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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年6月26日説教(第一ヨハネ4:1-12、愛の賛歌)

投稿日:2016年6月26日 更新日:

2016年6月26日説教(第一ヨハネ4:1-12、愛の賛歌)

 

1.偽預言者の出現の中で

 

・ヨハネの手紙をご一緒に読んでいます。今日が4回目です。ヨハネの教会では、異なる信仰をもつ人々が、多数の信徒を連れて教会から離脱して行きました。「グノーシス」と呼ばれる信仰を持つ人々ですが、出て行った彼らの方が、残されたヨハネの教会よりも盛んになっていったようです。ヨハネは言います「偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます」(4:5)。「世は彼らに耳を傾けた」、多くの信奉者がグノーシス派の集会に集まったことをこの文書は示唆します。今日でも人は自分の聴きたいことを話してくれる説教者を好みます。聴きたくないこと、都合の悪い真実は知ろうとしません。だから、偽預言者が出て、「信じれば病気は治る、苦しみはなくなる」と言えば、その言葉に頼っていきます。ヨハネは言います「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです」(4:1)。

・福音がギリシャ世界に入っていった時に、グノーシスという異端が生まれてきました。ギリシャ哲学によるキリストの福音の修正です。哲学は理性を根底に置きますから、理解できないものは否定していきます。また彼らは「肉体は汚れており、霊なる神が汚れた肉となることなどあり得ない」として、神の子がナザレのイエスとして人となられた(受肉)を否定し、イエスが十字架で死ぬことを通して自分たちの罪が贖われたこと(贖罪)も否定していきました。つまり、歴史のイエスが救い主キリストであることを否定したのです。ですからヨハネは言います「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります」(4:2)。偽預言者たちは自分たちの理解を超える、神の子の受肉という神秘を認めることが出来なかった。しかし、信仰とは、人間の限界を超えた力を信じていくことです。使徒ヨハネは福音書の中で述べました「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。イエスがキリストであることを否定する者は偽預言者といわざるを得ないではないかと、手紙の著者、長老ヨハネは語ります。

・偽預言あるいは異端は人の欲から出ます。彼らは他者の幸福よりも、自分の満たしを求めます。「神の愛は自己より他者を気にかける。そこに愛があるかどうかで真偽を判別しなさい」とヨハネは教えます。ヨハネは4:7から有名な「愛の賛歌」を展開します。4:7-10は韻文で書かれており、パウロがコリント書で記す愛の賛歌(1コリント13章)と同じように美しい言葉で展開されています。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(4:7-8)。私たちが正しい信仰の中にいるかどうかは、私たちが兄弟を愛するかどうかでわかります。ヨハネは続けます「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に示されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです」(4:9-11)。

 

2.愛とは何か

 

・人は人間関係の中に愛を求めますが、その愛の多くは裏切られます。人は自分のために愛するのであり、相手の状況が変化すれば、その愛は消えるからです。先週見ましたように、創世記のアダムはイブを愛しましたが、都合が悪くなれば一転してイブを攻撃します。人間の愛はそのような愛です。しかし神の愛は現れるだけでなく、人々を生かし、人々を愛に駆り立てていきます。それは好きな人だけを愛する愛ではなく、敵をも包み込む愛です。愛はエゴを超えていきます。ヨハネは語ります「いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うならば、神は私たちの内にとどまってくださり、神の愛が私たちの内で全うされているのです」(4:12)。

・ヨハネは言います「神は私たちに、御自分の霊を分け与えて下さいました」(4:13)。聖霊によって私たちは神が私たちを愛してくださることを知った。だから私たちも兄弟を愛していくのだ。そのことをヨハネは次のように言います「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」(4:19-20)。信仰は応答を、応答は行為を伴うのです。

・岸本羊一先生の説教集(葬りを超えて)を読んでいましたら、先生の最初の赴任先教会は岡山市博愛会教会で、教会の裏庭に「祈りの場」と呼ばれる場所があったそうです。今では博愛会病院という大きな施設が立っているそうですが、前身は岡山孤児院で、創設者石井十次が祈った場所だとされているそうです。石井十次は、1923年に起きた関東大震災の後、震災にあった5600人の孤児たちを収容しましたが、5千人もの子どもたちを養っていく米がない。彼は祈るしかないとして、毎日庭に行って、ひざまずいて祈ったそうです。その都度、それこそ、一日一日、一食一食、どこからか食料が与えられて、孤児たちを育てていくことできたと言います。やがて石井の熱心に感動した大原孫三郎(倉敷紡績創設者)等の篤志家の支援で経営が安定して行きます。どのような絶望の中に置かれても、「祈る」という最終手段を通して道が開けました。ヨハネは語りました「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」(4:18)。石井十次の愛は見栄や外聞を吹き飛ばす力を持っていました。

 

3.キリストの受肉を通して生まれていく愛

 

・今日の招詞にマタイ25:35-36を選びました。次のような言葉です「お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ」。マタイの描く最後の審判の光景です。最後の審判で人は裁き主キリストの前に出て、正しい者は右に分けられ、祝福を受けます。選ばれた人たちはなぜ自分が祝福されるのかわかりません。その人々にキリストは招詞の言葉を語り、最後に「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」と語られます。

・この言葉は初代教会の人々に大きな感銘を与えました。5世紀の教父アレキサンドリアのキュリロスは、「何故神は人間になったのか」と問われた時、語りました「もし神が人間にならなかったなら、最後の審判の時、貧者に憐れみを施さなかった薄情な者どもを裁こうとする神に対して、悪魔が異議を唱えるだろう。悪魔は、神が人間の飢えや渇きを自ら感じたことがないならば、裕福な人間が同胞の窮乏を理解しなかったとしても、どうして神はその者の罪を宣告することができるのかと反問するであろう。人間になって飢えと渇きを味わった神だけが、貧者への思いやりの欠けた富者を罰することができる」(土井健司「キリスト教は戦争好きか」p188)。「人間になって飢えと渇きを味わった神だけが、貧者への思いやり」を示すことができる。ここでは神の受肉と救貧が重ねられて説明されています。当時のキリスト者たちは「神が人間になることは、神が貧者になった」ことと理解し、貧者への救貧行為がキリストに仕えることであるとして、病人や貧困者への救済活動を信仰の業として行っていたのです。ナジアンゾスのグレゴリウスという司教は語りました「病貧者は身体を病み、健常者は魂を病む。身体を病む人に仕えることを通して私たちの魂は癒される。大きな贈り物の代わりに用意の整ったものを与えなさい。もし何も持っていないなら涙を流しなさい。心から湧き出た憐れみは不幸な人にとって大きな薬となり、真の同情は不幸というものをたいそう軽くする」と(土井健司「ナジアンゾスのグレゴリウスとレプラの病貧者」から)。

・エウセビオス「教会史」には、3世紀中ごろの「キプリアヌスの疫病」や、4世紀初頭のパレスティナで生じた疫病に際して、キリスト者が自らの命を引き換えにして、病人のケアをしたことが伝えられています。医師さえ感染を恐れて町から立ち去った時に、病人の看病と埋葬に専念したキリスト者がいたのです。ロドニー・スターク「キリスト教とローマ帝国」によれば、ローマ時代には疫病が繰り返し発生し、死者は数百万人にも上り、人々は感染を恐れて避難しましたが、キリスト教徒たちは病人を訪問し、死にゆく人々を看取り、死者を埋葬したそうです。この「食物と飲み物を与え、死者を葬り、自らも犠牲になって死んでいく」信徒の行為が、疫病の蔓延を防ぎ、人々の関心をキリスト教に向けさせたとスタークは考えています。彼はテキストの最後に述べます「キリスト教が改宗者に与えたのは人間性だった」と(p271)。

・この「困窮者こそキリストである」という信仰は今日でも重要な役割を持っています。マザーテレサをその活動に押しやったのもその信仰です。マザーは語ります「貧しい人に触れる時、私たちは実際にはキリストのお体に触れているのです。私たちが食べ物をあげるのは、着物を着せるのは、住まいをあげるのは、飢えて、裸の、そして家なしのキリストに、なのです」(「マザーテレサ、あふれる愛」、P16)。

・この日本で、今一番支援を必要としているのは誰でしょうか。個人的には日本に来ておられる難民の方々ではないかと思います。日本では現在1万人を超える人が難民申請をしていますが、難民申請者に対する保護措置の対象者は200人前後で、申請待機している人の95%は何の保護も受けていないそうです。そして難民認定までの平均待機期間は35カ月で、その間は就労が許されず、ホームレスになるしかない現実があります(石川えり「日本における難民支援」、福音と世界2016年7月号)。イエスが生きておられたら、「旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねよ」と言ったではないと叱られるでしょう。ヨハネが語る「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」という言葉は私たちに何かを促します。沖縄の女性暴行殺害事件に抗議する6月19日の「県民大会」で、玉城愛さんは本土に住む日本国民を名指して、「今回の事件の第二の加害者あなたたちだ」と涙ながらに訴えました。かつて預言者ナタンは夫ウリヤを殺してバテシバを強奪したダビデに語りました「その悪い男はあなただ」(サムエル記下12:7)。同じ鋭さを持つ玉城さんの言葉です。聖書をどう読むか、読んでどう行為するかが、問われています。

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