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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2017年3月26日説教(マタイ26:17-30、最後の晩餐におけるイエスの言葉)

投稿日:2017年3月26日 更新日:

2017年3月26日説教(マタイ26:17-30、最後の晩餐におけるイエスの言葉)

 

  1. 最後の晩餐で起こったこと

 

・イエスは過越祭を前にした日曜日にエルサレムに入られ、昼は神殿の境内で教え、夜は郊外のベタニア村のマルタとマリアの家にお帰りになっていました。木曜日、イエスは弟子たちとエルサレム市内に出かけられ、過越の食事を共に取られます。最後の晩餐として有名になった食事です。祭司長たちはイエスを捕らえ、殺すための相談を始め(26:4)、その場にイスカリオテのユダが行って謀議に加わっています(26:14-15)。いよいよイエスの最後の時が近づいている、そのような中で持たれたのが、「最後の晩餐」です。

・マタイは最後の晩餐の物語を書き始めます「除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、『どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか』と言った」(26:17)。過越祭の最初の日に、ユダヤ人たちは神がイスラエルをエジプトから解放して下さった記念として、「種無しのパンを食べ、子羊を屠って食べる」慣わしでした。弟子たちはイエスが言われたに過越の食事を準備し、夕刻にイエスは12人の弟子たちと共に食事の席につかれます。

・その最期の晩餐の席上でイエスは衝撃的な発言をされます「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている」(26:21)。弟子たちは心を痛めて「まさか、私のことでは」(26:22)と代わる代わる言い始めたとマタイは記します。イエスをユダヤ教指導者に売り渡したのは、イスカリオテのユダですが、他の弟子たちもこの後、イエスを裏切ります。晩餐を終えた後、一行は祈る為にオリーブ山に行きますが、そこに兵士たちが来てイエスを捕縛した時、弟子たちは皆「イエスを見捨てて逃げてしまった」(26:56)。弟子たちは、「あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている」とイエスから問われて、自分たちの中にある弱さに気づき、「まさか私では」と問い掛けたのです。

・歴史的に言えば、イエスを十字架にかけたのはユダヤ教指導者たちであり、ローマの軍隊です。ユダヤの祭司長たちは彼らの宗教的権威に従わず、民衆に新しい教えを説くイエスを異端者として排除しようとしました。ローマ人たちは占領地ユダヤの民衆を惑わし、治安を乱す者としてイエスを排除しようとしました。イスカリオテのユダはその動きに積極的に関与しました。他の弟子たちはイエスを見捨てて逃げることで消極的に関与しました。イエスを十字架につけたのはユダであると同時に、ペテロやヨハネであり、彼らもユダと同罪なのです。最後の晩餐の記事はそれを私たちに告げます。

・マタイは「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」とのイエスの言葉を残していますが(26:24)、これはおそらくユダを裏切り者と憎む初代教会の感情の反映であり、イエスの真正な言葉とは思えません。何故ならば、イエスは十字架上で自分を殺そうとする者たちのために祈られた方だからです。「その時イエスは言われた『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』」(ルカ23:34)。この祈りは直接的には自分を槍で殺そうとするローマ兵へのとりなしですが、そこには、自分を捨てて逃げたペテロたち、弟子たちへのとりなし、また積極的に裏切ったイスカリオテのユダへの赦しも含まれています。もしユダが自殺することをせず、生き残っていれば、ペテロに現れた復活のイエスはユダの許にも現れたでしょう。「自分を裏切る者たちのために祈る」、そこにイエスのイエスたる核心があります。

 

2.主の晩餐を通して新しい希望へ

 

・イエスと弟子たちは、最後の晩餐を「過越しの食事」として祝いました。それはエジプトからの救済を祝って犠牲の子羊を屠って食する時です。最後の晩餐において、イエスはパンを取り、感謝してそれを裂き、弟子たちに与えられました。また杯も同じように弟子たちに与えられました。この最後の晩餐でのイエスの言葉「取りなさい、これは私の体である。飲みなさい、これは私の血である」を後の教会は深く覚えて、礼拝の中で唱和するようになり、それが今日の教会においても祝われる主の晩餐式となりました。

・マタイは記します「一同が食事をしている時、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これは私の体である』」(26:26)。イスカリオテのユダは食事半ばに既に席を立っています(ヨハネ13:30)。イエスは会食の席上でユダが悔い改めるように努力されましたが、ユダはイエスの言葉を聞かず、席を去ります。その悲しみの中でイエスは弟子たちのためにパンを裂きます。

・パンが配られた後、イエスは「杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である』」(26:27-28)。ユダヤでは「血」は契約の徴です。古代の契約は動物を二つに裂いて、当事者がその間を通ることによって成立しました。「契約を結ぶ」、ヘブル語=カーラトは、「切る、切り裂く」という意味を持ちます。アブラハムは主と契約を結ぶ時、雌牛と雌山羊を二つに切り裂きました(創世記15:17)。切り裂かれた動物の間を通ることによって、もし契約を破るなら二つに切り裂かれてもかまわないという同意を表わすためでした。血は契約の徴です。

・この箇所にはイエスの万感の思いが込められています。聖書学者の加山宏路先生はこの箇所を次のように言い換えられます「私は私自身をあなた方に与える。今、私がここで裂いてあなた方に渡すパンのように、ほどなく十字架で引き裂かれようとする私の体を、いや私自身をあなた方に与える。これを私と思って受け取りなさい。私は十字架につけられて血を流そうとしている。イスラエルの先祖たちが裂かれた動物の間で血の契約を立てたように、私の流す血、それが私の契約の徴だ。あなた方に与えるこのぶどう酒のように、私は私の命をあなた方に与える」(説教者のための聖書講解「マルコ」p358)。「私自身をあなた方に与える」、イエスの言葉を弟子たちは忘れることが出来ませんでした。ですからイエス復活後の教会においては、最後の晩餐を記念する「主の晩餐式」が礼拝の中心になっていきました。イエスは志半ばで死んでいかなければいけない無念さと、それでも父なる神は弟子たちを守ってくださるという信仰の中に、「私は私自身をあなた方に与える」と言われました。この言葉はイエスが私たちに残された遺言なのです。

 

3.主の晩餐を通じて想起すべきこと

 

・最後の晩餐におけるイエスの言葉は、私たちへの遺言ですが、それは同時に私たちに希望を与える言葉でもあります。イエスは最後に言われます「言っておくが、私の父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(26:29)。この言葉は、この食事が弟子たちと取る地上での最後の食事であるけれども、同時に死が終わりではなく、死を越えて神の国が来る、その時に「再び共に食卓につこう」という約束の言葉でもあります。ここにあるのは、来るべき神の国への招きの言葉でもあります。私たちは主の晩餐式において、共にパンを食べ、共に一つの盃からぶどう酒をいただくことによって、来るべき神の国の祝宴に預かっているのです。

・今日の招詞にマルコ4:30-32を選びました。次のような言葉です「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔く時には、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」。イエスはかつて弟子たちにからし種のたとえを語られました。からし種は大きさ1ミリに満たない、種の中で最も小さいもので、文字通り「ケシ粒」です。その小さい種でさえ、蒔いて成長すると3メートルほどの大きさになります。

・イエスは「神の国は来た」と繰り返し語られましたが、誰もそれを認めようとしません。種が小さすぎて目に入らないからです。最後の晩餐の今、イエスの目の前には、かつては漁師や徴税人だった少数の弟子たちしかいません。弟子の一人イスカリオテのユダはイエスを見限って晩餐の席から退場しています。他の弟子たちもやがてはイエスを裏切って離散してしまいます。他方、エルサレムの宗教当局者はイエスを追跡し、捕らえ、殺そうとしています。イエスの伝道の業はからし種のように小さい存在でした。それはイエスが生きておられた時には実を結びませんでした。しかしイエスは、それが神の種であればいつかは発芽し、成長し、多くの収穫を結ぶと信じておられました。その確信をイエスはたとえで話されたのです。イエスが十字架で死なれた時、誰もそれがやがては世の中を変えるような出来事だとは思わなかったでしょう。しかし、イエスの十字架から、多くの芽が発芽し、それはやがてローマ帝国を覆い、全世界を覆うほどの大木になって行きました。

・イエスが語られた「からし種のたとえ」は、人々の拒絶を前にしても怯むことなく、神への信頼に基づく希望の中に生きられたイエスの姿を伝えています。私たちはそのイエスから使命を受け、弟子となり、神の国、神の支配の中に生かされています。世はまるで神などいないような現実を示しています。その中で小さな教会を形成し、そこに何人かの人が集まっていたとしても、そこに神の国が来ているとは誰も信じないでしょう。しかし私たちは神の種をいただいています。いただいているものが神の種である以上、必ず発芽し、成長し、多くの実を結びます。この世がたとえ「神なき世界」のように見えても、世界を支配しておられるのは神であることを信じ、その希望の中で私たちは教会を形成していきます。そのような私たちをイエスは励まされます「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカ13:32)。

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