2018年2月18日説教(マルコ10:17-27、所有からの解放)
- 金持ちの青年とイエスの出会い
・マルコ福音書を読み続けています。今日の聖書箇所は「所有についてのイエスの教え」です。10:17以下を見ていくことにしましょう。マルコは記します「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか』」。この人は22節で「たくさんの財産を持っていた」とあります。並行箇所マタイでは「青年」(19:20)、ルカでは「議員」と呼ばれています(18:18)。家柄が良く、金持ちで、地位の高い、この世的には成功者と見られていた青年が、イエスの所に来て、「永遠の命をいただくためには何をしたら良いのでしょうか」と問いかけてきました。この人にイエスはそっけない対応をされます「なぜ、私を『善い』と言うのか。神お一人のほかに、善い者はだれもいない」(10:18)。
・彼はたくさんの財産を持ち、地位も高かった。この世で生きるには十分なものを持っていた。しかし何かが欠けている、死んだ後どうなるのかについて確信が持てない。だから「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか」と聞いてきました。イエスは彼の問題を一目で見抜かれました。彼は善いことをすれば救われると考えているが、善い方である神を求めていない。「神お一人のほかに善い方、救いを与える方はだれもいない」のに、救いを自分の手で勝ち取ろうとしている。イエスは彼を試すために言われます「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」(10:19)。「戒めを守れば救われると考えるのであれば、守ったらどうか」とイエスは言われます。金持ちの青年は答えます「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(10:20)。しかし彼には救いの実感がありません。だからイエスのもとに来たのです。
・イエスはその彼に驚くべきことを言われます「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい」(10:21)。ここでイエスは五つの指示を彼に出しておられます。「行きなさい」、「売り払いなさい」、「施しなさい」、「来なさい」、「従いなさい」。「売り払いなさい」、「施しなさい」、という言葉で彼の問題点が浮き彫りになります。彼は自分の救いのために一生懸命に努力してきましたが、その中に「他者」という視点が欠けていたのです。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」、すべては「自分を愛するように隣人を愛しなさい」という他者のための戒めなのに、彼は自分の救い、満たしのことだけを考えていた、だから彼に信仰の喜びはなかった。それを知るために、「今持っている全てを捨てなさい」と命じられたのです。しかし彼はあまりにも多くを所有していましたので、イエスの言葉に従えませんでした。マルコは書きます「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」(10:22)。
2.所有からの解放
・この物語が私たちに何を語るのかを知るために、教会の解釈の歴史を振り返って見ます。最初の弟子たちはイエスの言葉を文字通りに受け止め、「全財産を捨ててイエスに従うべきだ」と考えました。使徒行伝は記します「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」(使徒行伝4:34-35)。ところが、しばらくするとこの共同体はきしみ始めます。使徒行伝6章によれば、教会の中に「日々の配給」の件で争いが起こります。「自分たちのもらい分は少なく、これでは生活できない」という人々が出てきたのです。共同体の全員が「財産を捨てて従う」生活をするとは、生産の伴わない消費生活であり、食べ尽くせばそこで終わりです。イエスがやがて行き詰るような生き方を薦められたとは思えません。初代教会の解釈はイエスの語られた真意とは異なります。
・初代教会を継承したカトリック教会は、この教えを限定的に受け止めました。全ての信徒が財産を捨てた場合、社会が機能しないため、教会は、聖職者には「清貧の誓い=全てを捨てる誓い」をさせますが、一般の人には強制しませんでした。その結果、聖職者には厳しく、一般の人には緩やかに規定を適用するという二重倫理が形成されていきます。ここから聖職者と平信徒という社会の二重構造が生まれていきます。このような社会をイエスが望まれたことでないことは明らかです。
・カトリック教会の改革者として生まれたプロテスタント教会は、この教えを象徴として受け取りました。富そのものは神の祝福であり、感謝していただけばよい。しかし、富を愛し、富に頼ることは禁じました。メソジスト教会の創始者ジョン・ウェスレーは言います「正直に稼ぎ、できるだけ節約し、必要以外のものは他に与えよ」。その「富を社会のために用いよ」と語ったのです。私たちはプロテスタント教会の一つとして、このウェスレーの考え方に同意します。富やお金そのものが汚れているのではなく、用い方によっては神に喜ばれるものとなります。しかし同時に、私たちがお金のとりこになった時に、それは悪に変わり得るし、人間を罪に誘うものとなる。私たちは金銭の神(マモン)から解放されなければいけない。だから私たちは痛みを感じながら、収入の十分の一を捧げる献金をするように勧められています。しかし、十分の一を捧げなければいけないと思った時、十一献金は義務になり、苦痛になります。十分の九を自分のために用いることが許されていると考える時、それは感謝と喜びの行為になります。
3.問題はお金ではなく生き方だ
・富める若者の物語はここで終わりません。物語の後半で、イエスは出来事の意味するものを弟子たちに教えられます「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」(10:23)。「貧乏人だから」、「全てを捨てたから救われる」とイエスが言われていないことを留意すべきです。それに続くペテロのエピソードもそれを示唆します。ペテロは言います「このとおり、私たちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(10:28)。並行箇所マタイは書き足します「では、私たちは何をいただけるのでしょうか」(マタイ19:27)。ペテロは何も捨てていない、イエスから良き物がいただけると思うから、職業を捨ててイエスに従っているだけのことで、イエスの十字架刑後には故郷のガリラヤに戻って漁師の職に戻っています(ヨハネ21:1-3)。いつでも戻ることのできる余地を残しながら従っていたのです。人は全てを捨てて従うことは出来ないのです。ペテロと富める青年と本質は何も変わらないです。それは私たちも同じです。
・イエスは何故、この青年に「財産を捨てて従いなさい」と言われたのでしょうか。それは彼が「善い事」、行いを積むことによって天国を獲得しようとし、命の源である神(善い方)を求めていなかった、それに気づくために彼は挫折する必要があったからです。青年が「全てを捨てることは出来ません。でもあなたに従いたいのです」と訴えたら、イエスはそれを喜んで受け入れられたと思われます。ルカ福音書でイエスは、徴税人ザーカイが職業と財産を持ったままで従うことを喜んでおられます(ルカ19:8)。パウロが語る通り、「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない」(第一コリント13:3)のです。
・ここまで来ますと、物語の主題がお金や富を棄てるかどうかではなく、生き方の問題であることが明らかにされていきます。自分の力に頼って救いを求めた時、それは挫折します。救いは恵みであり、ただ受ければよいのです。幼子がなぜ「神の国を受け入れる者」と言われているのか(10:15)、何も持たないから、「ただ受ける」しかないからです。イエスは言われました「人間に出来ることではないが神には出来る」(10:27)。金持ちの青年はお金や才能があったばかりに自分の力に頼り、「人には出来ない」という場所で引き返してしまいました。もし彼が、「神には出来る」という信仰でイエスの下に留まれば、神の国を見ることは出来たのです。
・今日の招詞に箴言30:7-9を選びました。次のような言葉です「二つのことをあなたに願います。私が死ぬまで、それを拒まないでください。むなしいもの、偽りの言葉を私から遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず、私のために定められたパンで私を養ってください。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、私の神の御名を汚しかねません」。聖書学者の市川喜一氏は注解の中で記します「富は神からの祝福です。それは良いものです。しかし、それを神からのものと自覚するところに、富に処する道の出発点があります。受けた人間は与えた神に、その富の使い方について報告する責任があります。その責任感が神への畏敬です・・・ところが、神への畏敬を教える宗教を極力排除してきた日本では、成功した者たちは“勝ち組”と称して、自分の力で得たものを自分の欲するままに使って何が悪いとばかり、富を豪奢な邸宅や生活に注いで自慢し、傲慢になるばかりで、社会との連帯感をもって、貧しい者を顧みる謙虚さはどこにもありません。社会が真に豊かになるためには、富に処する知恵が必要です」。その知恵こそが「貧しくもせず、金持ちにもせず、私のために定められたパンで私を養ってください」という箴言の言葉ではないでしょうか。
・ペテロはイエスの生前は、イエスのことを本当には理解できなかったと思えます。しかしイエスに従い通し、復活のイエスに出会った。金持ちの青年はお金や才能があったばかりに自分の力に頼り、「人には出来ない」という場所で引き返し、イエスとの真の出会いをしなかった。イエスに従い続ける時、私たちは、「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く」(イザヤ 35:5)体験をするのです。自己実現が人生の目標になっている人は常に欠乏に悩まされます。どんなに金持ちになっても、どんな高い地位についても、またどんなに幸せな家庭を築いても、それらはやがて無くなります。イエスは言われます「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(マタイ10:42)。自分のためだけではなく、他者のためにも生きる決心をした時、神の国が現れます。イエスが言われたように「実に、神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17:21)。神の国は努力して掴み取るものではなく、イエスに従う時に与えられる。そのことを覚えたいと思います。