことにより、神の強さが与えられる、これが私たちの信じる福音であり、それゆえに私たちもまた「弱さを誇って生きる」のです。