2017年1月1日説教(マタイ3:1-17、出発の日に)
1.バプテスマのヨハネの宣教
・クリスマスが終わり、新年最初の礼拝の時を迎えました。私たちは改めて、昨1年を振り返り、また新しい年を思います。この出発の時に当たり、イエスの出発点である洗礼の出来事を見ていきます。物語は3章1節から始まります。「その頃、バプテスマのヨハネが現れて、ユダヤの荒野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った」(3:1-2)。当時の人々は「世の終わりは近い」と感じていました。イスラエルはヘロデ王の死後、三人の子供たちが領土を争い、混乱の中で首都エルサレムを含むユダ地方はローマの直轄領とされ、異邦人であるローマ総督が治めていました。しかし、ローマ支配に反対する人々はたびたび反乱を起こし、世情は騒然としていました。そのような不安の中で、人々は乱れた世を救うメシアの到来を待ち望んでいました。そこに、洗礼者ヨハネが現れ、「天の国は近づいた」、「終末の裁きの時が近づいている」と述べ、人々に悔改めを迫りました。
・「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」(3:4)とマタイは記します。当時、ユダの荒野にはエッセネ派と呼ばれる修道僧たちが住み、祈りと断食の生活をしていました。彼等は罪を清めるために毎日水に入りましたが、ヨハネは体をいくら洗っても人間に内在する罪は洗えないことを啓示され、人々に悔改めを促す預言者として立てられます。ヨハネは叫びます「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」(3:7-8)、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(3:10)。ヨハネのもとへユダヤ全土から、またヨルダン川沿いの地方からも、人々が集まり、罪を告白し、バプテスマを受けました(3:5-6)。
・人々はこのヨハネこそ世を救うメシアかも知れないと期待しましたが、ヨハネは「私は悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、私の後から来る方は、私よりも優れておられる。私は、その履物をお脱がせする値打ちもない」と自分がメシアではないと語ります(3:11)。イエスはヨハネが「世の終わりが来た」として宣教を始めたのを故郷ガリラヤで聞かれ、「内心の声」に導かれて、故郷を出てユダに来られました。マタイは記します「その時、イエスがガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼からバプテスマを受けるためである」(3:13)。
2.ヨハネからバブテスマを受ける
・イエスは洗礼を受けるためにヨハネの前に出ましたが、ヨハネは、イエスの洗礼を思いとどまらせようとして「私こそあなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが私のところに来られたのですか」(3:14)と語り、それに対してイエスが「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(3:15)と答えられたと記します。通常、この箇所は「イエスは神の子であり、何の罪を犯していないのだから、悔い改めのバプテスマを受ける必要はない」と、ヨハネがイエスに洗礼を授けることをためらったと教会は理解してきました。しかし、これはあまりにも教理的な解釈です。イエスはあくまでも「人の子」として生まれ、「人の子」として育ち、「人の子」としてこの世の矛盾に怒りを感じられていた。そのイエスはヨハネの宣教の中に神の言葉を聞き、洗礼を希望されたのだと思います。
・イエス当時の神殿は民の贖い、罪の救済の役割を担っていたにも関わらず、金持ちや貴族だけに目を向け、贖罪の献げものをすることの出来ない貧しい人々の救済は放置していました。また律法学者やパリサイ人は律法を守れない貧しい人々を、「罪人」と断罪して切り捨てていました。その結果人々は「飼い主のいない羊」(9:36)のような状況に放置されていました。「神は人々をこのような不条理に放置されない、彼らもまた神の愛する子たちだ、彼らのために何かをしなければ」とイエスは思われていたのでしょう。そのイエスの前に、神殿や教団に遠慮することなく、人々に生きる道を教えるヨハネがいました。ルカ福音書によれば、ヨハネは人々に「いかに生きるべきか」を語っています。彼は「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と教え、徴税人には「規定以上のものは取り立てるな」と命じ、兵士たちには「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と語ります(ルカ3:11-14)。イエスはヨハネの教えに感動し、彼の弟子になるために受洗され、受洗後も、故郷には戻られず、ヨハネの下で学びを深められました。
・マタイは、イエスが洗礼を受けられた時、「天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」と記します(3:16)。イエスの公の生涯は洗礼を通して神の霊をいただくことから始まりました。その時、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者という声が、天から聞こえた」とマタイは記します(3:17)。「あなたは私の愛する子」、父なる神がイエスの決心を肯定してくださった。「私の心に適う者」、神の御心を行う者として自分は召されたことをイエスは自覚されたことを示す表現です。
3.赦されたからこそ悔い改めが
・今日の招詞にマタイ11:4-5を選びました。次のような言葉です「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。イエスは洗礼を受けられた後も、ヨハネ教団の一員として荒野に留まっておられましたが、次第にヨハネの言動に違和感を持たれるようになります。ヨハネのように「罪びとを断罪し、悔い改めに至らせる」ことが、神の国なのかという疑問です。やがてヨハネはガリラヤ領主ヘロデ・アンテイパスを批判して、捕えられ、死海のほとりのマケロス要塞に幽閉されます。イエスはそれを契機にヨハネ教団から独立して、宣教を始められます。マタイは記します「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた・・・その時から、イエスは『悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた』」(4:12-17)。
・やがてイエスの評判が獄中のヨハネに届きます。ヨハネの使信は、「審きの時は近づいた、悔改めなければおまえたちは滅ぼされるだろう」というものでした。ヨハネはメシアについて語りました「私の後から来る方(メシア)は・・・聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」(3:11-12)。ヨハネが期待したメシアは、不信仰者たちを一掃し、新しい世を来たらせる裁き主でした。しかし、イエスは罪人と交わり、貧しい人を憐れみ、病人を癒されている。裁きの時に罪人は滅ぼされる運命にあるのに、イエスは罪人の救いのために尽力されている。ヨハネはイエスにつまずきました。そのヨハネにイエスはイザヤ書を引用してお答えになります。「福音とは喜ばしき訪れではないか。その喜びを聞いて、人は神の前にふさわしい者に変えられて行くのではないか」と。
・ヨハネは預言者です。預言者は人々の罪を神に告発し、悔改めを促し、神の前に正しく生きることを求めます。だからヨハネは罪人を断罪し、悔い改めを求めます。私たちはキリストを伝えようとして、往々にしてヨハネの宣教を宣べ伝えています。「罪を認めなさい。悔改めなしには救いはない」、「信じなさい、信じない者は地獄に行く」。これは良い知らせ=福音ではありません。街中を宣伝カーで走りながら、「信じなければ死後に裁きにあう」、「洗礼を受けない者は地獄に落ちる」などと音声を流している団体があります。聖書の言葉が引用されていますが、彼らの語っていることはヨハネの宣教であっても、イエスの宣教ではありません。聖書が語り、イエス・キリストが命をかけて証しされたことは、「神はご自分の敵である者をさえも愛して下さる」という知らせなのです。「罪をまず認めさせて、その上で罪の赦しを語る。救いの前に罪人を造る」、これはヨハネ的な脅迫説教であり、イエスの語られた「良い知らせの訪れ」とは違います。イエスは「罪人は罪人のままで神の恵みを受ける」と語られました。若松英輔氏は著書「イエス伝」で語ります「理由は何であれ、入信することができない、あるいは祈ろうとしても祈ることができない、救われないと苦しむ人を横目に見ながら、自己の救いだけを求めるのが宗教であるならば、それは既にイエスの生涯が示していることとは著しく乖離している」。過ちを犯した人を排斥するのではなく、迎え入れることこそが、イエスの弟子となる道です。
・イエスの生き方を象徴する言葉がヨハネ8章にあります。姦淫の罪を犯したとしてイエスの前に連れてこられた女性にかけられた言葉です「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8:11)。まず罪の赦しがあり、その後に悔い改めを求める言葉があります。これが福音です。ここに、人を滅ぼすための裁きではなく、人を生かすための裁きが為されています。女は姦淫の罪を犯したのでしょう。その女性に律法通り石を投げた時、一人の命が失われ、そこには何の良いものも生まれません。しかし、人を赦すことによって、人は生まれ変わり、新しい人生を生き始めます。そしてこの婦人から命の水があふれ出し、周囲の人を潤し始めます。ここに本当の罪の裁きがあります。これこそヨハネには出来なかったイエスの為された裁きなのです。「罪人は罪人のままで神の恵みを受ける」、神の側から無条件の赦しを差し出された故に、私たちは洗礼を受け、ここにいます。罪の断罪ではなく、罪の赦しを伝える良い年でありたいと願います。