2017年1月8日説教(マタイ5:1-12、貧しい人々は幸いである)
- 山上の説教
・ヨハネから洗礼を受けられたイエスは、やがてヨハネ教団を離れ、ガリラヤで独自に宣教の業を始められました。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(4:23)。イエスの宣教は、「御国の福音を宣べ伝える」ことと、「病気や患いを癒す」こと、この二つが働きの中心でした。その伝えられた「御国の福音」とは何か、マタイはそれを「山上の説教」として、私たちに提示します。それが今日読みますマタイ5章の箇所です。
・イエスは多くの人々の病気や患いを癒され、悪霊を追い出されました。イエスの力ある業を見て、大勢の群衆がイエスのもとにやってきます。マタイは記します「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」(5:1-2)。最初にイエスは人々を祝福して言われます「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(5:3)。次にイエスは「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」(5:4)。以下、柔和な者、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人等への祝福の言葉が続きます。
・何時の時代でも人々は幸福を求めます。イエスのもとに集まってきた大勢の人々も幸福を求めていました。ある者は、長い間苦しんでいる病気を治してもらいたくて来たのでしょう。別の人は食べるものもない貧乏から解放されたいと集まって来ました。精神的な悩みを持つ人は慰めてもらいたくて来たのかもしれません。彼らはいずれも「現在の情況さえ変われば、今のこの苦しみさえ取り除かれれば」、幸福になれると思っていました。その人々にイエスは、「あなた方は貧しい、しかし貧しいからこそ幸いである。あなた方は悲しんでいる、しかし悲しんでいる者が幸いなのだ」と言われました。弟子たちも群衆もイエスの言葉を聞いてびっくりしたでしょう。貧しいことが幸いであり、悲しむことが良いことであるとはとても思えなかったからです。
・私たちは思います「何故貧しい者が幸いなのか、貧しい者が富むようになることが幸いなのではないか。悲しんでいる者の悲しみが取り除かれることこそ幸いと言えるのではないか。地を継ぐのは力の強い者であって、柔和な者はこの世では捨てられる。憐れみ深いようなことをしていたら社会の落伍者になってしまうし、心が清いということも世の中では通用しないだろう」。イエスはここで、世の中では通用しないことを言っておられるのでしょうか。それが今日聞きたいメッセージです。
- 心の貧しい人々は幸いである
・イエスは「心の貧しい人々は幸いである」と言われました。ここでの「貧しい人々」には、ギリシャ語「プトーコス」という言葉が用いられています。「極貧者、物乞い」を意味する言葉です。イエスは物乞いを必要とするような貧しい人々を祝福されたのです。そしてイエスは「悲しむ人々」を祝福され(5:4)、「義に飢え渇く人々」を祝福されました(5:6)。何故、「貧しい」「悲しい」、「飢える」等の、この世的に見れば災いとなる事柄を、「幸い」とイエスは言われたのでしょうか。ここでは、貧しい者が富むようになるから幸いだとは言われていないことに留意すべきです。
・山上の説教には、マタイ版の他に、ルカ版があり、ルカ版では四つの祝福の後に四つの災いが挙げられています。ルカ版山上の説教は記します「富んでいるあなた方は不幸である」(6:24)、「満腹しているあなた方は不幸である」(6:25)、「今笑っている人々は不幸である」(6:25)。ルカでは、この世で幸福と定義付けられるべき、富や豊富な食物や笑いが災いの対象とされています。その理由をルカは言います「あなた方はもう慰めを受けている」(6:24)。富んでいる者、満たされている者は、財産やその他のものを多く持つ人は、神を必要としません。彼は既に慰め=拠り頼むものを持っている故に、神に叫ばず、その結果神に出会うことはない。だから不幸なのだと言われています。
・イエスは、現在がどういう情況であれ、それを神から与えられた祝福として受け取る時、人は満たされると言われます。「心の貧しい者」はこの世に究極の救いがないことを知るから、この世の栄誉や成功を求めません。「悲しむ者」は自分が泣いたことがあるから、泣く人と共に泣くことが出来ます。「柔和な者」は自らの力に頼らないから、他者に対する憎しみや報復も生れません。「義に餓え渇く者」は神の支配を待ち望み、その日は来ると信じる故に、現在の不正に負けません。イエスが言われたことには二つの特徴があります。一つは「思いが自分ではなく他者に向かう」、もう一つは「思いが現在ではなく将来に向かう」ことです。
・人間の求める幸福は、「思いが自己に、そして現在に」集中します。世の人々が求める幸福は、富であり、健康であり、成功であり、栄誉でしょう。それらは全て自己の為のものです。人は「私の富、私の健康、私の成功、私の栄誉」を求めます。そして、誰もが欲しがるから、そこに競争が起こり、競争があれば勝者と共に敗者が生れます。一人が富を得るということは、他の多くの人は富を得られないことを意味します。貧富の格差はそれを示します。また健康が幸福の指標になる時、健康でない者、病気や障害をもっている人は不幸にならざるを得ません。妊婦の血液から胎児の染色体異常を調べる「新出生前診断」が2013年4月に開始して以来、受診者が3万人を超えたそうです。その中で547人が陽性と判定され、その後の羊水検査で染色体異常が確定した417人のうち、94%にあたる394人が人工妊娠中絶を選択したと新聞報道は伝えます(西日本新聞、2017.1.2)。障害を持っている子供はいらない。突き詰めてみれば、この世の幸福は他者の犠牲の上に成り立っており、それは空間的広がりを持ちません。
・また世の幸福は時間的限界を持ちます。現在は健康であっても、その健康はやがて崩れます。勝者も何時かは敗者になります。現在の幸福のみを求める時、その幸福が何時崩されるのか、常に不安と隣り合わせの人生になり、そこには平安はありません。世の幸福は空間的及び時間的広がりを持たないのです。この世の求める幸福とは、「貧しい者が富むようになること、悲しんでいる者の悲しみが取り除かれること」です。しかしその結果としての富や健康や成功や栄誉がこのようにはかないものであるとしたら、イエスの言われる幸福こそ現実的なのではないかと思います。「思いが自分ではなく他者に向かう」生き方、「思いが現在ではなく将来に向かう」生き方こそ、神の国を受け継ぐのです。
3.私たちにとってこの言葉は何なのか。
・今日の招詞として、ルカ4:18-19を選びました。次のような言葉です「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。この個所は、イエスが宣教の始めに故郷ナザレの会堂で読まれたイザヤ書からの引用箇所です。イエスがイザヤ書を読み、席に着かれると、会堂にいるすべての人の目が、イエスに注がれました。何事かを期待する目でした。
・当時のユダヤでは、民衆の多くは自分の土地を持たない小作人であり、収穫の半分以上が小作料として取り上げられました。小作人の手元に残るものは少なく、豊作時でさえ食べていくのがやっとで、凶作になれば飢え、病気になれば死ぬばかりの生活でした。ですから彼らはひたすら救い主を待ち望み、この生活が変えられる日を待望していました。その彼らが注目する中で、イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現した」と話されました。「救いが今、ここに来た」と宣言されたのです。
・山上の説教においても、「心の貧しい者たちは幸いだ。なぜなら彼らは既に神の国にいるからだ」と約束されています。イエスが来られて「神の国は既に来た」と聖書は語ります(ルカ11:20)。しかし現実の社会はとても神の国が来たとは言えない状況です。その中で「神の国が来た」と語られています。ゲルト・タイセンは「イエスが来られて何が変わったのか」を社会学的に分析し、著書「イエス運動の社会学」の中で語ります。「イエスは、愛と和解のヴィジョンを説かれた。少数の人がこのヴィジョンを受け入れ、イエスのために死んでいった。その後も、このヴィジョンは、繰り返し、繰り返し、燃え上がった。いく人かの『キリストにある愚者』が、このヴィジョンに従って生きた」。キリストが来られることによって、キリストにある愚者が起こされた、それが最大の変化だとタイセンは言います。キリストにある愚者とは、「イエスにおいて神の国の現実に接し、イエスが生きられたように生きることを決意し、世の中が悪い、社会が悪いと不平を言うのではなく、自分には何が出来るのか、どうすればキリストが来られた恵みに応えることが出来るのか」を考える人たちのことです。
・イエスの福音はこの「キリストにある愚者」を生み出していくのです。「信徒の神学」を著したヘンドリック・クレーマーは語ります「教会は世にあって、世に仕える。その世で働くものこそ、信徒であり、教会が世に仕えるためには、信徒が不可欠である。信徒は世にあり、世のもろもろの組織・企業・職業の中にくまなく存在する。その場所こそ彼らの宣教の場所だ。世にあるキリスト者、それが信徒であり、教会はその信徒を助け支える役割を持つ。教会は信徒を通じて、この世にキリストのメッセージを伝えていく。信徒こそが世に離散した教会である」。この私たちがキリストにある愚者」としてここにいる。そしてキリストの福音を伝えていく。そのことこそが神の国が来た証明であると言われているのです。