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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2017年11月5日説教(イザヤ40:1-11、希望の訪れ)

投稿日:2017年11月5日 更新日:

2017年11月5日説教(イザヤ40:1-11、希望の訪れ)

 

1.イザヤ40章~慰めの知らせ

 

・クリスマスを前にした11月、私たちはイザヤ書からみ言葉をいただきます。イザヤ書には三つの預言が合本されています。1章から39章が本来のイザヤ書で紀元前700年ごろに生きたイザヤの預言であり、アッシリア侵略に揺れる国家危機の中で語られています。40章から55章は、国家が滅ぼされバビロンに捕囚となった民に対しての帰還預言で(前540年頃)、便宜的に第二イザヤと呼ばれています。最後が56章から66章で、それから30年後のエルサレム帰還後の預言です(前515年頃、第三イザヤと呼ばれています)。11月に読んでいきますテキストは、この第二イザヤと呼ばれる箇所です。

・イザヤ40章を読んでいきます。紀元前587年、イスラエルはバビロニア帝国に国を滅ぼされ、主だった人々はバビロンに捕虜として囚われました。「バビロン捕囚」です。それから50年の年月が流れた紀元前540年頃、主の言葉が預言者に臨みます。「慰めよ、私の民を慰めよとあなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と」(40:1-2)。故国エルサレムは廃墟となり、人々はエルサレムから数千㎞も離れたバビロンの地にいます。50年の間に捕囚民の多くは死に、今は二世、三世の時代です。彼らは祖父母や両親から故郷エルサレムの話を聞かされていましたが、そこはもはや彼らの故郷ではありません。彼らは今、このバビロンの地で生きようとしているからです。その民に、「服役の時、捕囚の時は終った、エルサレムに帰る時が来た」と預言者は告げます。「主のために、荒れ野に道を備え、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」(40:3-5)。

・バビロンからエルサレムまで、数千㎞の荒野を帰還する道が開かれたと預言者は語ります。しかし、聞いていた人たちは当惑しています。既にエルサレム帰還の夢を失くしていた人々は、「帰ろう」と言われても戸惑うばかりです。長い間の失望により、彼らの信仰は死んでいます。だから預言者は嘆きます「呼びかけよ、と声は言う。私は言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい」(40:6-7)。預言者は神に抗議します「民に何を言えば良いのですか。彼らは既に故国帰還の希望をなくしています。それは主よ、あなたのせいです。あなたが祖国を滅ぼし、遠いバビロンに私たちを連れ来て、そして50年間も放置された。その民に、今さら何を語れと言われるのですか」。

・「何故あなたは50年間も沈黙を続けられたのか」と語る預言者の不信をねじ伏せて、主は言葉を語らせます。「草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」(40:8)。私たちは苦しみ、悲しみに圧倒された時、神が見えなくなります。神などいないのではないかと信仰が揺さぶられる時があります。預言者も同じ思いに苦しみました。しかし、神はその預言者をねじ伏せて言葉を語らせます。「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」と。

 

2.希望の福音

 

・神の言葉は続きます「良きおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。良きおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、あなたがたの神を見よと。見よ、主なる神は大能をもってこられ、その腕は世を治める。見よ、その報いは主と共にあり、その働きの報いは、その御前にある」(40:9-10)。「解放の時が来たのだ。良き訪れ、福音を伝える者は高い山に登って呼ばわれ」と神が語られます。

・イスラエルの民は、彼等を通して諸国民が救われるために、神により選ばれたと聖書は証言します「主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである」(申命記7:7-8)。

・しかし、イスラエルの民は、約束の地が与えられ、豊かになるといい始めました。「自分の力と自分の手の働きで、私はこの富を得た」(申命記8:17)と。神は預言者を通じて繰り返し、彼等に警告されます。「主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである。もしあなたの神、主を忘れて他の神々に従い、これに仕え、これを拝むならば、私は、今日、あなたがたに警告する。あなたがたはきっと滅びるであろう。」(申命記8:18-19)。

・私たちも順調な時には神を忘れます。「私は自分の力で学び、自分の力でこの職を得た。そして、自分の働きで食べている。誰の世話にもなっていない」。人が神を忘れる時、隣人も忘れます。私たちが恵みに感謝することを忘れ、傲慢になった時、神は私たちを裁かれます。この裁き、苦しみを通して、私たちは神がおられ、神によって生かされていることを知らされます。イスラエルの民にとって、この捕囚は苦しく、つらいものでした。しかし、この捕囚体験は、イスラエルの民の信仰に決定的な影響を与えます。「神は何故選ばれた私たちを捨てられたのか、何故神の都と定められたエルサレムを滅ぼされたのか」、彼らは父祖からの伝承を読み直し、まとめ直していきました。旧約聖書の主要部分、創世記や申命記等は、この時代に編集されたと言われています。民が砕かれ、悔改めた時に、旧約聖書が書かれました。そして今、試練の時、苦しみ時は終わり、慰めの時が来たことを民は告げられます。預言者は語ります「主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」(40:11)

 

3.私たちへのメッセージとしてイザヤ書を聞く

 

・今日の招詞に詩篇126:5-6を選びました。次のような言葉です。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる」。私は2002年4月からこの教会の牧師として招かれましたが、招聘の時の応答として語らせていただいた言葉がこのイザヤ書の使信でした。2002年1月13日の説教が残されています「イザヤ書の言葉を、この教会に語られた言葉として聞く時、何が聞こえてくるのか。この教会は江戸川地区の教会として立てられた。そして地域に伝道したが、教会が分裂し、牧師が去り、大勢の教会員も去るという悲しみを負わされた。しかし、牧師のいない1年半を通して、この教会に残った者は強くされた。神の民に相応しいものにされた。この地域には、傷ついて心が折れようとしている人、絶望してその炎が消えようとしている人がいる。その人たちに向かって、語るために、私たちが選ばれ、訓練された」。

・また2002年2月10日の説教では次のように語りました「私たちの教会は大きくもなく、立派でもないかも知れない。それ故に、苦しむ者の声を聞ける。私たちは、信仰に優れた者でないかも知れない。それ故に、信じることのできない人たちに福音を伝えることが出来る。イスラエルと同じく、私たちも主がいかに恵まれたかを証するために立たされ、そのために必要な苦しみを受けた。この苦しみを通して学んだ。今、解放の時を迎え、新しい使命を与えられた。この教会も試練の中で、人が散らされて行った。しかし、いつの日か人々は言うであろう『この会堂は狭すぎる。賛美するために、もっと広い教会堂を与えよ』と。その日は来る。私たちはこの教会の回復に望みを置く」。

・それから10年後の2011年に、私たちに奇跡のように立派な会堂が与えられました。とても40名の民が建設したとは思えないような立派な会堂です。神は約束を守って下さった。しかし、2017年の今、教会は新たな困難の中にあります。高齢化の中で、施設に入所され、家で療養される方が増え、礼拝に集う人の数が減少しています。しかし、会堂を与えて下さった神は、私たちに必要な人を与えて下さるでしょう。

・捕囚から帰国したイスラエルの民もすべてがうまくいったのではありません。帰国した人々が最初に行ったのは、廃墟となった神殿の再建でした。帰国翌年には、神殿の基礎石が築かれましたが、工事はやがて中断します。先住の人々は帰国民を喜ばず、神殿の再建を妨害したからです。また、激しい旱魃により、穀物が不足し、飢餓や物価の高騰が帰国の民を襲いました。神殿の再建どころではない状況に追い込まれたのです。そして人々はつぶやき始めます「主の手が短くて救えないのではないか。主の耳が鈍くて聞こえないのではないか」(59:1)。これに対して、「そうではない」と言って立ち上がった預言者が、第三イザヤと呼ばれる人です。彼は言います「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」(59:1-2)。

・中断された神殿再建が再び始まったのはそれから20年後でした。神殿再建を導いたのは、ダビデ家の血筋を引くゼルバベルでした。人々は、ゼルバベルを王にいだいて国の独立を求めましたが、ペルシャ帝国によってゼルバベルは処刑されたようです。しかし、彼らは、捕囚時代に編纂された旧約聖書を守りながら生き抜くことを通して民族の同一性を保持し、旧約聖書はやがて当時の共通語ギリシャ語に翻訳されて、多くの異国人がこの翻訳聖書を通して主に出会うようになります。イザヤは預言しました「彼らの子孫は、もろもろの国の中で知られ、彼らの子らは、もろもろの民の中に知られる。すべてこれを見る者はこれが主の祝福された民であることを認める」(61:9)。ユダヤ人は、国が敗れることを通して、主の民として人々に仕える者になり、やがて、このユダヤ人の中からイエスと呼ばれるキリスト=救い主が生まれてこられます。私たちも現在の困難を超えた祝福を待ち望みながら、教会形成に励むのです。

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