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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2018年7月1日説教(創世記12:1-9、祝福の始まり)

投稿日:2018年7月1日 更新日:

2018年7月1日説教(創世記12:1-9、祝福の始まり)

 

1.信仰の決断をしたアブラハム

 

・7月から私たちは創世記を学んでいきます。創世記は1-11章が原初史と言われ、そこに記されているのは、「神の祝福を受けて創造された人間が、罪を犯して神に背き、神から離れていった」歴史です。人は神に背き、離反しました。しかし、神は人を見捨てられません。神は新しい救いの業とし て、一人の人を選び、彼に一つの民族を形成させ、その民族を通して人々を救うことを計画されました。それがアブラハムの召命に始まったと創世記の著者は告白します。
・創世記12章1節は記します「主はアブラムに言われた。あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」。アブラム、後のアブラハムはメソポタミヤに住む遊牧民でした。遊牧民は牧草地を求めて移動生活をしますが、移動の範囲は、水と草が確保されていることが条件です。アブラハムは父テラの時代に、カルデアのウルからハランまで移住しています(11:31)。ウルはユーフラテス川とチグリス川が交差する河口の町、メソポタミヤ文明発祥の地です。そこでは月神が礼拝されていました。太陽や月は被造物に過ぎないのに、それを拝む文明が生まれ、神の創造の業が忘れ去られていた。神は創造の秩序の回復のために、アブラハムの父テラに偶像崇拝の町を離れ、新たな信仰の場を求めるように命じられ、テラはユーフラテス川に沿って北上し、上流のハラン地方まで移住しました。テラはそこで死にます。テラの息子アブラハムに「ハランを離れて、私の示す地に行け」との神の召しがありました。
・ウルからハランまでは1000kmの距離がありますが、ユーフラテス川に沿う地域ですので、水と草はあります。水と草があり限り、羊や山羊を養って生きる遊牧民の生活は保証されています。しかし、今回の神の示しは、ユーフラテス川から離れて砂漠を超え、カナンに行けというものでした。そこはメソポタミヤの遊牧民にとっては未知の地、水や草が保証されない地、盗賊や野獣の危険に満ちた地でした。神はアブラハムに「私を信じ、見たことのない地に行け」 と言われました。「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める・・・地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(12:2-3)と言われます。「約束を信じて、一歩を踏み出せ」と言われた。彼はその時75歳、人生の盛りは過ぎていました。妻サラは不妊で子供もありません(11:30)。アブラハムの人生はもう終わったようなもの、まもなく閉ざされる、その時に彼は召されたのです。彼は神の言葉に従い、カナンを目指して歩き始めます。
・この一歩が、世界史を変える一歩になります。もしアブラハムがこの時の呼びかけに応えなければ、イスラエルは約束の地に到達せず、ユダヤ民族の形成もなく、当然イエス・キリストも生まれず、その結果教会も生まれなかったでしょう。私たちが今日ここに礼拝に集まることもなかったかもしれない。アブラハムのこの一歩はそれほど大きい意味を持つのです。だからこそ、アブラハムはユダヤ教においても、キリスト教においても、さらにはイスラム教においても、「信仰の父」と呼ばれます。

 

2.信仰が揺らいだアブラハム

 

・アブラハムは一族郎党を引き連れて、故郷を離れ、カナンを目指しました。長い旅の末にアブラハムはカナンの地シケムに入りましたが、そこにはすでにカナン人が住み、城砦を築いていました。主はアブラハムに言われます「あなたの子孫にこの土地を与える」(12:7a)。子もなく、先住民を制圧する武力も持たないアブラハムに、「この土地を与える」との約束が与えられました。アブラハムはその約束を信じました。「アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた」(12:7b)。しかし、シケムには強力な武器と城砦を持つ先住民がいて土地を獲得することは無理でした。彼はシケムを離れてベテルに南下します。「アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」(12:8)。南部では自分も土地を持てるかもしれないと思ったからです。しかし、ベテルにも居場所はありませんでした。先住民が住んでいる土地に寄留者一族が入り込む余地はなかったのです。だから彼は、誰も住まない砂漠のネゲブに居を移します(12:9)。彼は「あなたの子孫にこの土地を与える」という神の約束を疑い始めているのです。

・約束の地に来たアブラハムを、次に迎えたものは飢饉でした。旱魃のため、家畜に食べさせる草も水も手に入れることができません。「せっかく約束の地に来たのに、何故主はこのような災いを下されるのか」、アブラハムは「私が養う」という主の約束を信頼することができず、食を求めてエジプトに下ります。「その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした」(12:10)。これまでアブラハムは、行く先々で祭壇を築いて主を礼拝しています。しかしエジプト下りについては、「主のために祭壇を築いた」という表現はありません。おそらくは一族と家畜を守るために、アブラハムが自分の判断でエジプト行きを決めたのでしょう。この時、アブラハムの中で何かが崩れました。彼はもはや「神に頼れない」と思い始めているのです。

・神の庇護を信じられない者は、他者を恐れます。エジプトに行く道すがら、彼は妻サラが際立って美貌であることが気になります(召命の時、アブラハムは75歳、サラは65歳とされていますが、旧約の年齢の数え方は現代とは異なりますので、今日的には、アブラハムは40代、サラは30代であったと推測されます)。妻が美しいことは弱肉強食の世界では危険です。強い者が力ずくで妻を奪い、夫を殺す可能性があるからです。アブラハムはサラに言います「あなたが美しいのを、私はよく知っている。エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、私の妹だ、と言ってください。そうすれば、私は・・・あなたのお陰で命も助かるだろう」(12:11-13)。
・アブラハムの懸念は現実となります。エジプト王はサラの美貌に目を留め、彼女を側室として迎え入れます。アブラハムはサラの兄として、王から多くの贈り物を与えられ、裕福になります。「信仰の父」と称えられた人が、実は妻をエジプト王の側室に売って身の安泰を保ち、金持ちになったのです。それは創世記3章で見たアダムの姿と同じです。愛した妻が過ちを犯し、その災いが自分に及びそうになると彼は言います「あなたが私と共にいるようにしてくださった女 が、木から取って与えたので、食べました」(創世記3:12)。「私が悪いのではない。妻が悪いのです」とアダムは妻を見捨てました。アブラハムも妻を見捨てて、身の安全と繁栄を図ろうとしたのです。

3.信仰の揺らぎと悔い改め

 

・今日の招詞にヘブル11:1を選びました。次のような言葉です「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。アブラハムは信仰の偉人と称えられますが、彼もまた聖人ではなかったのです。約束の地に来て、住民が城砦を構え強大であることを知れば、身の危険を覚えて砂漠のネゲブに隠れます。飢饉でエジプトに下れば、自分の妻を利用して身の安全を図ります。その地でアブラハムは神から問われます「あなたは私に何ということをしたのか」(12:18)。ヘブル語「マー・ゾート・アッシータ」、かつて蛇に騙されて禁断の木の実を食べたエバに語られ、妬みのために自分の弟を殺したカインに呼びかけられた言葉です。取り返しのつかない過ちを起こしたことを知らされたアブラハムは、恥ずかしさで下を向きます。彼も私たちと同じ罪人、同じ過ちを犯す人間だったのです。ここにおいて、アブラハムの生涯は私たちと関わりを持つものになります。

・アブラハムの最初の旅立ちは、神の呼びかけに答えて「行く先を知らずに出かけた」時でした(12:4)。冒険者としての旅立ちです。その彼が、エジプトで罪を犯し、恥ずかしい思いを抱いて約束の地に帰り、そこに祭壇を築き、主の御名を再度呼びました(13:4)。その時が、信仰者としての再出発の時です。聖書で信仰者と呼ばれる人は、多くの過ちを犯しています。ダビデは人の妻に恋情を抱き、夫を殺して女を自分のものにしています。ペテロはイエスの裁判の時、そんな人は知らないと否認しました。パウロは伝道者になる前は、教会の迫害者でした。しかし、ダビデは過ちを通して自分が罪人である事を知り、新しい人間となりました。ペテロはイエスを否認した後、大祭司の屋敷を飛び出し、泣きました。その時の涙こそが、ペテロの洗礼の水です。パウロも、ダマスコ途上での復活のイエスとの出会いが、パウロを迫害する者から迫害される者に変えました。罪を犯して悔い改める、それが信仰です。

・哲学者の森有正は講演の中で次のように述べています「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥があります。どうも他人には知らせることができない心の一隅というものがある。そこにしか神様にお目にかかる場所は人間にはない」(森有正「土の器に、アブラハムの信仰」p.21)。エジプトのアブラハムは、自分の妻を利用して身の安全を図りますが、そのアブラハムに神は問われます「あなたは私に何ということをしたのか」(12:18)。アブラハムは「他人には知らせることができない心の一隅」で主に出会ったのです。

・私たちが自分の力に頼っている間は神が見えません。罪を犯し、泣いて、主の名を呼び求めた時、主は応えて下さる。人間は、過ちを犯し、砕かれた時でないと、主の御名を呼び求めない存在なのです。そして求めた時、神はご自身を現して下さり、見えない神が見えるようになります。そして、人は人生の歩みの中に、神の見えざる手が働いていることを知り、感謝します。まさに、信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することなのです。私たちも、自分の罪を知り、泣き、悔い改めた時こそが、人生の再出発の時なのです。そのことをアブラハムの生涯は私たちに教えてくれます。

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