2017年5月7日説教(ローマ5:12-21、原罪からの解放)
1.人間の罪の有様を描くローマ書
・「ローマの信徒への手紙」は、パウロが帝国の首都ローマにある教会に宛てた書簡です。パウロはいつの日か、世界の中心、ローマに行って伝道したいと願い、今未知のローマの教会に手紙を書いています。通常であれば挨拶と自己紹介の簡単な手紙になるはずでした。しかし、ローマ教会には「ユダヤ人と異邦人の対立」があり、そのため、パウロは詳細な救済論を書くに至りました。ローマ教会も当初はユダヤ人中心の教会でしたが、次第に異邦人も加入し、民族混合の共同体になっていました。そして教会内で対立が生まれ、コリントにいるパウロにもその知らせが届きます。同じ教えを信じる信仰者の間に、なぜ対立や争いが生じるのか、パウロはその根源に、「人間の罪」を見ます。
・パウロは最初の挨拶の言葉を終えるや、「罪とは何か」を説き始めます。人の罪は、「神を知りながら、神を神として認めない」ことからくるとパウロは語ります。神は、その人間に対して、「彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられた」(1:24)。神の懲らしめとしての欲望の放置は、まず性的な放縦として現れ、同性愛や不倫が横行します。またそれは、対人関係に関する悪としても現れます。「自分さえ良ければ良い」というエゴイズムが人間世界を支配し、したいことをすることにより、お互いを傷つける悪が生まれ、それらの悪が人を悲惨に陥れて行きます。神という絶対者のいないところでは、自分が神となり、自分の欲望が露わに表に出る、それが性的放縦やエゴイズムとなるのです。
・そしてパウロは人間の罪の有り様を表示します。「善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない」(3:12-18)。人間の歴史は戦争の歴史であり、今でも戦争をやめることはできません。また神は生命を継承するために人を男と女に造られましたが、人間はこの性を快楽の道具として、不倫や同性愛を繰り返してきました。この世は罪と不正に満ちているとパウロは語るのです。
2.原罪
・人間の罪は人類の始祖「アダムの罪」から始まったとパウロは考えています。「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(5:12)。アダムの罪とは、アダムがエデンの園に植えられた「善悪の知識の木」の実を食べたことに象徴されています。アダムは、「食べるなと命じられた」神の戒めに背きました。神の被造物が神から離れようとすれば、死にます。罪を犯したアダムに神は宣言されます「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる・・・お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3:17-19)。
・アダムはヘブライ語で「人」を指します。アダムという人類の始祖が罪を犯したというよりも、アダムに代表される人間が「罪を犯し続ける存在」であることを示すために、創世記は物語化されたと理解されます。以降、人間の罪の問題を「アダムの堕罪の結果」とする原罪論が広く承認され、パウロもこの流れの中にいます。パウロは創世記に描かれたアダムに「人間の原型」を見て、彼の神への背きこそが「罪と死」をもたらしたと考えました。
・2千年前に生きたパウロにとって、アダムはまさに人類の始祖でした。しかし現代の私たちはアダムを人類の始祖とは考えません。人類は地球上に生命が発生してから何億年という長い時間をかけて進化し、人となったと理解しています。その意味で創世記のアダム物語は神話です。しかしその神話の中に深遠な真理が示されています。そこにおいては、「死は単なる自然的生理現象ではなく、人間の罪に対する神の審判である」との人間観があります。「人はなぜ罪を犯し続けるのか」、「人はなぜ死ぬのか」を探求した結果、生まれたものが創世記のアダム物語なのです。
3.しかし、一人の従順がこの罪からの解放をもたらした
・アダムの罪によってこの世界に死がもたらされました。しかし「キリストの死に至るまでの従順」が、アダムの罪をはるかに超える恵みをもたらしたとパウロは語ります。「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです」(5:15)。その恵みとは「多くの罪過があっても、神の前に義とされる」恵みです。有罪の人間が、キリストの恵みによって「無罪とされた」とパウロは語るのです。「この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働く時には、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです」(5:16)。パウロは続けます「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです」(5:17-18)。そしてパウロは結論づけます「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」(5:19)。
・人がアダムであった時=人間の本性に従って生きている時、そこは罪が支配する死の世界でした。神に背いているという人の在り方が、多くの個々の罪を生みました。しかしキリストにあっては、恵み(カリス)が支配します。人はキリストの贖いの業によって、「罪の世界」から「恵みの世界」に移されます。
4.キリストの贖いの業を受け入れることこそ信仰だ
・今日の招詞にローマ5:10-11を選びました。次のような言葉です「敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです」。
・パウロは信仰生活の核心を「神との和解(平和)」の中に見出しました。それは彼が自ら血の汗を流して得た真理です。キリストを信じて平和を見出す前のパウロは、「神の怒り」の前に恐れおののいていました。熱心なパリサイ派であったパウロは律法を守ることによって救われようと努力しますが、心に平和はありませんでした。彼はローマ7章で告白します「私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善を為そうという意志はありますが、それを実行できないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(7:18-19)。
・パウロの救いを妨げているのは、彼の中にある罪です「内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」(7:22-24)。この罪にとらえられているという意識、その結果神の怒りの下にある恐れが、パウロを「神の戒めである律法を守ろうとしない」、キリスト教徒への迫害に走らせます。心に平和がない人は他者に対して攻撃的になります。自分を守るために他者を攻撃するのです。
・しかし、復活のイエスとの出会いで、パウロの思いは一撃の下に葬り去られました。パウロは死を覚悟しましたが、彼を待っていたのはキリストの赦しでした。恐ろしい神との敵対は一瞬のうちに終結し、反逆者パウロに神との平和が与えられました。だから彼はローマ5章で次のように言うのです「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」(5:6-8)。キリストは「神への反逆者であった私」のために死んでくださった。そのことを知った時、パウロの人生は根底から変わらざるを得なかったのです。
・パウロは続けます「それで今や、私たちはキリストの血により義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」(5:9)。「キリストの血」、十字架上の贖いの死のことです。キリストが私のために死んでくださって、自分の罪が赦された、その罪の許しを通して神と和解することが出来、今は「神の平和」という恵みの中にいるとパウロは告白しているのです。だから彼は言います「私たちは神を誇りとしています。キリストを通して和解させていただいたからです」(5:11)。ローマ書はパウロの熱い肉声を伝える書なのです。
・この神との和解、平和が、隣人との平和をもたらします。隣人との平和がない時、私たちは神の和解をいただいていないのです。ヨハネは語りました「神を愛していると言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」(Ⅰヨハネ4:20)。もし私たちが隣人と和解したいのであれば、まず神と和解する必要があります。神との和解によって与えられる神の平安は、あなたの隣人との関係も平安にする力を持っているのです。具体的にはどうするのか、聖書は祈り求めよと語ります「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる・・・天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11:9-13)。