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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2017年4月30日説教(ローマ3:21-31、罪からの解放)

投稿日:2017年4月30日 更新日:

2017年4月30日説教(ローマ3:21-31、罪からの解放)

 

1.神を知らない者の罪

 

・「ローマの信徒への手紙」は、パウロが帝国の首都ローマにある教会に宛てた書簡です。書かれた時期は紀元54年ごろとされています。パウロは2年半にわたったアジア州での伝道活動を終え、今コリントにいて、エルサレムに渡るための船便を待っています。パウロが開拓した諸教会からの献金をエルサレム教会へ持参するためです。異邦人教会とユダヤ人教会の間には、いろいろな対立があり、パウロは異邦人教会からの捧げ物をエルサレム教会に持参し、両教会の和解の使者になろうとしています。しかし、パウロの心は西へ、ローマに向いています。パウロは手紙の結びで、これからの計画を述べています「今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます・・・私はこのことを済ませてから・・・あなたがたのところを経てイスパニアに行きます」(15:25-29)。

・パウロはいつの日か、世界の中心、ローマに行って伝道したいと願い、今未知のローマの教会に手紙を書いています。通常であれば挨拶と自己紹介の簡単な手紙になるはずでした。しかし、ローマ教会には問題があり、そのため、パウロは詳細な救済論を書くに至りました。その問題とは、教会の中で、「ユダヤ人と異邦人の対立」が生まれていたことです。教会はエルサレムから始まり、ローマ教会もユダヤ人中心の教会でしたが、次第に異邦人も加入し、民族混合の共同体になっていました。そして教会内で対立が生まれ、コリントにいるパウロにもその知らせが届きます。同じ教えを信じる信仰者の間に、なぜ対立や争いが生じるのか、パウロはその根源に、「人間の罪」を見ます。1919年カール・バルトが伝統的な神学に疑問を感じ、「ローマ書注解」を書いたのも、第一次世界大戦で、同じキリストを信じるドイツ人とイギリス人がお互いを殺し合う姿を見て、人間の罪の問題を深く感じたからです。ローマ書の主題は「人間の罪」です。

・パウロは最初の挨拶の言葉を終えるや、「罪とは何か」を説き始めます。それが1章18節から3章20節まで続きます。最初にパウロは、異邦人の罪を指摘します。それは「神を知りながら、神を神として認めない」ことだと語ります。外にあっては天地自然を通して、内にあっては人間の良心を通して、神は自己を示されましたが、人はそれを認めようとしない。そこで神は、「彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました」とパウロは書きます(1:24)。

・欲望の放置はまず性的な放縦として現れます。「神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています」(1:26-27)。ここにあるのは同性愛の問題です。当時のギリシャ世界においては同性愛が盛んであり、パウロはこれを創造の秩序を犯す行為だと考えています。性の問題は人間には解決できない罪、原罪なのです。偶像礼拝はまた、対人関係に関する悪としても現れます。1章29節以下に悪のリストが列挙されています。そこにあるのは他者に対する不義や貪り、妬みや争い、無慈悲、傲慢、一言で言えば「自分さえ良ければ良い」というエゴイズムが人間世界を支配しており、このエゴイズムも神を神としない偶像礼拝から生じるとみています。このエゴイズムを現代人も克服することはできません。私たちは、他人が成功すれば妬み、他人が失敗すれば喜ぶ存在であり、見返りなしには人を愛せない。このエゴイズムもまた原罪、私たちの問題です。

・パウロは異邦人社会における人間の醜さを見て、そこに神に背いた人間の罪を認めました。神を認めず、したいことをすることを、人間は「自由」と呼び、それを追及していく結果現れるものは、お互いを傷つける悪であり、それらの悪が人を悲惨に陥れて行きます。神という絶対者のいない所では、自分が神となり、自分の欲望が露わに表に出る、それが性的放縦やエゴイズムとなるのです。

 

2.神を知りながら神を崇めない信仰者の罪

 

・「神を神と認めないところに異邦人の罪があった」とパウロは指摘しました。では「神を神として敬い、神の戒め(律法)を大事にする」ユダヤ人は罪から解放されているのか、「そうではない」とパウロは一転してユダヤ人の罪を指摘します。それが2章1節からの箇所です。ユダヤ人は神を知らない異邦人を罪人として裁きながら、実際には異邦人と同じことを行っていると彼は言います「すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」(2:1)。ユダヤ人キリスト者たちは、異邦人改宗者に割礼を受けることを求め、律法を守らなければ救われないと主張していました。その結果、教会の中で異邦人キリスト者と対立し、そのことによって「神の御名を汚している」(2:24)とさえ語ります。

・そしてパウロは人間の罪の有り様を表示します。それが3:12から始まる告発状です。「善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない」(3:12-18)。この「彼ら」を「私たち」と言い換えれば、それは私たちの姿です。「(私たち)ののどは開いた墓のようであり、(私たち)は舌で人を欺き、(私たち)の唇には蝮の毒がある。(私たち)の口は呪いと苦味で満ち、(私たち)の足は血を流すのに速く、(私たち)の道には破壊と悲惨がある。(私たち)は平和の道を知らない。(私たち)の目には神への畏れがない」。多くの人は、「自分はここまでひどくない」と思うでしょう。でもこれが私たちの真実の姿です。人間の歴史は戦争の歴史であり、今でも戦争をやめることはできません。また神は生命を継承するために人を男と女に造られましたが、人間はこの性を快楽の道具として、不倫や同性愛を繰り返してきました。この世は罪と不正に満ちている、あなたがたもその中にある、とパウロは語るのです。

・パウロは厳しい言葉をローマの信徒に送ります。読んだ人は不愉快になったでしょう。しかし、その厳しさゆえに、このローマ書はたびたび歴史を塗り替える働きをしてきたのです。何故ならば、救いとは先ず、「罪を知る」ことから始まるからです。近代を切り開いた宗教改革は、ルターがこのローマ書の研究を通して、罪の問題に目を開かれ、教会改革を行ったことから始まりました。「罪を知る」ことが救いの第一歩であるからこそ、パウロはローマ教会内のユダヤ人信徒、異邦人信徒に厳しい言葉を投げかけるのです。

 

3.罪からの解放~赦されていることを知る

 

・パウロは、「神は人の罪に対して怒りを持って臨まれ、その怒りとして『人を為すがままに、任せられた』」といいます。それは人間が自分の罪を自覚するのは、「落ちる所まで落ちた」時だからです。「落ちる所まで落ちるために、神は人が為すがままに任せられる」、その結果、社会は欲望と欲望がぶつかり合う弱肉強食の世界になり、弱い者は排除され、圧迫されていく。その時、彼は神を求める。「人は落ちるところまで落ちないと神を求めない」、そのため神は人間の悪を放置されるのです。それを如実に示す物語がルカ15章「放蕩息子の例え」です。

・今日の招詞にルカ15:24を選びました。次のような言葉です「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた」。放蕩息子の物語は、二人の兄弟の物語です。弟息子は家を出て行くために父親に財産分配を要求し、遠い国に旅立ちました。ところが彼はお金を湯水のごとくに浪費し、使い果たします。その時、ひどい飢饉が起こり、食べるものにも困るようになり、彼は豚を飼う者となり、終には、「豚のえさであるいなご豆でさえ食べたい」と思うほど飢えに苦しみます。豚はユダヤ人の忌み嫌う汚れた動物、その豚の餌さえ食べたいとは、落ちるところまで落ちたことを意味します。弟息子は「豚のえさを食べても飢えをしのぎたい」と思った時に、我に返りました「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に有り余るほどパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ。ここを発ち、父のところに帰ろう」(ルカ15:17-18)。放蕩息子は誰も頼るものがなくなって初めて、自分が「父の子」であることを思い起こしました。彼は自分の罪を認め、どのような裁きを受けようとも父の家に帰ることを決意します。父親は息子を「為すがままに任せて」いましたが、実は息子の身を案じ、息子が帰って来るのを待っていました。ある日、その息子が帰ってくるのが見えます。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(同15:20)。

・自分の罪を認め、悔い改めて帰って来た息子を、父親は無条件で迎え入れました。それが赦し、パウロの言う福音です。パウロはローマ書の中で言います「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(3:20)。人は自分の努力によっては救われません。放蕩息子もどうしようもない所まで追い込まれました。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(3:21)。放蕩息子は父親の所に帰ることによって、無条件に彼を赦す神と出会います。そしてパウロは人を赦しに導くために、神はキリストをお立てになったと言います「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」(3:22)。この赦しを通して、人は罪から解放されていきます。パウロは続けます「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(3:23-24)。

・パウロはローマ教会の人々に厳しい言葉を投げかけました。しかし、人は批判を通しては悔い改めることができません。いくら罪を指摘されても反発するだけです。パウロは3年後にローマに行き、教会の人々と会いますが、使徒言行録に依りますと、「ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとした」(使徒28:24-25)とあります。パウロの説得は失敗したのです。しかしやがてローマ教会の人々はパウロの福音を受け入れます。手紙ではわからなかったパウロの生きざま、イエス・キリストの福音に生かされた生きかたを目の当たりに見たからです。人を悔い改めに導くものは、人格を通して示された愛です。自分がキリストの愛によって赦されたと知った時、人は自分の罪を知り、キリストの前に跪くのです。

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