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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2017年11月19日説教(イザヤ46:1-4、私たちを背負われる神)

投稿日:2017年11月19日 更新日:

2017年11月19日説教(イザヤ46:1-4、私たちを背負われる神)

 

1.偶像を捨てよ

 

・第二イザヤ書を読んでいます。イスラエルは紀元前587年にバビロニアによって国を滅ぼされ、国の指導者たちは捕囚として遠いバビロンまで連れて来られました。捕囚された人々のある者は、自分たちの神ヤハウェがバビロンの神マルドゥクに破れた、これからはマルドゥクを礼拝しようと言い出していました。また50年にもわたる神の沈黙の中で、人々は「主は私を見捨てられた、私の主は私を忘れられた」(49:14)とつぶやき、民のある者はバビロンの異教的風習になじみ、偶像の神々に生きる支えを求めました。

・しかし、武力で栄えた者は武力の衰えと共に衰退します。世界帝国となったバビロニアもネブカドネザル王の死を契機に衰退し、新興国ペルシアに周辺領土を奪われ、ペルシア軍は首都バビロンにまで迫ってきました。バビロンの人々は避難を始め、守り神である神々も移動を始めました。神殿にあった神像が台座からとり下ろされ、台車に載せられ、それを家畜が引いていきます。偶像礼拝者たちは危急の時には、その神々を自分たちで救い、背負わなければいけないのです。それを見た預言者が、イスラエルの人々に「よく見よ」と呼びかけます。それがイザヤ46章1節の言葉です「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ、お前たちの担いでいたものは重荷となって、疲れた動物に負わされる」。

・ベルとはバビロンの主神マルドゥク、ネボはその子です。バビロンの人々を救うとされた守護神は、バビロンを救うことが出来ないばかりか、自分自身をも救うことが出来ない。神々を救うためには獣たちに台車を引かせ、台車が倒れるとそれを引く獣たちも共に倒れるではないか。それを歌ったのが次の46:2です「彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず、彼ら自身も捕らわれて行く」。「偶像は人を救い得ない、その証拠にベルとネボの惨めな姿を見よ」と預言者は語ります。

・預言者はイスラエルの民に語りかけます「私に聞け、ヤコブの家よ。イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた」(46:3)。バビロニアの偶像神は人や家畜に背負われないと動くことも出来ない。あなたたちは今までこのような偶像神に心を奪われてきた。今こそ目を開き、耳を立てよ、「私こそ」と主なる神は言われます。「私こそあなたたちが生まれた時から、あなたたちを背負い、担ってきたのだ」と。私は偶像の神々のように、人に背負われはしない。逆にあなた方を背負い続けるのだと預言が為されます「同じように、私はあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。私はあなたたちを造った。私が担い、背負い、救い出す」(46:4)。46章4節は短い文節の中に、私=アニーという言葉が5回も登場します。それをそのままに訳すと次のようになります「あなたがたが年をとっても、私は同じようにする。あなたがたが白髪になっても、私は背負う。私はそうしてきたのだ。なお、私は運ぼう。私は背負って、救い出そう」(新改訳聖書から)。新改訳の方が、神の人に対する熱い思いが良く出ていると思えます。

・古代の戦争は神々の戦争であり、負けた国の神像は焼かれ、神殿から引き摺り下ろされて辱められ、勝利者の国に持ち去られました。捕囚の時にエルサレム神殿の宝物も同じようにバビロニア軍に奪われました。預言者は神の言葉を伝えます「お前たちは私を誰に似せ、誰に等しくしようとするのか。誰に私をなぞらえ、似せようというのか。袋の金を注ぎ出し、銀を秤で量る者は、鋳物師を雇って神を造らせ、これにひれ伏して拝む。彼らはそれを肩に担ぎ、背負って行き、据え付ければそれは立つが、そこから動くことはできない。それに助けを求めて叫んでも答えず、悩みから救ってはくれない」(46:5-7)。

・しかし私はそのようなものではない。私は天地を創造し、人々を動かして歴史を形成する。「背く者よ、反省せよ、思い起こし、力を出せ。思い起こせ、初めからのことを。私は神、ほかにはいない。私は神であり、私のような者はいない。私は初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。私の計画は必ず成り、私は望むことをすべて実行する」(46:8-10)。私の業を見よ、私は東からペルシア王キュロスを呼び起こし、私の計画を遂行させる。私こそ神、あなたを造り、あなたを救うものだ。「東から猛禽を呼び出し、遠い国から私の計画に従う者を呼ぶ。私は語ったことを必ず実現させ、形づくったことを必ず完成させる」(46:11)。

 

2.背負う神

 

・日本人は仏像に惹かれます。興福寺にあります阿修羅像はその一つで、三つの悲しみに満ちた顔が多くの人々を魅了しています。この阿修羅像は天平6年(734年)、光明皇后が造ったと言われています。藤原家出身の光明皇后は自分の子を天皇にするために自分の兄弟たちと争います。阿修羅像の三顔の内右側には皇位継承権を持つ大津皇子・長屋王等のライバルを打倒する戦いの顔であり、左側は争いに負けて処刑された甥の藤原広嗣の死、兄弟たちの天然痘による相次ぐ死などの度重なる災害を見る苦悩の顔であり、正面は懺悔して仏に縋り、悲田院や施薬院を設立して一門の安寧を願う姿だと言われています。人は罪を犯さざるを得ませんが、その罪を贖う存在を持たない人々は偶像に頼るしかありません。しかし、いくら懺悔の思いを込めて偶像を造り、それを拝んだとしても罪の赦しは来ません。阿修羅像が伝えるものは光明皇后の悲しみであっても、それ以上の救いはそこにはないのです。

・預言者自身、捕囚地バビロンの敗戦と捕囚の悲しみの中で、偶像に頼る同族を見てきました。44章で彼は語っています「木工は寸法を計り、石筆で図を描き、のみで削り、コンパスで図を描き、人の形に似せ、人間の美しさに似せて作り、神殿に置く・・・木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め、一部を燃やしてパンを焼き、その木で神を造ってそれにひれ伏し、木像に仕立ててそれを拝む」(44:13-15)。しかし「彼は自分の魂を救うことができず、『私の右の手にあるのは偽りではないか』」(44:20)と預言者は語ります。いくら懺悔の思いを込めて偶像を造り、それを拝んでも罪の赦しは来ません。バビロニアの偶像神も日本の阿修羅像も結局は人が造ったものであり、人に背負われなければ動くことが出来ません。

・それに対し、主なる神は言われます「私はあなたたちが生まれた時から、あなたたちを背負い、担ってきたのだ」と。私は偶像の神のように、人に背負われはしない。逆に「私はあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。私はあなたたちを造った。だから私が担い、背負い、救い出す」と言われる方です。私たちの信じる神は、私たちを「造った故に」、「担い、背負い、救い出す」方、ここに偶像神との決定的な違いがあります。神は私たちに宣言されます「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ・・・私の目にあなたは価高く、貴く、私はあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする」(43:1-4)。

 

3.福音伝道のために

 

・今日の招詞にイザヤ49:6を選びました。次のような言葉です「こう言われる。私はあなたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、私はあなたを国々の光とし、私の救いを地の果てまで、もたらす者とする」。世界史の上では何の重要性も持たないイスラエルという小さな国の挫折と回復の歴史が旧約聖書としてまとめられ、その旧約聖書がやがて世界史を動かす影響を持つようになりました。

・前回も見ましたように、捕囚から帰国したイスラエルの民は帰国後もペルシアの属国とされ、民族的には独立できませんでした。そしてペルシア時代の後はギリシアに、その後はローマ帝国により支配されます。彼らは政治的には大国の支配下に置かれ続けました。しかし民族として捕囚時代に編纂された旧約聖書を守りながら生き抜き、旧約聖書はやがて当時の共通語ギリシア語に翻訳されて、多くの異国人がこの翻訳聖書を通して主なる神に出会うようになります。ユダヤ人は、国が敗れることを通して、主の民として人々に仕える者になり、このユダヤ人の中からイエスと呼ばれるキリストが生まれてこられます。故に預言者は確信を持って言います。「人に侮られる者、民に忌み嫌われる者、司たちの僕」(49:7a)、人間的に見れば、戦争に破れて捕虜とされた民が帰還するに過ぎないイスラエルが、「諸々の王が立ち上がり、諸々の君が拝する」(49:7b)者となる。預言者は、神の救済の訪れを諸国民に宣べ伝える使命を抱いてエルサレムに帰ると預言者は歌います。

・この確信を私たちも持ちたいと願います。この教会は試練の中で、人々が散らされて行った歴史を持ちますが、主はこの教会を存続させて下さり、立派な会堂を与えて下さった。ただ現在は、教会に集う者の数が減らされ、会堂建築のための借入金返済負担が重くなり、教会員の元気がなくなっています。この時にこそ、私たちはこの教会の役割を再度考える必要があります。私たちの教会は大きくもなく、立派でもなく、礼拝に集まる人の数も30人前後にすぎません。しかし毎週の祈祷会や説教資料がホームページに掲載され、一日のアクセス数は200件を超えます。週ベースで見れば1000人を超える人々が、この教会のホームページを通してみ言葉に触れています。半年前から始まった礼拝のフェイスブックによる中継では50人から100人の人が視聴者になっています。目には見えませんが、神は確かに働いておられるのです。

・捕囚の民が解放の時を迎えた時を、預言者は、「恵みの時」「救いの時」と歌いました。「主はこう言われる。私は恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。私はあなたを形づくり、あなたを立てて民の契約とし、国を再興して荒廃した嗣業の地を継がせる。捕らわれ人には、出でよと、闇に住む者には身を現せ、と命じる」(49:8-9)。使徒パウロはかたくななコリントの民に対して、主の救いの業を無駄にするなと言って、この言葉を引用します。「私たちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、『恵みの時に、私はあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、私はあなたを助けた』と神は言っておられるからです」(第二コリント6:1-2)。教会が困難の中にある今こそ、教会の役割を考える時です。その時、この困難が神からの恵みに変わって行きます。この教会の見える現実は貧しくとも、神の言葉が語られ、多くの人が教会ホームページの文書や映像を通じて神の言葉に接しているのであれば、それで十分ではないかと思います。

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