2018年11月18日説教(イザヤ63:7-19、天を裂いて降って来てください)
1.苦難の中での祈り
・イザヤ書は40章から第二イザヤという預言者の言葉が始まります。バビロニアに国を滅ぼされ、異国の地で捕虜となって苦しんだイスラエルの民に、「主が私たちを解放してくださる」との希望の預言が語られます。そしていよいよ捕囚の民の帰国が始まり、人々はイスラエルを目指して帰国の旅につきます。しかし故国に帰ってみると、住んでいた家には他の人が住み、畑も他人のものになっていました。彼らは「主がエルサレムをエデンの園にして下さる」と励まされて帰国しましたが、現実は予想を上回る厳しさです。彼らは言います「主の手が短くて救えないのではないか。主の耳が鈍くて聞こえないのではないか」(59:1)。主に対する信仰まで揺らぎ始めています。人々はつぶやき始めます「私たちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている」(59:9)。約束が違うではないか、どこにエデンの園があるのか。帰らなければ良かった、バビロンの方が良かったと民は言い始めているのです。
・預言者は信仰をなくした民に語り掛けます「これまでの救済の歴史を忘れたのか、主は私たちを救い続けて来られたではないか」と。「私は心に留める、主の慈しみと主の栄誉を、主が私たちに賜ったすべてのことを、主がイスラエルの家に賜った多くの恵み、憐れみと豊かな慈しみを」(63:7)。「エジプトから救い出された主の慈しみを思い起こせ」と預言者は語ります「主は輝く御腕をモーセの右に伴わせ、民の前で海を二つに分け、とこしえの名声を得られた。主は彼らを導いて淵の中を通らせられたが、彼らは荒れ野を行く馬のようにつまずくこともなかった。谷間に下りて行く家畜のように、主の霊は彼らを憩わせられた。このようにあなたは御自分の民を導き、輝く名声を得られた」(63:12-14)。
・主は私たちに語られた「あなたは私の民、偽りのない子らである」(63:8)。そして主は私たちの救い主となられた。「主は私たちの苦難を常に御自分の苦難とし、御前に仕える御使いによって私たちを救い、愛と憐れみをもって私たちを贖い、昔から常に、私たちを負い、私たちを担ってくださった」(63:8-9)ではないか。そして今、私たちを「バビロンから救い出してくださったではないか」。それなのになぜつぶやくのか「主の手が短くて救えないのではないか。主の耳が鈍くて聞こえないのではないか」と。
2.天を裂いて降りたまえとの祈り
・預言者は語りを続けます「主が今、あなた方を捨てられたように見えるのは、あなた方が主に背いたからだ」と。かつてモーセを用いてあなた方を救われた主は、あなた方の背信によって、今あなた方から目をそむかれた。だから今主はあなた方と共におられないと預言者は語ります。「彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた。主はひるがえって敵となり、戦いを挑まれた」(63:10)。しかし、民を諫める預言者自身も神の沈黙に悶えています。神の沈黙は罪に対する裁きだと理解していても、このままでは民の心が死に絶える。預言者は民を諫めると同時に主に嘆願の叫びをします「どうか、天から見下ろし、輝かしく聖なる宮から御覧ください。どこにあるのですか、あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは、抑えられていて、私に示されません」(63:15)。
・預言者は祈り続けます「あなたは私たちの父です。アブラハムが私たちを見知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは私たちの父です。私たちの贖い主、これは永遠の昔からあなたの御名です」(63:16)。それなのに、「なにゆえ主よ、あなたは私たちを、あなたの道から迷い出させ、私たちの心をかたくなにして、あなたを畏れないようにされるのですか。立ち帰ってください、あなたの僕たちのために、あなたの嗣業である部族のために」(63:17)。「民はあなたの力とあなたの憐れみに疑問を感じています。どうかあなたの力と憐れみを彼らに示してください」と預言者は叫びます。
・神の沈黙に対する民の呻きは預言者の呻きでもあります。預言者は祈ります「あなたの聖なる民が、継ぐべき土地を持ったのはわずかの間です。間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。あなたの統治を受けられなくなってから、あなたの御名で呼ばれない者となってから、私たちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように」(63:18-19)。「私たちをバビロンから連れ出し、エルサレムに導かれたのはあなたではないですか。最後まで面倒を見てください。今こそ天を裂いて降って来て、この地上の出来事に介入して下さい。あなたが私たちと共におられることのしるしを見せて下さい」とイザヤは祈り続けます。
・63章の祈りは64章にも連続しています。預言者は自分たちの罪の故に、神が沈黙しておられることを知っています。だから祈ります「私たちは皆、汚れた者となり、正しい業もすべて汚れた着物のようになった。私たちは皆、枯れ葉のようになり、私たちの悪は風のように私たちを運び去った。あなたの御名を呼ぶ者はなくなり、奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの悪のゆえに、力を奪われた」(64:5-6)。しかし、それにもかかわらず預言者は救いを求め続けます。「しかし、主よ、あなたは我らの父。私たちは粘土、あなたは陶工、私たちは皆、あなたの御手の業。どうか主が、激しく怒られることなく、いつまでも悪に心を留められることなく、あなたの民である私たちすべてに目を留めてくださるように」(64:7-8)。
・私たちは罪を犯した。あなたから糾弾されても仕方がない。それでも「主よ、私たちを救ってください。あなたが私たちを造られたではありませんか」と預言者は激しく求め続けます。「あなたの聖なる町々は荒れ野となった。シオンは荒れ野となり、エルサレムは荒廃し、私たちの輝き、私たちの聖所、先祖があなたを賛美した所は、火に焼かれ、私たちの慕うものは廃虚となった。それでもなお、主よ、あなたは御自分を抑え、黙して、私たちを苦しめられるのですか」(64:9-11)。
3.激しい祈りに応えられる主
・預言者の激しい祈りに応えて啓示された言葉が、今日の招詞イザヤ65:17-18です。次のような言葉です「見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。私は創造する。見よ、私はエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する」。主は荒廃したエルサレムに代り、新しいエルサレムを創造されるとの幻をイザヤは示されました。「苦難の時は過ぎ去り、救いの時が来る」とイザヤは歌い始めます。預言者はどのような絶望の中にあっても希望を持ち続け、その希望を幻として民に提示します。それが預言者の役割です。
・預言者は主の言葉を語ります「私はエルサレムを喜び、わが民を楽しむ。泣く声と叫ぶ声は再びその中に聞えることはない。わずか数日で死ぬみどりごと、おのが命の日を満たさない老人とは、もはやその中にいない。百歳で死ぬ者もなお若い者とせられ、百歳で死ぬ者は呪われた罪びととされる」(65:19-20)。神が共におられる故に、エルサレムは再び繁栄の都となる。そこには泣き声や叫び声は絶え、幼くして死ぬ子どもも、命の日を満たさない老人もいなくなる。イザヤの時代、乳幼児死亡率は高く、天寿を全うせず死ぬ者も多かった。その中での希望の言葉です。
・聖書が私たちに告げることは、「いかなる場合でも希望を持ち続けよ。主はそれをかなえてくださる」という約束です。その約束を信じ続けた人がヴィクトール・フランクルです。彼は1905年にウィーンで生まれた精神科医でしたが、ユダヤ人でしたので、第二次大戦中、ナチスによって、強制収容所に送られます。彼の妻や子、また両親は収容所の中で殺されています。フランクルは、持ち物を全部取り上げられ、素っ裸にされた時、心の中でこうつぶやきました「あなたたちは私から妻を奪い、子どもたちを奪うことができるかもしれない。私から服を取り上げ、体の自由を奪うこともできるだろう。しかし、私の身の上に降りかかってくることに対して、私がどう反応するかを決める自由は、私から取り除くことはできない」。
・フランクルは収容所で絶望して自殺を決意した二人の囚人に語りかけました「あなたを必要とする何かがどこかにあり、あなたを必要としている誰かがどこかにいるはずです。そしてその何かや、誰かは、あなたに発見されるのを待っているのです」(V.E.フランクル「生きる意味を求めて」から)。フランクルは、非人間的な扱いを受ける収容所の中で、なお人間としての誇りを失わず、人々に優しい言葉をかけ、生きる希望を持ち続け、与え続けました。そして、人々が次々と死んでいく中でも、彼は生き延びました。彼と同じように、希望を持ち続けることを選んだ人たちも、また生き延びることができました。彼は言います「どんな状況でも人生にイエスと言うことができるのです」(V.E.フランクル「それでも人生にイエスと言う」)。これがイザヤ書の信仰であり、私たちの信仰でもあります。
・今週、バプテスト連盟総会に参加しました。主題聖句は箴言4:25-26「目をまっすぐ前に注げ。あなたに対しているものに、まなざしを正しく向けよ。どう足を進めるかをよく計るなら、あなたの道は常に確かなものとなろう」でした。主題聖句の解説文は記します「“御言葉はそう言っているが現実はこうだ”というのではなく、“現実はどうであっても御言葉はこういっている”と御言葉にまっすぐ聞き従って行こう」。カール・バルトは死の前日の1968年12月に親友のトルナイゼンとの電話で語りました「意気消沈だけはしないようにしよう。主がこの世界を治めていたもう。神は私たちが滅びるままには放置されない」。現実がどんなに暗い時にも希望を持ち続ける、神が見えない時は叫び続ける、そして叫べば主は「天を裂いて降ってくださる」、このイザヤの信仰こそが私たちの信仰です。