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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2018年3月4日説教(マルコ12:38-44、最善のものを捧げる)

投稿日:2018年3月4日 更新日:

2018年3月4日説教(マルコ12:38-44、最善のものを捧げる)

 

1.イエスはすべてを捧げるために来られた

 

・マルコ福音書を読み続けています。イエスは日曜日にエルサレムに入られ、神殿で民衆に教えられました。パリサイ人やサドカイ人が論争を挑んできましたが、誰もイエスに勝てません。その後、イエスの方から人々に問われます「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」(12:35)。イエスがエルサレムに入城された時、人々はイエスを歓呼して叫びました「ダビデの子にホサナ」。メシア、救い主はダビデの子孫から生まれる、そのメシアこそイスラエルをローマの植民地支配から解放してくれる人だとユダヤの人々は信じていました。人々はイエスの為された不思議な業を見、力ある教えを聞いて、この人こそメシアかもしれないと思いました。だからエルサレムの人々はイエスを迎えて、「ダビデの子にホサナ」と叫びました。

・それに対してイエスは言われます「私はダビデの子ではない。私はエルサレムをローマの支配から解放する為に来たのではない」。自分の使命は地上に神の国を建てることではなく、人々の心の中に神の国を建てることだ。「神の平安の中に生きることこそ神の国なのだ」とイエスは言われます。そしてイエスは、神殿で一人の貧しいやもめが自分の持っているもの全て献げたのを見て、心を動かされて言われました「私はあの貧しいやもめと同じだ。私はあなた方に自分を献げるためにこのエルサレムに来た」。マルコ福音書12章41節以下の物語は「やもめの献げもの」して、よく知られています。今日はこの物語を通して、「信仰による平安」について学んでいきたいと思います。

・イエスの時代、エルサレムには祭司やサドカイ派など神殿と結びついた裕福な人々がいました。また、律法学者は神の戒め=律法を守るように民衆を指導していました。しかしイエスは彼らを批判して言われます「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、 また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」(12:38-40)。彼らの行動はすべて「人に見せるため」(マタイ23:5)だとイエスは批判されます。「彼らは神を信じ崇めているのではなく、自分を信じ崇めている」と。

・この律法学者や祭司たちと正反対の立場にいたのが、「やもめ=寡婦」でした。聖書の中で、寡婦は、孤児と並んで、いつも社会的弱者の代表です。孤児は自分を守ってくれる親がいない子どもであり、寡婦は自分を守ってくれる夫を失った人でした。彼らの後ろ盾は誰もいない、だから彼らは神に頼って生きる。だからこそ、この人々を大切にするように律法は要求していたのです。出エジプト記は記します「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼が私に向かって叫ぶ場合は、私は必ずその叫びを聞く。そして、私の怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる」(出エジプト記22:21-23)。

 

2.貧しいやもめの献金

 

・イスは神殿の賽銭箱に向かって座っておられました。イエスのおられるところから人々が献金する様子がよく見えます。当時、エルサレム神殿の中庭には13の賽銭箱があり、献金の種類によって賽銭箱が分かれていたそうです。箱のそばには祭司がいて、大口献金の時には、祭司が献金者と献金額を読み上げる慣習があったそうです。そのため、周りの人たちも誰がいくらくらい献金しているのかを知ることが出来、人々は先を争ってたくさんの献金をしました。献金額の大小が、その人の信仰を測るものさしになっており、たくさん献金した人は人々の賞賛を集めたのです。

・その時、一人のやもめがレプタ二つを献金しました。おそらくは祭司のいないところで隠れるようにして献金したのでしょう。レプタは当時使われていたギリシア貨幣の最小銅貨レプトンの複数形、レプタ二つで1デナリの64分の1、1デナリが労働者1日分の賃金で今日の貨幣感覚では8千円程度、その64分の1であれば価値では100円位のお金、レプタ二つとは50円玉二つのようなものです。しかし、イエスはやもめの表情から、彼女が持っているもの全てを入れたことを悟られ、感動されます。イエスには、やもめの気持ちが手を取るようにお解りになりました。やもめの手元に今、レプトン銅貨が二つあります。最期のお金です。今日は神様に特別に恵みをいただいた、この感謝を表したい、そのためには手元にあるものの一部ではなく、全部を献げたい。やもめはこのお金を献げてしまった後、今日のパンをどうするのかは考えていません。「必要なものは神が与えてくださる。だからすべてを捧げよう」。イエスはやもめの表情から彼女の心を推察され、「持っている全てを献げる、後のことは父なる神に委ねる」、そのやもめの信仰をご覧になった。イエスはその信仰に感動され、「アーメン」と言われたのです。

・彼女の前には三つの選択肢がありました。「一つは、この二枚のお金でパンを買い、あと一日だけ飢えをしのぐということです。しかし、その後、どうするかは何も見えていない。もう一つの道は、一枚のお金でパンを買い、もう一枚を神に捧げる道です。神の恵みを得るためには、これでも十分な捧げものになったと思うのです。しかし、彼女は、もっとも考えにくい道、二枚のすべてを神にお捧げするという道を選びました。明日からどうやって生きていくつもりだろうか、けれども彼女自身にはそんな心配はなかったに違いないのです。明日の心配をするくらいなら、初めからすべてを捧げたりはしません。しかし、自分のために取って置いたからといって、救いになるほどの財産ではありません。一日分のパンを買えるかどうかというお金なのです。彼女は、いっそすべてを神様にお捧げして、明日の心配も含めて、神様にお委ねしようと考えたのだろうと思うのです。」(日本基督教団荒川教会・国府田祐人牧師の説教から)

 

3.持たない者の幸い

 

・やもめは持っているものをすべて献げました。では、私たちも、持っているものを全て売り払って貧しい人に施すべきなのでしょうか。あるいはすべてを捨てて修道院に入り、すべての時間を神に献げることを求められているのでしょうか。ある人たちはそう考え実行しましたが、平安は来ませんでした。犠牲的に献げてもそこに喜びは生まれないのです。献げるとは生かされている恵みに対する感謝であり、献げる事の出来ることを喜んだ時、その献げものは神に喜ばれる献げものになるのです。

・今日の招詞に列王記上17:13-14を選びました。次のような言葉です「エリヤは言った『恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれで私のために小さいパン菓子を作って、私に持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない』」。エリヤの時代、大旱魃があり、飢饉がシリヤ地方にも及び、貧しいサレプタのやもめの家では食糧備蓄が底を尽き、死を覚悟していました。そのやもめに、主は「エリヤのためにパンを供せよ」と命じられます。やもめは、最後の一握りの小麦粉でパンを作り、それを差し出します。すると「壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」という主の言葉通り、飢饉の間もやもめ一家とエリヤは養われたという話です。どのようにして必要が満たされたのか、私たちにはわかりませんが、何らかの事実が基底にあって伝説化された物語であろうと思われます。「すべてを差し出した、後は神に委ねる」、そのところに神の救いの力が働いたのです。現代の複雑な経済社会でも、サレプトのやもめやレプタ二つを捧げたやもめのような生き方は可能なのでしょうか。可能だと思います。

・私たち夫婦は今、教会の牧師館に住んでいます。引退後、住む家は用意していません。結婚して40年になりますが、これまで何度も住宅を買う機会はありました。30歳の時にはマンションの売買契約書にサインしたこともありますし、45歳の時には住宅購入のために頭金を振り込んだこともあります。しかし本社から離れたり、福岡に転勤になったりで、住宅を購入することなく、今に至りました。もし住宅を購入して多額のローンを抱えていたら、50歳で勤め先を退職して牧師になることはなかったでしょう。持たないゆえに、牧師になることが出来た。そこに神の導きがあったと感じています。今、将来に特に不安はありません。「68年間養ってくださった神は、これからも養ってくださる」と信じているからです。

・「持たない者の後ろ盾は神しかいない」。貧しいやもめはレプタ二つしか持っていないから全てを献金できたと思います。レプタ二つ(50円玉二つ)ではどうしようもない。仮に彼女が10デナリ(8万円)を持っていたら半分の5デナリを自分のために残したでしょう。しかし、持たない故に神に頼り、すべてを捧げたことにより、そこから神の国が見えて来ました。へブル書は語ります「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」(ヘブル11:13)。

・私たちはこの世では寄留者、仮住まいの身です。トルストイの短編に「人間にはどれだけの土地が必要か」というものがあります。少しでも広い土地を獲得しようとして、死にものぐるいの努力を続けて倒れた男が必要としたのは、その遺骸を葬るための墓穴にすぎなかったという作品です。信仰の祖と呼ばれたアブラハムが地上で手に入れたのは、妻と自分を葬るための小さな墓所でした(創世記25:10)。私たちは家を持ち、貯金を積んで将来のために備えようとしますが、その時聞こえてくるのは「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」という声です(ルカ12:20)。

・サレプタのやもめは最後の粉と油でパンを焼いて、食べたら死のうと思っていました。そこにエリヤからの要望(私のためにパンを焼きなさい)があり、エリヤのために最後の粉でパンを焼いて提供しました。彼女も神に頼らざるを得ませんでした。神に頼るしか道がない時、「必要なものは神が与えてくださる」という不思議な経験をし、「これまで養ってくださった神はこれからも養ってくださる」との信仰が生まれ、何者にも代えがたい「神の平安」が与えられていきます。持つ能力を与えられた人は、「大いに稼ぎ、大いに貯め、大いに捧げる」ことを目指すべきだと思います。他方、持たない人は「神に依り頼む」ことを目指していく。そして共に神を賛美して生きる、その時、私たちの教会が神の国の一部になって行きます。

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