2018年4月15日説教(第一コリント3:1-13、神の宮を立てる)
1.キリストの体である教会で何故争いが起こるのか
・コリント書を読んでいます。教会は「エクレシア」と呼ばれます。エクレシアとは「呼び集められる」と言う意味です。キリストの名によって呼ばれた者が集められ、神の言葉を聞き、それぞれの場で福音を伝えるために遣わされていく場所です。ところが現実の教会ではそこに対立や紛争が生じます。争いの多くは、人間的な結びつきによるもので、この世の争いと変わりません。何故キリストの体である教会において、この世と同じ人間的な争いが起こるのか。それを私たちに教えるのが、コリント教会の経験です。
・コリント教会はパウロの開拓伝道により生まれました。巡回伝道者パウロはコリントに1年半滞在して教会の基礎を築き、その後を同僚のアポロに託して、エペソに移ります。アポロは雄弁家で、聖書に精通し、その説教は人々を魅了したようです。アポロに惹きつけられた人々はアポロ指導下に新しい方向に導かれることを望むようになっていきました。他方、創設者パウロからじかに教えを受け、導かれた人々は、そのような動きを、教会を誤った方向に導くものだと強く反対していました。アポロは雄弁で、外見も立派だったと伝えられています。他方、パウロは朴訥でその説教はわかりにくかったようです(第二コリント10:10)。教会の人々は外見や説教で二人を比べ、「私はアポロに」、「私はパウロ」にと争っていました。
・このコリント3章を読む時、いつもため息が出ます。人はバプテスマを受けても、その前と何も変わらないのか、バプテスマの意味は何なのだろうかというため息です。教会の混乱はコリントだけの問題ではありません。今日の教会でも、牧師と役員の争いにより牧師が辞任するという混乱が方々の教会で起きています。教会も人間の集まりであり、意見の対立や争いはやむをえないという考えに対して、「それは違う」とパウロは主張します。彼はコリント教会に書き送ります。「(あなたがたは)相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」(3:3)。
2.肉の人から霊の人へ
・キリストを救い主と受け入れるためには、霊の働きが必要です。コリント教会の人々も神の霊の導きでバプテスマを受け、キリスト者となりました。しかし、「霊を受けても乳飲み子のままにとどまっている」とパウロは指摘します。「兄弟たち、私はあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまりキリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。私はあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません」(3:1-2)。「肉の人」とは肉の思い、この世の知恵に支配されている人のことを指します。この世の知恵は他者を支配することを目的とします。だから知恵と知恵がぶつかり合い、争いが生まれます。彼らは、教会はキリストの体であり、アポロもパウロも「キリストに仕える僕」に過ぎないことを理解していません。だから「私はパウロに」、「私はアポロに」と争い合うのです。他方、神の知恵は神に仕えることを目的とします。故に知恵が人の利害を超えて、人を一致に導くのです。「教会は人の知恵ではなく、神の知恵を求める場所ではないか」とパウロは語るのです。
・パウロが求めるのは「信仰に成熟した人」(2:6)、「霊の人」(3:1)です。固い食物を食べることの出来る人、この世を超えたものに価値を見出せる人、「パウロが植え、アプロが水を注いだかもしれないが、成長させて下さるのは神である」ことを理解できる人です。パウロは語ります「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(3:5-6)。二人はただの奉仕者に過ぎない、教会を立ち上げるのは、パウロでもアポロでもなく神ではないか、と彼は語ります。人間的な好き嫌いの感情で、「私はアポロに」、「私はパウロに」、という争いをするために教会に集められたのではない。信仰の未熟者(子供)から成熟者(大人)になれとパウロは言います。
3.成熟した信仰者になれ
・パウロは10節から教会を建物に例えて説明をしています。彼は言います「私は、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています」(3:10)。初代牧師のパウロがコリント教会の土台を築き、二代目牧師のアポロがその上に建物を建てました。パウロは続けます「ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」(3:10b-11)。パウロが土台を据えましたが、基礎石になっているのはあくまでもキリストです。パウロもアポロも「神のために働く同労者」に過ぎず、「土台はキリストだ」とパウロは強調します。
・パウロは続けます「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです」(3:12-13)。耐久性のある資材(金、銀、宝石)で上物を造ったのか、それとも当座の必要を満たす物(木、草、わら)で造ったのかは、50年後、100年後に明らかになる。目先だけを考えた材料は50年後、100年後には朽ち果てるからです。「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受ける」(3:14-15)のです。
・私たちの教会は、2011年に会堂建設をしましたが、基礎工事にお金と時間をかけ、上物に耐久性のある資材を選びましたので、予算は当初の6,500万円から8,500万円に増加しました。小さな教会にとっては大幅な増額で、増額部分を教会債という形でお願いしました。結果的に自己資金(献金)は3,000万円、教会債4,000万円、連盟借入金2,000万円という形の資金調達になりました。資金の7割近くが借入金ですが、借入金の66%を占める教会債は教会員の方々からの借入であり、その基礎はキリストに対する信仰です。連盟貸付も諸教会からの献金が原資になっており、これもまた信仰が土台になっています。会堂建設の基礎もまたキリストなのです。
・教会は建物ではなく、そこに集う一人一人の信仰者の共同体が教会です。教会は祈りと讃美を捧げる場であり、会堂がなく、礼拝の場所が借家や借室であっても、礼拝を守ることが出来ます。しかし同時に、借家や借室で礼拝を行い続けた時、教会の継続が難しいこともまた事実です。私たちが舞浜伝道所を20年の苦闘の後に閉鎖せざるを得なかったことは、会堂を持たない教会形成の難しさを示しています。ただ、会堂を建て、維持するためには知恵が必要です。今、私たちは借入金の返済負担の重さにあえいでいます。一人一人の教会員が、この会堂の真の土台石はキリストであり、キリストが共にいてくださる限り、この会堂は神の宮で在り続けると信じる時、借入金の返済負担を共に担うことが可能になります。
・では教会は建物を造って、そこで何をするのでしょうか。ヘンドリック・クレーマーは「信徒の神学」の中で述べます「神は世と関わりを持たれる方であるゆえに、教会もまた世のために存在する。しかし、現実には、教会の関心は、教会自身の増大と福祉に注がれてきた。教会は宣教のための器として立てられた。宣教に専念し、世に向けて、御言葉を発信している教会では、分派や論争はおきにくい。主目的において一致があるからだ。教会はキリストに仕え、世に仕えていく。そこでは牧師と共に信徒も宣教の業を担う。信徒こそが世に離散した教会である。教会は信徒を通じて、この世にキリストのメッセージを伝えていく使命を持つ」。「世に向けて、御言葉を発信している教会では、分派や論争はおきにくい」という言葉は大切な言葉です。
・今日の招詞に1コリント3:22-23の言葉を選びました。次のような言葉です。「パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」。パウロは「一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のもの」と語りました。私たちの教会もこのような理想を持ちたい。私たちには「神と世の和解の言葉」が委ねられています。私たちには世を救う「福音」が委ねられています。パウロはコリント教会を「神の教会」、その信徒を「召されて聖なる者とされた人々」と呼びます。争いを繰り返している教会の人々を、パウロはそれでも「聖徒」と呼ぶのです。神に召された故に聖なる者とされたのです。
・私たちも「キリストの名によって召され、神の言葉を聞き、それぞれの場で福音を伝えるために」集められていいます。仲間割れや分派争いをしている時ではありません。教会には異なる人々が集められています。しかし、主から使命を委ねられているという理解は一致しています。この一致ゆえに、教会は「普通の人間の集団」ではなく、「聖徒の集まり」になり、福音を携えて、世に出て行くのです。内村鑑三の墓は多磨霊園にありますが、その墓碑には次の言葉が刻まれています「I for Japan.japan for the world.The world is for Christ. And all for God.」。「私は日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、そして全ては神のため」、私たちがキリストにある大志を持って教会形成に取り組んでいった時、教会は世に福音を伝える拠点になりうるのです。「Boys, be ambitious in Christ」、「キリストにあって一つ」、この共通理解があれば、この教会は大丈夫です。