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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年6月19日説教(ヨハネ第一の手紙3:1-18、愛し合いなさい)

投稿日:2016年6月19日 更新日:

2016年6月19日説教(ヨハネ第一の手紙3:1-18、愛し合いなさい)

 

1.愛し合いなさい

 

ヨハネの手紙を読み続けています。今回が3回目です。ヨハネの教会では、異なる信仰を持つ人々が、教会を分裂させて、出て行きました。後に「グノーシス主義」と呼ばれるようになった異端的な考え方を持つ人々です。彼らはギリシア哲学の霊肉二元論の影響を受けて、「ナザレのイエスが神の子として来られた(受肉)」ことを否定し、「イエスの十字架によって私たちの罪が贖われた(贖罪)」も否定し、教会を割って出ていきました。ヨハネは「彼らは信仰の友ではない」とはっきり言います(2:19)。そして、残された教会の信徒に、「あなたがたは教えられた通り、御子の内に留まりなさい」と命じます(2:27)。御子の内に留まる、キリストへの信仰の内に留まるということです。それをヨハネは2章28節以下で説明します。

・ヨハネは言います「子たちよ、御子の内にいつも留まりなさい。そうすれば、御子の現れる時、確信を持つことができ、御子が来られる時、御前で恥じ入るようなことがありません」(2:28)。私たちはこの世の生を終えた後、最後の審判を受けます。その審判の基準は、私たちがこの世で御子に命じられたような生き方をしたかどうかです。御子が命じられた生き方とは、「愛し合って生きる」ことです。イエスは最後の晩餐の席上で弟子たちに遺言を残されました「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:12-13)。

・愛し合うとは、究極的には、「友のために自分の命を捨てることだ」とイエスは言われました。ヨハネは手紙の中でそれを次のように言い換えます「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです」(3:16)。「あなたは兄弟のために命を捨てる覚悟があるか、それが愛だ」という厳しい問いかけがここになされています。「兄弟のために命を捨てる」、そんなことは出来ないと私たちは思います。しかし、ヨハネは「出来る。あなたがたは神の子とされているではないか」(2:29)と励まします。

 

2.愛し合うことができない人間存在

 

・「愛し合う」とはどのようなことでしょうか。愛といえば、私たちは男女の愛=ラブを想定しますが、人間の愛がいかにもろいかは、創世記の「アダムとエバの物語」を見れば明らかです。人(アダム)を創造された神は、ふさわしい助け手としてエバを造られ、アダムはエバを見て語ります「これこそ私の骨の骨、私の肉の肉」(創世記2:23)。人は妻を自分の分身として、いとおしみ、愛しました。しかし、そのエバが罪を犯し、そのためにアダムが神から責められた時、アダムは言います「私と一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、私は食べたのです」(創世記3:12)。「私の骨の骨、肉の肉」と呼んだ、愛する存在が、ここでは「あの女」になっています。人が人を愛するとはこのようなものだと聖書は語ります。人間の愛は、「ギブアンドテイク」の愛であり、自分にとって都合の良い時は愛するが、都合が悪くなれば平気でこれを捨てる。ヨハネが求めている愛とは、「妻のために死ぬ夫」、「夫のために死ぬ妻」です。私たちにはできない。しかしヨハネは、神の愛に触れて変えられた人間は、そのような人間の本性を越えて、人を愛することが出来ると証言します。

・ヨハネは言います「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません」(3:9)。ここで「キリスト者は罪を犯さない」と言っているのではありません。ヨハネは前に記しましたように「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません」(1:8)と語ります。キリスト者も罪を犯すのです。それでは何故「神から生まれた人は皆、罪を犯しません」とヨハネは言うのでしょうか。私たちは信仰が与えられても、相変わらず罪の存在です。とても神の子とはいえない。にもかかわらず、私たちは神の子と呼ばれ、そのような者として生きることが求められています。それは私たちの中に「神の種」聖霊が与えられ、自分の中にある罪と戦うからです。

・さらにヨハネは語ります「神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です」(3:10)。正しさの基準はただ一つ、「お互いに愛し合うか」どうかです。「なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです」(3:11)。そしてヨハネは決定的な言葉を語ります「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです」(3:16)。ヨハネにとっては「愛し合う」とは「相手のために命を捨てる」ことであり、その根拠は「イエスが私たちのために命を捨てて」下さったという贖罪愛にあります。

 

3.贖罪愛をどう理解していくか

 

・ヨハネはそのことを4章でも繰り返します。今日の招詞として選んだ第一ヨハネ4:10-11です「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです」。キリスト教の根本教理は、「贖罪による救い」です。神の子が私たちのために死んでくださった、だから私たちも他者のために死んでいこうと信仰です。人間の愛は常に自己の利益を求めて相手を裏切りますが、神の愛はその裏切り続ける者のために死ぬ愛です。神の子が自分のために死んでくれた、そのことを知った時、私たちはもう以前のような生き方は出来ない。この贖罪愛が私たちをキリスト者にします。贖罪愛を信じることのできない者たちは教会を割って出て行きました。

・しかし贖罪をどう理解するかは、実は難しい問題です。現代の聖書学は「イエスは自らの死の必然性、その意義、結果を語らなかった。しかし弟子たちはイエスの死後に、イエスの死の必然性と意義を語り始め、これが贖罪論、救済論、和解論の成立をもたらした」(橋本滋男「多元化社会における神学と教会」)と考えます。聖書学者は語ります。「今日の共観福音書伝承の批判的研究によれば、(中略)イエスの宣教と活動にとってその救済史的意義づけは前提になっていないし、宣教課題でもない。イエスは終末の時が間近に迫っているという危機的予想の下に、人々に対して心を開いて神の支配を謙虚に受け入れるべきことを勧め、人は己れの獲得する外的なものに依存・執着することをやめ、幼子のように素直に神に信頼を寄せつつ生きるべきことを教えた。(中略)この宣教内容は本来イエスの死を必要とせぬものであり、イエスもその死以前に人々が彼の告知を理解して悔い改めることを期待したと思われる」(橋本滋男「贖罪論の成立について」) 。

・歴史のイエスは、社会の中で周辺に追いやられていた徴税人や娼婦、病人等の救済のために働かれ、その結果支配階層であるユダヤ教当局者(祭司、律法学者、ファリサイ派)と激しく対立され、ローマ当局からも治安を乱す危険人物とみなされ、殺されました。イエスご自身は生きて神の国の到来を告知され、自分の死によって救済が成るとはお考えにならなかったのは、聖書学者の語る通りだと思います。ですからゲッセマネでは「この杯を私から取り除いてください」と祈られ(マルコ14:36)、十字架上では「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました(同15:34)。イエスは神の見捨ての中で死んで行かれたのです。しかし父なる神はイエスを見捨てられなかった。神はイエスを死から蘇らせ、復活のイエスに出会った弟子たちは、イエスを神の子、キリストとして拝し、イエスの死と復活を通して自分たちの罪が赦されたと旧約聖書の預言を通して理解し(イザヤ53:10-11「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした・・・主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。私の僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」。)、この理解を私たちも継承しています。それが贖罪論です。

・西南学院神学部・松見俊先生は語ります「イエスはただ贖罪のために生まれてきた(死ぬために生まれてきた)というようなイエス・キリストへの信従、貧しい者・社会的に周辺化された人たちとの共感共苦という倫理性を欠いた贖罪信仰は、『安価な恵み』である」。では贖罪愛は否定すべきものか、そうではないと松見先生は語ります「神話的表象で表現されてきたリアリティそのもの(罪の根源性と人間による罪の克服不能性、それを打ち破る救い)は失われるべきではない。イエス・キリストが命がけで私たちを愛して下さり、私たちの『ために』死んで下さったということが契機・動機づけにならないと、イエス・キリストに従い、他者と『共に』生きる倫理的行為は成立しない」。(「犠牲のシステムとキリスト教贖罪論」、西南学院神学部・神学論集、2013/3)。

・哲学や歴史学では人間の知性を根底に置くために、実証できないもの、理解できないものは否定していきます。だからヨハネの教会から出ていった人々がイエスの受肉や贖罪を否定し、現代の聖書学はイエスの贖罪死を否定します。しかし霊の世界においては、人間の限界を超えた存在を受け入れていきます。例えば「神共にいます」という信仰は人間の知性の限界を超えますが、私たちは主観的にそれを受け入れます。神の臨在を体験するからです。キリストの贖罪死も知性で受け入れることは難しいですが、その贖罪愛に生かされてきた人々の歴史を知るゆえに受け入れます。信仰とは客観化できないものを受け入れていく「飛躍」だと思います。そして飛躍した時、「イエス・キリストに従い、他者と共に生きる」生活が始まります。

・「宝島」、「ジキルとハイド」、等を書いた作家のロバート・スティーヴンスンは、ある時、らい病者たちが収容された島(ハワイのモロカイ島)を訪れます。島では、ダミアン神父がライ病者救済のために働き、神父死後は修道院のシスターたちがらい病者の世話をしていました。島を訪れた彼は次のような詩を歌います「この所には哀れなことが限りなくある。手足は切り落とされ、顔は形がくずれ、さいまれながらも、微笑む、罪のない忍苦の人。それを見て愚か者は神なしと言いたくなろう」。なぜ、らい病のような忌まわしい病気があるのかわかりません。不信仰者はそれを見て「神はどこにいるのか」とうそぶきます。しかし、彼は続けます「もう一度見つめるならば、苦痛の胸からも、うるわしさ湧き来たりて、目に留まるは歎きの浜で看取りする姉妹たち。そして愚か者でも口をつぐみ、神を拝む」(スティーヴンスン「旅の歌」より)。らい病者のために自分の生涯を捧げる人がいます。この人たちこそ、キリストの贖罪死に心動かされたキリストにある愚者です。その時まさに「神を見た者は、まだ一人もいない。もし私たちが互に愛し合うなら、神は私たちのうちにいまし、神の愛が私たちのうちに全うされるのである」(第一ヨハネ4:12)という言葉が成就します。知性を超えた信仰の力こそ、ヨハネが伝えたかったものなのではないでしょうか。

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