2017年11月12日説教(イザヤ44:25-45:1、希望の福音)
1.希望の福音
・イザヤ書を読んでおります。イザヤ書の中でも40章以下の部分は第二イザヤと呼ばれる解放の預言です。
紀元前587年、イスラエルは国を滅ぼされ、主だった人々はバビロンに捕虜として囚われました。それから50年の年月が流れた紀元前540年頃、神の言葉が預言者に臨みます。「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と」(40:2)。あなた方はバビロンという牢獄に捕らわれたが、苦役の時は満ち、解放の時が来たと預言者は聞きました。エルサレムは廃墟となり、最初の捕囚民の多くは死に果て、今や二世、三世の民が中心になっています。その民に、「服役の時、捕囚の時は終った、エルサレムに帰る時が来た」と預言が為されます。
・預言者自身も第二世代に属すると思われますが、戸惑い、抗議します「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい」。「何故あなたは50年間も沈黙を続けられたのか。今更エルサレムに帰れと言われるのか。私たちの信仰は消えてしまったではないですか」と預言者は応答します。その預言者に神は語られます「草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」(40:8)。預言者はこの言葉を聞いて、立ち上がります。預言者が神の召命を受けれた言葉です。
・50年に及ぶ捕囚はイスラエルの信仰を根底から揺さぶりました。50年もの間、神からの何の言葉もなかったのです。人々は語りました「私の道は主に隠されている、私の裁きは神に忘れられた」(40:27)。それに対して神の言葉をいただいた預言者は諭します「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(40:31)。「主はお前たちを見捨てておられたのではない。時が来るのを待たれていた。時が来て主はバビロンを滅ぼし、お前たちを救おうとされている」。預言者は語ります「エルサレムに帰る時が来た。さあ、立ち上がれ」と。
2.ペルシア王キュロスに期待を寄せる預言者
・預言者が捕囚民のエルサレム帰還を預言した背景には、当時の国際情勢があります。不滅と思われたバビロニア帝国がネブカドネザル王の死を契機に衰退し、東に起こったペルシアが新しい支配者としてバビロンに迫っていたからです。預言者は41章でそのことに触れています。「東からふさわしい人を奮い立たせ、足もとに招き、国々を彼に渡して、王たちを従わせたのは誰か・・・彼は敵を追い、安全に道を進み、彼の足をとどめるものはない。この事を起こし、成し遂げたのは誰か。それは主なる私。初めから代々の人を呼び出すもの、初めであり、後の代と共にいるもの」(41:2-4)。
・前559年にペルシア王となったキュロスは、10年後には宗主国メディアを併合し、ペルシア帝国を打ち立て、中央アジアから小アジア(今日のアフガンニスタン・イラク地方)をすべて支配下に置きました。そしてキュロス王は今、バビロンに迫っています。預言者はこの流れを起こされたのは主なる神だと理解し、「主はキュロスを用いてあなたがたを捕囚から解放してくださる。だからイスラエルよ、立て、恐れるな」と呼びかけます。「私は北から人を奮い立たせ、彼は来る。彼は日の昇るところから私の名を呼ぶ。陶工が粘土を踏むように、彼は支配者たちを土くれとして踏みにじる」(41:25)。
・バビロニア帝国の捕囚民として苦しんできたイスラエルに、預言者は主がペルシア王キュロスを用いてバビロンを滅ぼされると預言します。「あなたたちを贖う方、イスラエルの聖なる神、主はこう言われる。私は、あなたたちのために、バビロンに人を遣わして、かんぬきをすべて下ろし、カルデア人(バビロニア人)を歓楽の船から引き下ろす」(43:14)。かつてモーセを用いてイスラエルをエジプトから解放して下さった主は、今やペルシア王を用いてバビロニア帝国を滅ぼし、あなた方が祖国に帰る道を開かれると預言します。「見よ、新しいことを私は行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。私は荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる」(43:19)。
・そして預言者はペルシア王キュロスを「主が油注がれた者」(ヘブル語マーシアハ、ギリシア語メシア)と呼び、イスラエルの解放者として待ち望みます。「キュロスに向かって、私の牧者、私の望みを成就させる者と言う。エルサレムには再建されると言い、神殿には基が置かれると言う。主が油を注がれた人キュロスについて、主はこう言われる。私は彼の右の手を固く取り、国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ、どの城門も閉ざされることはない」(44:28-45:1)。イスラエルの預言者が異国の君主をメシアと呼ぶのは異例のことです。「神は必要な時に必要な人を起こして導いて下さる」との信仰が、異国人もまた神の器になりうるとの現実認識をもたらすのです。
・経済学者であった矢内原忠雄は1937年「国家の理想」という論文を中央公論に発表します。1937年7月に盧溝橋事件を起こして、中国本土を征服しようと戦争を始めた日本を批判した論文です。「国家の理想は正義と平和にある、戦争という方法で弱者をしいたげることではない。理想にしたがって歩まないと国は栄えない、一時栄えるように見えても滅びる」と矢内原は書き、それが原因で彼は東大教授の地位を追われます。論文の中で、矢内原は、古代の覇権国家アッシリアの例を引いて、「日本は中国を懲らしめるための神の鞭、アッシリアに過ぎないのに、いつの間にか自分が神のように振舞い始めている」と批判します。イザヤ書を通して現実の世界を見つめる時に、見えてくるものを矢内原は書いたのです。イザヤ書は決して過去の文書ではなく、現在も語り続けています。
3.キュロスに対する失望と新しい立ち上がり
・今日の招詞にイザヤ49:4を選びました。次のような言葉です「私は思った。私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である」。イザヤ書は40章から48章にかけて、ペルシア王キュロスに捕囚からの解放を期待する預言が続いています。預言者はキュロスの目覚しい躍進の中に神の働きを見ています。しかし49章から預言は一変し、「主の僕」の歌が主になります。キュロスの実態がわかり、彼もまた権力者の一人にすぎないことに気づいたからです。前539年キュロスはバビロニアを滅ぼしますが、彼が最初に為したのはバビロニアの主神マルドゥクの前に跪くことでした。預言者は「ペルシア王キュロスは偶像礼拝者であり、メシアではなかった」ことに失望し、その失望の思いが招詞の言葉を招きます。
・しかし預言者の働きは無にはなりませんでした。キュロスはバビロニア征服の翌年、捕囚になっていたユダヤ人をはじめ、強制移住させられた諸民族を解放します。祖国帰還を許されたイスラエルは指導者を立て、帰国の準備を始めます。主は預言者に新しい使命を与えられます。民を故郷に連れ戻る指導者としての使命です。「私はあなたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、私はあなたを国々の光とし、私の救いを地の果てまで、もたらす者とする」(49:6)。
・捕囚の民が祖国帰還の時を迎えました。その時を、預言者は、「今は恵みの時」「今は救いの時」と歌います。「主はこう言われる。私は恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。私はあなたを形づくり、あなたを立てて民の契約とし、国を再興して荒廃した嗣業の地を継がせる。捕らわれ人には、出でよと、闇に住む者には身を現せ、と命じる」(49:8-9)。最初の帰還民はエホヤキン王の第四子セシバザルに率いられて故国に戻ったとされています(エズラ1:5-11)。彼はエルサレム神殿の基礎を据えましたが、工事は中断され、セシバザルはその後の歴史から消えます。おそらくイスラエル独立を図った廉で、ペルシアによって処刑されたと見られています。
・歴史は人の運命を超えて進み、救いの業は個人の希望や絶望を超えて為されます。捕囚から帰国したイスラエルの民のその後が全てうまくいったのではありません。帰国した人々が最初に行ったのは、廃墟となった神殿の再建でしたが、工事はやがて中断します。先住の人々が帰国民を喜ばず神殿再建を妨害し、また旱魃による飢餓や物価の高騰が帰国の民を襲い、神殿の再建どころではない状況に追い込まれたのです。中断された神殿再建が再び始まったのはそれから20年後でした。彼らはその後も民族的には独立できず、ペルシア時代の後はギリシアに、その後はローマ帝国により支配されます。
・彼らは政治的には大国の支配下に置かれ続けました。しかし民族としては捕囚時代に編纂された旧約聖書を守りながら生き抜くことを通して同一性を保持し、旧約聖書はやがて当時の共通語ギリシア語に翻訳されて、多くの異国人がこの翻訳聖書を通して主なる神に出会うようになります。ユダヤ人は、国が敗れることを通して、主の民として人々に仕える者になり、このユダヤ人の中からイエスと呼ばれるキリストが生まれてこられます。
・私たちの教会は48年間の歴史の中で何度も困難を体験し、現在も順調とは言えない状況にあります。見える現実は教会に集う人が減らされ、教会運営のために必要な献金が満たされない厳しい状況です。しかし私たちは「ペルシア王キュロスを用いてさえ、イスラエルをバビロンから解放された」神の見えない摂理を信じます。「それ故に見える現実だけに明け暮れている人々にはとうてい理解しえない、大きな希望と喜びと力を与えられる」(榎本保郎・旧約聖書1日1章、p765)のです。小説家・山本周五郎は自分の作品の根底にするテーマとして、イギリスの詩人・ロバート・ブラウニングの言葉を大切にしたといいます。「人間の真価は、その人が死んだ時、何を為したかではなく、彼が生きていた時、何を為そうとしたかで決まる」。人は「何を為したか」で評価しますが、神は「何を為そうとしたか」で評価されます。今、私たちが為すべきことは何か、ヘブル書は語ります。「鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」(ヘブル12:11-12)。現在の与えられた厳しさは、私たちが「主の民」となるための訓練です。ですから私たちは「萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにして」、この教会に与えられた福音宣教の使命を為していきます。