1.毒麦の譬、最初の問いー世の中に何故悪が存在するのか
・本日は花野井教会にお招きいただきまして、ありがとうございます。花野井教会は今二つの課題をお持ちだと認識しています。一つは無牧になった教会にどなたを後任牧師として迎えるかという課題、もう一つは古くなった教会堂を建て替える問題、場合によっては会堂移転の可能性も含めた検討が必要だとお聞きしています。両方とも、時間を要する課題であり、また教会が一つになって取り組まなければいけない問題です。「教会が一つになる」、あるいは「一致する」ということは、簡単なことではありません。なぜなら教会員の方々にはそれぞれ異なった思いや意見があり、それを一つにするためには努力が必要だからです。「教会の一致」について聖書はどのように語るのか、今日はマタイ福音書13章の「毒麦の譬え」から聞いていきます。
・マタイは毒麦の譬を二回に分けて記します。最初の譬(13:24-30)では良い種が畑に播かれたのに、芽が出て実ってみると毒麦も一緒に現れたといいます。27節「僕たちが主人のところに来て言った『だんな様、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう』」。神が創造され、支配されているこの世界に何故悪が存在するのかがここで問われているようです。二番目の譬は13:36-43で、これは前の譬の解説の形をとって、教会の中に何故悪が存在するかが問われています。37-38節「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである」。人の子イエスが福音の種を蒔かれ、人々が教会の中に集められてきたのに、その教会の中に毒麦、即ち悪が存在するのは何故かが二つめの譬で問われています。おそらく最初の譬はイエス自身が語られ、二つめの譬はイエスの言葉を受けてマタイが自分の教会について語った編集的なものとされています。
・最初の譬では、良い種を播いたのに毒麦も一緒に芽を出したと言われています。この毒麦が、世にある悪を指すことは明らかです。世界は神が創造されたのに、この世に悪がある。何故、悪があるのかについては、譬は直接には答えず、悪があることが前提になっています。譬では「毒麦を抜きましょうか」と問う僕に対して、主人は「そのままにしておきなさい」と答えています(28-29節)。イエスの時代、多くの人々が、自分たちが毒麦と考える人たちを抜こうとしていました。ファリサイ人は律法を厳格に守ることを通して、守らない人たちを罪人として排斥していました。熱心党(ゼロータイ)と呼ばれる人たちは異教徒ローマに協力的な人々を背教者として暴力的に排斥することによって、ユダヤ教の純粋性を守ろうとしていました。また、エッセネ派と呼ばれた人たちは砂漠の中に住み、世の穢れに染まった人々と縁を断とうとしていました。いずれも自分たちは良い麦であり、自分たちと異なる者を悪い麦、毒麦として排除しようとしていました。イエスは彼らを批判し、改めさせるためにこの譬を語られたと思われます。
・イエスはファリサイ派やエッセネ派の人々が排除した徴税人や娼婦さえも、神が愛される者として拒否されませんでした。29-30節「いや、毒麦を集める時、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」。世の中には人間の目から見て良い人も悪い人もいます。しかし天の父は罪人が悔改めて帰ってくることを望んでおられる。我々が行うべきことは悪いと思われる人々を排斥することでなく、招くことだ。裁かれるのは神であり、人間ではない。刈り入れの日まで毒麦を抜いてはいけないイエスは言われています。
・何故世の悪を自分で取り除いてはだめなのか。それは、「人間は神ではない」からです。2001年9月11日、テロ攻撃を受けた米国のブッシュ大統領は、報復を求めて、アフガニスタンやイラクを攻撃しました。その時彼は演説します「テロとの戦いは、悪を取り除く神の戦いである」。それから15年、米国国防省発表ではイラク・アフガン戦争の米軍死者は6,742人となり、報道機関推計による一般市民犠牲者17万人を加えれば、アメリカ軍の行動により計18万人が亡くなりました。同時多発テロの犠牲者は2,973人でした。報復により、9.11の犠牲者の60倍近い犠牲が出ています。またアフガニスタン・イラクからの戦争帰還兵200万人のうち、50万人がPTSDを病み、薬物中毒やアルコール依存になり、その果てに自殺しています(自殺者累計6570名)。開戦直後はブッシュ大統領を支持したアメリカ国民も、今ではブッシュの政策は間違っていたと認めます。不完全な人間が、毒麦=悪を自分の手で抜き去ることは大きな悲劇をもたらすのです。
2.毒麦の譬え、第二の問いー教会に何故悪があるのか
・36節からの第二の譬は第一の譬の解説部分として構成されています。37節「良い種をまく者は人の子」、イエスです。イエスの宣教とそれに続く弟子たちの伝道により多くの者たちが教会に招かれてきました。しかし、その教会の中にも良い麦と毒麦が混在しています。イエス宣教から50年を経たマタイの教会の中に、自分たちは正しいとして他の教会員を排除する人々がいたのでしょう。マタイはそのような教会員に対し、イエスの言葉を受けて、誰が良い麦で誰が毒麦かを判別し裁くのは神の業であり、人間がそれを行えば教会は崩壊するとのメッセージを送っています。
・教会の中に何故悪があるのか、私たちには分かりません。しかしあるのは事実です。また何を持って悪と言いうるかも難しい問題です。イエスは12人の弟子を招かれましたが、その中にはイスカリオテのユダもいたし、ペテロもいました。ユダはイエスを裏切ったから、毒麦であったのか。しかし、彼はイエスならば世を救う力をお持ちだとの希望を持って弟子団に入り、他の弟子たちがイエスを見捨てた後も信従して来ました。彼は良い麦として招かれたのに、何時の間にか毒麦に変ってしまったと言えます。
・ペテロはどうでしょうか。彼は十二使徒の筆頭であり、殉教していますが、福音書はイエス逮捕時、ペテロは三度イエスを否認したことを明記します。ペテロはイエスを裏切った、その時の彼は毒麦であったのか。ペテロの行為とユダの行為は本質的に同じです。言い換えれば、ユダは良い麦であったのに毒麦に変えられ、ペテロはイエスを裏切った時は毒麦であったが、やがて良い麦に変えられたとしか思えません。同じ人が良い麦にも毒麦にもなりうるのです。
3.この譬えをどう聞くか
・教会の中に何故悪があるのかを追求した人がアウグスティヌスでした。彼は言います「誰が毒麦で誰が良い麦であるかは私たちにはわからない。全ての信徒が毒麦にも良い麦にもなりうる。ある意味では、私たち各自のうちに毒麦と良い麦が共存しているともいえる。だから、他人が毒麦であるか否かを裁くよりも、むしろ自分が毒麦にならないように、自分の中にある良い麦を育て、毒麦を殺していくように」とアウグスティヌスは勧めます(山田昌「アウグスティヌス講話」p130)。つまり、教会の中にある毒麦的なものはただ否定されるべきものではなく、むしろ、その責任を教会の仲間が共に引き受けていくのが教会に生きる者たちの課題だと説きます。最後の裁きは神に任せる。例え弱い信徒があってもそれを助け、それに耐えて、それによって自分たちの信仰をいっそう清め、強めていく。そのためにあるものとして教会の中にある悪を理解する。
・同時に教会の中にある良い麦と毒麦という事柄を、教会を越えて考えた時、そこに「神の国」と「地の国」という思想が生じてきます。神の国と地の国とを単純に教会と地上の国家と読み替えることはできません。教会がそのまま神の国ではなく、地上の国家がそのまま地の国ではない。神の国は地上の国家の中にもありうるし、教会の中にも地の国が含まれうる。アウグスティヌスは語ります「神を愛して自己愛を殺すに至るような愛が神の国を造り、自分を愛して神に対する愛を殺すに至るような愛が地の国を造る」。現実の私たちは神中心の愛と自己中心の愛の双方を持つ弱い人間ですから、ありのままを神に告白し、その助力を乞い、そういう仕方で絶えず神の国に加えられていく、生かされていくことが神の国に生きることであると彼は語ります。最期に彼は言います「神は悪をも善用されるほどに全能であり、善なる方である」と。裁きはこの神に任せよと。
・イエスは自分たちを正しいとして、違う人々を裁くファリサイ派やエッセネ派の人々を戒めるために、この毒麦の譬を語られました。マタイはその譬を自分たちの教会に向けられたメッセージと理解し、教会の中で他の人々を毒麦として排除する人々を戒めるために、譬の解説を加えました。私たちもまた、私たちに向けられたメッセージとしてこの譬とその解説を聞く時、マタイ13:30の言葉が重い意味を持って迫ってきます。「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう。」
・毒麦の譬えは私たちに何を教えるのでしょうか。麦と毒麦は地上では見分けることができますが、地下では根が複雑に絡み合い、毒麦を抜こうとすると良い麦まで抜けてしまいます。しかし両方が収穫の時まで育てば、両方を抜いて、毒麦だけを除くことは可能です。だから収穫まで、終末まで待ちなさいと言われています。私たちの暮らす社会は自己愛が中心の地の国です。イエスは言われました「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイ10:16)。神の国に本籍を持つ者として「鳩のように素直」に生きるが、地の国に暮らす者として「蛇のように賢く」生きることが求められています。理想主義だけでは挫折します。現実主義者ラインホルド・ニーバーはイエスの言葉を次のように言い換えます「神よ、変えることの出来るものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることの出来ないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることの出来るものと、変えることの出来ないものとを、識別する知恵を与えたまえ」。
・会堂の移転や建て替えについても多くの意見があるでしょう。ある人は会堂を町の中心部に移して建てる方が良いと思うでしょうし、別の人はそれでも資金負担が大変だとして現在地での建て替えを主張するかもしれません。議論して決めればよいわけですが、最悪は意見が対立して、何もしないことです。教会を一つにまとめる知恵とは何か、それは自分たちの正しさに固執しないことです。自分の中にも毒麦があることを知るからこそ、相手の毒麦、悪を赦していく。そのような教会形成をイエスも望んでおられると思います。