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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2018年2月11日説教(マルコ7:31-37、エッファタ=開け)

投稿日:2018年2月11日 更新日:

2018年2月11日説教(マルコ7:31-37、エッファタ=開け)

 

1.エッファタ

 

・今日与えられました聖書箇所は、マルコ7章「耳が聞こえず、舌の回らない人の癒し」です。マルコ、マタイ、ルカの三福音書(共観福音書)には、115にのぼる病気治癒の物語が記録されていますが、現代に生きる私たちがこれをどう理解するかは難しい問題です。ある人は、「病気癒しの奇跡などあるはずがない」と一笑に付します。別の人は、「イエスは神の子であるから奇跡が出来て当然だ」と理解します。第三の立場では、「実際に癒しがあったかどうかはわからないが、対象となった本人と周囲の人々にとっては、癒されたとしか表現できない体験をした」と考えます。私自身はこの第三の立場に立ちます。イエスが多くの癒しや悪霊追放を為され、そのことによってイエスの評判が高まっていったことは歴史的な事実です。

・印象的な癒しの記事が福音書の中にあります。それは当時の話し言葉であるアラム語で伝えられた奇跡物語です。マルコ福音書にはアラム語をそのまま残したいくつかの記事があります。今日の聖書箇所では「エッファタ=開け」という言葉が用いられ、マルコ5章の少女の癒しでは「タリタ・クム=少女よ、起きなさい」という言葉が用いられています。イエスは呼吸の停止した少女に向かって、「タリタ・クム」といわれ、少女を起こされました。その場所には、三人の弟子たち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネが居合わせました。「タリタ・クム」というイエスから発せられた言葉が弟子たちの心に強く刻まれ、いつまでも忘れることができなかった。そして目撃者の一人ペテロが出来事をマルコに伝え、マルコも感銘を受けて、アラム語の発音をそのまま表記して、自分の福音書に書き込んでいったと思われます。「エッファタ=開け」も同様でしょう。イエスの肉声がここに記録されています。

・7章では、イエスがデカポリス地方を通ってガリラヤ湖に来られた時、「耳が聞こえず舌の回らない人」が連れてこられ、イエスがその人を癒されたことが報告されています。この出来事が起きた場所はデカポリスという異邦の地でした。イエスはガリラヤで宣教の業を始められましたが、ユダヤ教指導者はイエスを「宗教的権威に従わない者、体制に反抗する者」として憎み、イエスを殺す計画を立て(3:6)、ガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスもイエスを「秩序を乱す者」として、捕らえようとしています(6:14)。イエスはご自分の民であるユダヤの人々から受け入れられず、異邦の地に一時的に避難され、旅の途上でこの人に会われたのです。「人々が、耳が聞こえず、舌が回らない人を連れてきて、その上に手を置いてくださるようにと願った」(7:32)とあります。

・人々は奇跡行為者として名を知られていたイエスに、癒してくれるように求めたのです。イエスは「この人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」とマルコは記します(7:33)。この人と一対一で向き合われ、そして病んでいる患部、耳と舌に触れられました。しかしそれだけでは十分ではありません。だからイエスは「天を仰いで、深く息をつかれた」(7:34)。「天を仰ぐ」、神に力を与えてくれるよう請い願う動作です。「深く息をつき」、ギリシア語「ステナゾー」、「うめく、もだく」の意味です。イエスは、人間自身の力では変えることの出来ない嘆きや苦しみを負う人を前にもだえ、うめき、「エッファタ」という言葉を言われました。すると「たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」とマルコは記します(7:35)。

 

2.物語が伝えるもの

 

・マルコは、イエスが「共にうめかれた」と記します。イエスは何故、この人と共にうめかれたのか、それはこの人と「出会った」からです。その出会いを導いたのは村人でした。マルコは記します「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った」(7:32)。村に「耳が聞こえず、舌の回らない人」がいた。村人たちは他者とコミュニケーションができないこの人に心を痛め、何とか治らないものかと願っていたが何も出来なかった。そこにイエスが来られた。イエスはこの地方でかつて悪霊につかれた人を癒されたことがあります(マルコ5:20)。村人たちはその評判を聞き、その預言者が近くに来られたことを知り、この人ならば癒してくださるかもしれないと思って、その人をイエスの前に連れてきたのです。イエスはそこに、村人の信仰を見られました。村人たちの信仰が障害のある人をイエスに「出会わせ」、イエスの「うめき」をもたらしたのです。このうめきが、この人を交わりに中に戻しました。

・作家・柳田邦夫氏は「犠牲、わが息子・脳死の11日間」という本を書いています。彼の次男は自殺を図り、11日間脳死状態を続けた後亡くなりましたが、柳田氏はその時のことを本に書きました。柳田氏は死につつある息子に寄り添いながら、死には三つの形態があることに気づきます。「一人称の死」、「二人称の死」、「三人称の死」の三つです。一人称の死とは自分自身の死で、これは人間には認識できない死です。二人称の死とは、親子や配偶者、兄弟、親しい友人等の死で、この死を経験した者は、自分の一部がなくなるような深い悲しみ、喪失感を味わいます。三人称の死とは、自分と関りのない人の死で、例えばアフリカで何千人が餓死しても、隣町で自殺する方がいても、自分の生活は昨日と同じで変わりません。

・イエスはこの障害の人と出会われた時、その人を三人称ではなく、二人称の関係ととらえられた。そのため、「共にうめく」という出来事が生じたのです。そして、それをもたらしたのは、隣人たちの信仰でした。彼らもまたこの病の人を三人称ではなく、二人称として、自分の問題として、とらえたのです。マルコはこの物語を人々の賛美で締めくくります「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」(7:37)。他者のために労した人々は、やがて神の出来事の証人になっていきます。ユダヤ人たちはイエスの業を見ても讃美できませんでしたが、異邦の人々は「今、神の国が来た」ことを喜ぶことが出来た。そして神の国は、人々の信仰とイエスのうめきによって、もたらされたのです。

 

3.共にうめく

 

・今日の招詞にローマ8:22-23を選びました。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」。パウロの語る「うめく」という言葉も、「ステナゾー」です。パウロは「被造物がすべて、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」と言います。この世にはあまりにも悲しいこと、不条理なことが多く、その中でどうしてよいかわからない時、うめくしかないです。しかしその「うめき」から何かが生まれます。パウロは言います「このうめきは産みの苦しみであり、うめきを通して救いが与えられる」と。パウロはローマ書の中で言葉をつなぎます「私たちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(8:26)。私たちが祈ることも出来ない時には、神の霊が私たちに代わってうめいて執り成してくださると。「うめきは力である」というのです。

・マルコ7章の物語では、近隣の人たちが、「耳が聞こえず舌の回らない人」の課題を三人称、自分には関係のない問題とはとらえずに、二人称、自分の家族の問題と同じようにとらえ、その人をイエスの元に連れて来ました。その信仰がイエスに「共にうめく」ことを可能にさせ、この人の癒しを導きました。その癒しを通して、この人はコミュニケーションを回復することが出来ました。心を通わすことが出来ないでいた人が、隣人と一緒に喜ぶ存在に変えられました。それを可能にしたのは、村人の働きでした。

・「三人称の出来事を二人称化する」、それこそイエスが私たちに求められていることです。「隣人と共に生きる生き方」です。マザーテレサは語ります「あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう・・・善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう・・・助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく助け続けなさい。あなたの中の最良のものを世に与え続けなさい」。

・隣人と共に生きるとは、ある時には相手の重荷を担う生き方になります。しかし素晴らしい生き方です。何故ならそのことを通して神の栄光を見る、神と出会うのですから。障害を持つ人々の隣人は讃美して言いました「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」。イザヤはメシアの到来を預言しました。「神は来て、あなたたちを救われる。その時、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。その時、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」(イザヤ35:5-6)。人々はイエスの行為の中に神の働きを見て讃美したのです。

・この物語で恵みをいただいたのは、癒された本人でしょうが、それ以上にこの隣人たちかもしれないと思います。私たちも隣人になるよう招かれています。そして隣人になるとは「三人称の出来事を二人称化する」ことなのです。「神の国は既に来ている」、この希望の福音を私たちは伝えていきます。私たちが「エファタ」と言っても耳の悪い人の耳を開けることは出来ないでしょう。私たちが「タリタ・クミ」と言っても死んだ人が生き返るわけではない。しかし、私たちは「聖なる方との出会い」体験を通して、それが出来る方がおられることを知ります。マルコ7章では「村に耳が聞こえず、舌の回らない人がいた。村人たちはその人をイエスの前に連れてきた。村人たちの信仰が障害の人をイエスに出会わせ、イエスのうめきをもたらし、このうめきが、この人を交わりに中に戻した」。私たちには出来ないことでも神には出来る、その信仰を持って、私たちは人々を教会に招き、イエスとの出会いを祈るのです。

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