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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2018年4月22日説教(1コリント7:1-15、置かれた場所で咲きなさい)

投稿日:2018年4月22日 更新日:

2018年4月22日説教(1コリント7:1-15、置かれた場所で咲きなさい)

 

1.結婚についてのパウロの勧め

 

・コリント教会への手紙を読んでおります。この手紙では教会の中に起きる様々な問題についてパウロが助言する形で、論議が進んでいきます。7章の主題は「結婚をどう考えるか」です。教会のあるコリントは人口70万人を抱える当時の世界有数の大都市であり、歓楽の都、虚栄の市と呼ばれ、あらゆる性的な不倫が蔓延していた都市でした。5章では「聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです」(5:1)とあります。6章では「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか」(6:15-16)とあります。教会の中に性的誘惑に負けて不品行(ポルネイア)、不倫や買春に陥る人も出ていたようです。

・その反動もあって、一部の教会員は「キリスト者は独身を保つべきであり、既婚者も性的交わりを一切断つべきではないか」と極論を主張していたようです。そのため、教会の執事たちが、「結婚と性について」パウロに相談した、それに対するパウロの回答がコリント7章です。パウロは語ります「そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい」(7:1)。独身である方が良いというのが、パウロの基本的な考え方です。パウロは7節でも語ります「私としては、皆が私のように独りでいてほしい」(7:7a)。

・しかしパウロは自分の生き方を強制しません「人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」(7:7b)。パウロは独身でしたが、ペテロには妻がいました(9:5)。パウロはそれでよいと語ります。「みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」(7:2)。「みだらな行い」と訳されている言葉は「ポルネイア」で、本来の意味は「娼婦(ポルネー)と交わる」ことです。そこから「ポルノ」という言葉が生まれました。それを避けるために神は結婚という祝福をお与えになったとして、パウロは夫婦の性的交わりを肯定します「夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。互いに相手を拒んではいけません」(7:3-4)。

・パウロは結婚をやむをえないもの、情欲を抑制するための手段と考えているように見えますが、そうではありません。彼は、結婚により相手に束縛され、信仰生活がおろそかになる場合が多いことを懸念しているのです「独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと世の事に心を遣います」(7:32-34)。パウロの結婚に関する考え方の根底には終末観があります。彼は手紙の中で「定められた時は迫っている」(7:29)と語ります。キリスト再臨の時が迫っている今は、非常時であり、できるだけ身軽になるべき時だと彼は理解しているのです。

・カトリック教会は、コリント7章を基準にして、「信徒は結婚しても良いが、聖職者は結婚せず、終生独身を守る」ように制度化しました。その結果、聖職者の中には関心が同性愛の方向に赴き、少年に対する性的虐待事件が発生する結果を招いています。バチカンの発表によればこの10年間で2500人の聖職者が処分を受けたそうです。パウロが言うように「あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらない」(7:5)事態になったのです。神は人を男と女に造られ、男女の性的交わりを通して命を継承するように造られました。イエスは言われます「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である」(マルコ10:6-8)。パウロは決して自然の摂理に反するような独身生活を求めているのではなく、「キリストのために独身となる者はなりなさい、しかし結婚しても良い。どちらにも神の祝福がある」と語ります。

 

2.未信者との結婚をどう考えるか

 

・8節以降で未婚者と寡婦の結婚について語った後、12節からパウロは「キリスト者でない配偶者との結婚生活をどう考えるべきかについて」助言します。当時、コリント教会の中に、「信者は不信者と生活を共にしてはいけない、夫婦の一方が異教徒のままであるときは、直ちに離婚せよ」と極論を唱える人たちがいたのでしょう。その人々にパウロは語ります「ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない。また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない」(7:12-13)。キリスト者は少数者ですから、結婚相手の多くは、「信徒でない」異教徒でした。パウロは、たとえ相手が未信者であっても、相手が結婚生活の継続を望むのであれば、継続しなさい、信徒の生活を見て、相手がキリストの福音に救いを見出す可能性があると語ります。「なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです」(7:14)。しかし、「信者でない相手が離れていくなら、去るに任せなさい」(7:15)とも語ります。結婚は大事なことではあるが、信仰の本質にかかわる問題ではないと彼は考えています。

・パウロの教えは日本のキリスト者にとっては大事な教えです。何故ならば、日本でもキリスト者は少数に留まり、多くの結婚は非キリスト者との結婚になるからです。 玉川キリスト教会の福井誠牧師は語ります「クリスチャンである人がクリスチャンでない人と結婚するのは大変なことだ。価値観が違い、ライフスタイルが違う。非信者の人は週5日働き、週末は休みだから家族とどこかに出かけようと考える。クリスチャンは日曜日に教会に行き、礼拝を持って新しい一週を始めようとする。そうなると、結婚生活の故に信仰を持って生きていくのが難しくなる」(聖書1日1章から)。しかし、それは宣教の機会でもあります。ペテロは語ります「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです」(1ペテロ3:1)。「結婚も主のためである」のです。

 

3.置かれた場所で咲きなさい

 

・今日の招詞に1コリント7:17を選びました。次のような言葉です「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召された時の身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会で私が命じていることです」。コリント7章はパウロの結婚に対する教えが展開されています。彼は結婚を神が定められた秩序として尊重します。結婚は祝福され、結婚した者たちは自然の秩序の中で性的交わりを行い、新しい生命を生み出す。他方、パウロは未婚者には「独身でいる」ことを勧めます。彼は「結婚しても良いが、結婚しない方がさらに良い」と繰り返します(7:26、38、40)。それは結婚することにより、人の関心が神ではなく、相手を含めた世に移るからです。しかし同時に、「情欲に身を焦がす」(7:9)よりは結婚することを勧めます。独身であることは強制ではなく、自由意志です。それを強制にした時、そこにサタンの誘惑が入り込みます。独身性をとるカトリック司祭が同性愛に陥りやすいのも、自然の感情を無視するためです。

・パウロの結婚観の背景にあるのは強い終末観です。彼は自分が生きている間に終末が来る、その時天変地異が起こると考えています。非常時を前に、キリスト者は世との繫がりを相対化すべきであると考えています。「兄弟たち、私はこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです」(7:29-31)。世の終わりは近い、その時に生き方は切迫したものになります。

・パウロの終末観は、現在の私たちにはありません。私たちは「明日は来る」と考えています。多分来るでしょう。しかし、明日の来ない日が私たちにも訪れます。死の時です。私たちが「死を前にして」今をどう生きるかを考えた時、パウロの危機意識を私たちも共有します。パウロが勧めるのは人生の出来事の相対化です。死を前にすれば、「どのような学校に入るか」、「会社の中でどうすれば昇進できるか」、「どのような人と結婚するのか」は、相対化されます。大事なことは「与えられた生命を、与えられた場で、一生懸命に生きる」ことです。ですから、「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召された時の身分のままで歩みなさい」という生き方になります。

・この言葉を言い換えたものが、「置かれた場所で咲きなさい」という言葉です。渡辺和子さんの言葉が有名ですが、その原点はアメリカの神学者ラインホルド・ニーバの祈りです。「神が置いて下さった所で咲きなさい。仕方ないとあきらめてではなく、咲くのです。咲くということは、自分が幸せに生き、他人も幸せにすることです。咲くということは、周囲の人々に、あなたの笑顔が、私は幸せなのだということを、示して生きることなのです。神がここに置いて下さった。それは素晴らしいことであり、ありがたいことだと、あなたのすべてが、語っていることなのです。置かれている所で精一杯咲くと、それがいつしか花を美しくするのです。神が置いて下さった所で咲きなさい」。ここに福音があります。

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