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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年6月12日説教(第一ヨハネ2:1-17、キリストの内に留まりなさい)協力牧師 水口仁平

投稿日:2016年6月12日 更新日:

2016年6月12日説教(第一ヨハネ2:1-17、キリストの内に留まりなさい)協力牧師 水口仁平

 

1.キリストの内に留まりなさい

 

・ヨハネの手紙を読み続けています。手紙の主題は「教会分裂」です。ヨハネの教会では異なる福音を信じる人々が教会を混乱させ、分裂させ、出て行きました。残された人々は混乱の中にあります。昨日まで一緒に礼拝していた人々が、今日はいなくなったのです。教会の一致が崩れる、教会内で争いが起こり、分裂していく出来事が現実に起こります。それはヨハネの教会で起こったし、私たちの教会でも起こり、近隣の教会でも今も起きている出来事です。このような事態に私たちはどう対処したらよいのか、今日はヨハネの手紙2章を読んでいきます。

・ヨハネの教会内に異なる信仰を持った人たちが出て来ました。ギリシア哲学では、「人間の本質は霊であり、肉体は霊の宿る牢獄に過ぎない」と教えます。このギリシアの霊肉二元論の影響を受けた人々は、「イエスの受洗時にキリストは肉のイエスと結合したが、受難に先立って再びイエスの肉体から離れ、神の元に帰った。そして人間イエスだけが苦しみを受け、十字架につけられた」と考えるようになりました。そうなりますと、イエスの降誕を喜ぶ気持ちも、罪を赦されて新しい人生を生きる感謝の心も、潮が引くように無くなっていきました。そして教会の中でそのような信仰を強く主張する者たちは、教会を割って出て行きました(2:19)。残された信徒にヨハネは「御子の内に留まりなさい」と繰り返し、語ります。

・ヨハネの手紙では、「留まる(メノウ)」という言葉が、11回も出てきます。教会分裂に動揺する信徒に、「あなた方は御子の内に、教会の内に留まりなさい」とヨハネは語ります。それらの言葉を見てみます。「教えられた通り、御子の内に留まりなさい」(2:27)、「子たちよ、御子の内にいつも留まりなさい」(2:28)、「神の掟を守る人は、神の内にいつも留まりなさい、神もその人の内に留まってくださいます。神が私たちの内に留まってくださることは、神が与えてくださった"霊"によって分かります」(3:24)。「御子の内に留まりなさい、キリストの内に留まりなさい」という言葉こそが、ヨハネの手紙の中心的な使信なのです。そこには「あなた方は教会を出ていくな、そこはサタンの世界だ」と叫ぶヨハネの肉声が聞こえてくるような表現です。

・動揺する信徒たちに、ヨハネは、「私はイエス・キリストをこの目で見、声を聞き、その御体に触れた」(1:1)と伝えます。イエスこそメシア・キリストであり、それを否定する人々は「反キリスト」であり「偽り者だ」とヨハネは語ります(2:22-23)。教会から出ていった人々は「キリストの受肉」を否定し、「キリストが十字架苦しまれた」ことも、「その流された血により人の罪が贖われる」という贖罪も否定し、さらに彼らは、イエスが体を持ってよみがえられた復活をも否定しました。それはもうキリスト信仰ではないとヨハネは語ります。

・罪を認めて悔い改めの生活を始める、それが救いの第一歩であり、信徒の生き方であると長老ヨハネは教えます。今日、読みます手紙2章は1章の教えを受けて、信徒はどのような生活をすべきかを述べます。一言で言えば「愛し合う生活」です。長老は語ります「私の子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」(2:1-2)。「罪を犯さないように」と長老は言います。しかし、彼は私たちの弱さを知っています。私たちは洗礼を受けても罪を犯さざるを得ない存在です。しかし、その犯した罪もまた、天に帰られたキリストが執り成して下さると言います。そしてヨハネは語ります「私たちが神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります」(2:3)。そして「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内に真理はありません」(2:4)。

・「神を知っている」の「知る」は、ギリシア語「ギノウスコ-」で、「体験的に知る」ことを意味します。頭での神理解ではなく、体験的に神を知る、それは人が神の言葉を実践することにより与えられます。三浦綾子の小説「塩狩峠」の主人公長野信夫は、牧師から「聖書の中にあるどの御言葉でもいいから、そこに書かれている命令を徹底して実行してみなさい」と言われ、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」を実行する決意をしました。しかし、「言うは易く、行いは難し」、そうしようと思えば思うほど、うまくいきません。ある時彼は、「善をなそうとしても出来ない」自分の心の中に、闇が、罪があることに気づき、「自分の罪のためにイエス・キリストが十字架にかかられたこと」を悟ります。そのような体験を通して、人は「神を知る」のです。

 

2.古くて新しい掟「愛し合いなさい」

 

・では神の戒め、掟とは何か、それは「愛し合うことだ」と長老ヨハネは言います。神を愛するものは兄弟を憎まない。信仰が私たちの生活そのものを変えていくからです。しかし、ヨハネの共同体では自分たちの考えに固執する人々が、教会を混乱させ、挙句の果てに、教会から出て行きました。愛し合うことが出来なかったという現実を、ヨハネは見つめて言います「光の中にいると言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです」(2:9-11)。

・教会の中に世の欲が入りこんできます。肉の欲、目の欲、生活のおごりが信仰を曲げることが起こります。だから「世と世にあるものを愛するな」とヨハネは叫びます。「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます」(2:15-17)。

・この世の肉の欲、目の欲、生活のおごりとは、直接的には、人間の本源的な欲望を指します。多くの人が今現在の満足を求めますので、欲と欲がぶつかり合って、世には争いが絶えません。食欲を満たすために他人のものを盗んだり、性欲を満たすために他人の妻をほしがったり、権力欲や地位欲を満たすために競争相手を押しのけたり、財産欲を満たすために他人の財産や権利を侵害します。「自己中心主義」です。

・皆さんは言うかもしれない「私たちキリスト者はこのような自己中心主義の欲からは解放されています」と。おそらく、そうでしょう。しかし、教会の中でもっとも恐るべきものは、そのような表面的な欲ではなく、私たちの心の中にある欲、「人に喜ばれ、尊敬され、世の誉れを受けたい」という、社会的な欲です。それは反面、「他人に馬鹿にされたり、非難されたり、仲間外れにされないようにしようとする心」を生みます。罪よりも恥を気にし、神よりも人にならおうとする態度です。「人間関係中心主義」と言えるでしょう。ヨハネ教会の問題は、一部の人たちが、「自分たちは正しい、それが受入れられなければここを出る」として教会を割って出て行ったことです。神よりも人に関心が行く、この「人間関係中心主義」の欲が教会の交わりを壊し、教会を分裂させたのです。

 

3.イエスの贖いを信じて生きる

 

・今日の召詞にマタイ7:21を選びました。「私に向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るのではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである」。言葉だけで「主よ、主よ」というのではなく、「父の御心を行いなさい」とマタイは語ります。しかし「御心を行う」とは具体的に何をすればよいのか、人々にはわかりません。そのため教会は、「祈りと巡礼と献金を励むことで罪が償われる」と奨励するようになります。そして終には免罪符(贖宥状)を売り出し、「免罪符を買った者の罪は赦され、魂は救われ、天国へ行ける」と言うようになります。

・16世紀のドイツの大司教マインツは、免罪符販売を説教師テッツエルに委任し、テッツエルはロ-マ教皇の紋章を付けた十字架を先頭に行列を組んで町中を練り歩き、人々は天国の座席を買うために群がり、免罪符の売れ行きは上々でした。このロ-マ教皇勅許の免罪符販売をマルテイン・ルタ-は真っ向から比判しました。ルターは「人は善行ではなく、信仰によって救われる」と確信し、魂の救いを金で買うなどもってのほかだと主張しました。教皇側はルターが批判を取り下げるなら赦すと妥協を迫りましたが、ルターは妥協せず、「人は信仰によってのみ義とされる」と主張し、新しい時代を開きました。人々は「救い」や「贖い」という見えないものではなく、「免罪符」という見えるものに頼りましたが、目に見える「天国行きの切符」などはなかったのです。

・ヨハネの教会を分裂させて出ていった人々は、のちに「グノーシス主義」と呼ばれる人々でした。「神の子の受肉」や「神の子の受難」、その結果としての「罪の贖い」等の教えは、理解することが難しいものです。グノーシス主義者のように、それを合理化した方がわかりやすいかもしれません。しかしそれは結局、世との妥協で、「世も世にある欲も、過ぎ去って行き」、何も残りませんでした。グノーシス主義はいつの間にか歴史の波の中で消えて行きました。しかしイエスの贖いを信じた人々は2000年後の今日も、その信仰で生かされています。「イエスの贖い」は私たちに生きる力を与える真理なのです。

・人は目に映るもの、心をそそるものに惑わされます。私の先輩は、熱心な信徒でしたが、教会のやっていることは礼拝だけで生ぬるいと、教会を出て社会運動に飛び込みました。10年くらい後、その先輩に偶然、町で出会いました。先輩はすっかり信仰を失っていました。それだけではなく、社会運動に対する情熱も無くし、後ろ姿は寂しそうでした。「教会から離れていなければ」と思い残念でした。私たちにとって「キリストに留まる、教会に留まる」ことは本当に大切なのです。キリストの愛に留まるとは、教会に留まることです。教会に留まって、毎日曜日にキリストの言葉を聞くことです。日曜日の礼拝に参加するとは、読まれる聖書の言葉を通して、一週間の自分の生活を振り返ることです。神がどんなにこの一週間、私の行動に我慢され、それでも見捨てられずに、また礼拝に来ることを赦された、その恵みを思うことです。こうして私たちは、キリストの弟子として成熟していきます。そして、ある時、イエスがそうされたように、人の足を洗う者に変えられていく。そのような約束がキリストから与えられていることを、今日は覚えたいと思います。

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