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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2018年11月12日水口仁平兄姉葬儀説教(Ⅰテサロニケ4:13-18、復活の信仰に生きる)

投稿日:2018年11月12日 更新日:

2018年11月12日水口仁平兄姉葬儀説教(Ⅰテサロニケ4:13-18、復活の信仰に生きる)

(1927年2月21日生まれ、召天日 2018年11月9日 告別式11月12日13時、火葬15時)

 

・水口仁平兄が、91年の旅路を終え、主の御もとに帰られました。今日は、水口仁平兄の葬儀を行うにあたり、改めて人の死について考えます。テキストはパウロがテサロニケ教会に書いた手紙です。パウロはテサロニケの人々に福音を伝えましたが、その福音とは「イエスの十字架の購い、イエスの復活、イエスの再臨」でした。パウロは語ります「あなたがたは偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになった。また御子が天から来られるのを待ち望むようになった」(1:9-10)。「御子が天から来られる」、キリストの再臨です。初代教会においては、再臨、キリストが再び来られることを通して救いが完成することが信仰の中核的な意味を持っていました。主の祈りで、私たちは、「御国を来たらせたまえ」と祈りますが、この祈りこそ再臨、神の国の完成を待望する祈りです。

・テサロニケの人々は同胞からの迫害という苦難の中にありましたが、主が再臨され、神の国が完成すれば、自分たちに栄光が与えられるという希望に生かされていました。ところが教会員の一人がその再臨を見ずに死んでしまった。人々は動揺しました。再臨を待たずに死んだ者は、主の栄光=救いにあずかれないのではないか、自分も今死ねば救われないのではないかと、人々の間に不安が拡がっていきました。だからパウロは書きます「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」(4:13)。

 

・信仰を持たない人々にとって、「死は嘆き悲しむ出来事」であり、「死は受入れるしかない」出来事です。当時の手紙には次のように書いてあります「死に対して私たちが出来ることはありません。だからあなたたちはお互いに慰めあって下さい」(NTD新約注解・パウロ小書簡P442)。信仰を持たない人にとって、死は救いのない絶望です。これは現代においても同じです。多くの人は死を全ての終わりと考えています。しかし、パウロは言います「イエスが死んで復活されたと私たちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(4:14)。キリストが復活されたのであれば、キリストを信じて死んだ兄弟もまた復活する、それなのに何故嘆き悲しむのかと。

・パウロの手紙を通して明らかになるのは、テサロニケの人々は主の再臨の前に死ぬことを恐れた、つまり彼らは主の救いを信じていても、その信仰の中に「死」を位置づけていなかったということです。「信仰によって生きる」ことを彼らは目指しましたが、「死ぬ」こともまた信仰の中に含まれる事に気づきませんでした。だから死という現実が目の前に迫ってくると、動揺し、嘆き悲しみました。現代の私たちも死を認識しない生活をしています。かつては人生50年であり、死がいつも隣にありました。しかし、人生80年の時代になり、60歳になっても70歳になっても死なず、いつまでも生きるかのような幻想を私たちは持つようになりました。信仰においても死ぬことではなく、生きることが中心になってきました。

・「信仰によって生きる」、主を信じ、その救いに預かるならば、恵みの中に生きることが出来ます。苦しみや悲しみに打ち勝つ力をいただき、喜びと感謝の人生を歩むことが出来ると私たちは考えています。しかし、主を信じ、その救いにあずかる事の中に「死がない」。だから近親者の死や自分の病気等により死が目前に迫ってくると、信仰者でさえ慌てふためく時代になりました。パウロが言うように「眠りについた人(死んだ人)たちについて、希望を持たない他の人々のように嘆き悲しむ」ようになったのです。

 

・信仰者は死もまた神によって与えられる恵みであると信じ、人生を走り終えた後、休息としての死が与えられ、最後の日には復活して永遠の命をいただく希望に生かされます。「死は眠りに過ぎない」、信仰者にとっても近親者の死は悲しい出来事であり、自分の死は怖い出来事です。しかし、その悲しみや恐怖を包む希望が与えられます。何故ならば、「キリストによって死は眠りに変えられた」という福音の言葉を聞くからです。

・パウロはⅠテサロニケ5:10-11で語ります。「主は、私たちのために死なれましたが、それは、私たちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」。パウロは死を眠りと表現します。「目覚めていても眠っていても」、生きていても既に死んだとしても、との意味です。眠るということは「目覚めて起きる時が来る」ことを意味しています。それが復活です。私たちの人生が死によって切断されるのではなく、死を通して続くことを信じることです。それは根拠のない信仰ではありません。イエスが十字架から復活されたことが確実であれば、私たちが死から復活することもまた確実なのです。

・コリント教会への手紙の中で、パウロは、「キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえった」と言います(Ⅰコリント15:20)。キリストは復活してペトロに現れ、使徒たちに現れ、パウロ自身にも現れた。キリストの復活は、キリストだけに起こった特別の出来事ではなく、死者が復活することを代表する出来事であり、それをパウロは「初穂」と表現します。キリストが「初穂」であり、私たちがそれに続くとパウロは語ります。

 

・現代は科学の時代です。私たちは科学的真理を信じます。しかしその結果、私たちは科学が承認することしか受け入れることができなくなり、復活を信じることが難しくなりました。復活を信じることの出来ない現代人は、ますます死の束縛の中に捕われ、死はタブーとなって社会から隠されました。しかし死は厳然としてあります。科学ですべてのことが語り尽くされるのではない事を認識する必要があります。この科学の時代において、私たちは改めて復活信仰を正しく理解しなければならないのです。

・私たちは復活を信じます。復活を信じる者は、この世の生に執着する必要がなくなります。この世で成功し、人から賞賛されることが人生の目標ではなくなります。復活を信じる者は、障害を持って生まれ、幼くして命を召された子どもたちの人生も、志半ばで病に倒れて亡くなられた方々の人生も無意味ではなかったと信じることが出来ます。このような信仰を与えられた者は、病気で苦しんでいる人々や、親しい人を亡くして喪失感に悩んでいる人々を助けることが出来ます。何故ならば自分の問題は既に解決されているからです。私たちはどう生きるべきかが解決済みであるゆえに、他者をどう慰め、どう励ますかが私たちの人生の主題になります。

・アウグスティヌスは「神の国」で二つの愛を述べています「二つの愛が二つの国を造ったのである。すなわち、神を軽蔑するにいたる自己愛が地の国を造り、他方、自己を軽蔑するにいたる神への愛が天の国を造った」と。復活信仰に立つということは、神の国の住人とされた者として生きることです。堀江エステル姉はその人生の前半を自己愛のために生きられました。しかしある時、復活の主との出会いを通して、自分のためではなく、他者のために生きる生き方に変えられました。復活体験は言葉では説明の出来ない出来事です。しかしイエスの十字架刑の時に逃げ去った弟子たちが、やがてまた集められ、「イエスは死からよみがえられた。私たちはそれを見た」と宣教を始め、死を持って脅かされても信仰を捨てなかったことは歴史的事実です。私たちもまたいろいろな場面でイエスとの出会い体験を通して、新しい人生を生き始めます。その先人としての水口仁平兄の生涯に敬意を表します。

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