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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年6月5日説教(第一ヨハネ1:1-10、光の中を歩きなさい)

投稿日:2016年6月5日 更新日:

2016年6月5日説教(第一ヨハネ1:1-10、光の中を歩きなさい)

 

1.教会分裂に苦しむ信徒の人々に

 

・今日から数回にわたってヨハネの手紙を読んできますが、この手紙はヨハネ福音書を書いた使徒ヨハネの弟子、長老ヨハネが書いたと言われています。ヨハネ福音書は、ユダヤ教からの迫害に苦しむ教会のために書かれた福音書で、紀元90年ごろシリアで書かれたとされています。使徒ヨハネは、福音書の中でイエスの言葉を用いて、人々を励ましました「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。「私は既に世に勝っている」と宣言された方が私たちと共におられる、だからくじけるな、負けるなと使徒ヨハネは書きました。

・それから十数年の時が流れました。ヨハネの教会は様々の試練の中を生き残り、今では小アジアのエフェソを中心にした複数の群れにまで、育っていました。しかし、その教会の中に新たな危機が生まれました。伝えられた福音とは異なる教えを信じる者たちが出て、教会に混乱が生じ始めたのです。このような状況下で書かれた三通の手紙がヨハネの手紙です。書かれた時期は紀元100年前後であろうとされています。今週から数回にわたって、このヨハネの手紙を共に読んでいきます。

・福音はエルサレムを出て、ギリシア・ローマ世界に広がっていきましたが、それと同時に、神の子の受肉や贖罪に疑問を持つ人々が教会内に生まれてきました。ギリシア哲学では、「人間の本質は霊であり、肉体は霊の宿る牢獄に過ぎない」と教えます。霊肉二元論です。彼らには、「神が肉体を持って人となられた」と信じることは愚かなことのように思えました。人々は、「キリストは真の肉体を持たず,その誕生は仮の姿にすぎない」としてイエスの受肉を否定しました。また「神の子が血を流して死ぬ、そのようなことがあるものか」とイエスの受難と贖罪を否定するようになりました。さらに彼らは、イエスが体を持ってよみがえられた復活をも否定するようになります。ギリシアの霊肉二元論に立つ同時代の思想家ケリントスは「キリストはナザレのイエスの受洗時に肉のイエスと結合したが、受難に先立って再びイエスの肉体から離れ、神のもとに帰った。そして人間イエスだけが苦しみを受け、十字架につけられた」と述べています。理解できない事柄を合理化する考え方で、キリスト仮現論です。これは教会が使徒から継承した、「イエスの死による贖いと救済の教え」を完全に否定するものでした。

・異なる福音を信じる人々は教会を分裂させて出て行ったようです。第一ヨハネ2:19は記します「彼らは私たちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、私たちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれも私たちの仲間ではないことが明らかになりました」。残された信徒たちは混乱の中にありました。その人々に向けてこの手紙が書かれています。著者は自らを長老と名乗ります(第二ヨハネ1:1他)。使徒ヨハネの弟子であり、使徒から教えを受け、その教会の牧会を委託された指導者と思われます。

 

2.闇の中を歩むな

 

・長老ヨハネは書きます「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、また手で触れたもの、すなわち、命の言について、伝えます」(1:1)。この言葉は、使徒ヨハネが福音書に書いた言葉、「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」を反映しています(ヨハネ1:14)。「神の子が人となられた、その人こそナザレのイエスなのだ」と長老ヨハネは語ります。長老ヨハネはその若い日に、イエスの声をその耳で聞き、イエスの姿をその目で見ました。そしてイエスの十字架を目撃し、復活されたイエスと出会い、この方こそ「私の主、私の神」(ヨハネ20:28)という体験をしています。このイエスとの顕現体験が、長老ヨハネの信仰の基礎にあります(ヨハネ21:24)。教会の中に「イエス・キリストが肉となって来られた」ことを否定する人々が出て来ているゆえに(4:2)、ヨハネは「イエスこそが人となられた神」であることを強調し、この方を「命の言」と呼びます。

・ヨハネは続けます「この命は現れました。御父と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです」(1:2)。そして、「私たちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちとの交わりを持つようになるためです。私たちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(1:3)。キリストが来られ、血を流して私たちの罪を購って下さった。そのことによって、私たちは神と和解し、神との交わりを回復した。神との交わりを回復した者は人と交わることが出来る。なぜならば、お互いに神の子とされた者たちは、兄弟姉妹の関係に入るからだとヨハネは語ります。だから「私たちの喜びが満ちあふれるようになるため」とヨハネは書いています。

・ヨハネは続けます「私たちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです」(1:5)。「神は光である」、私たちはこの神の光に照らされて、心の中の闇、罪が照らされます。私たちは心の中に闇を、人に見せることの出来ない醜い自己を持っています。その私たちの闇が神の光に照らされて明らかにされます。ヨハネは言います「私たちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」(1:6-7)。

・長老ヨハネは、交わりから去っていった人たちのことを考えながら手紙を書いています。「神は光である」と言いながら、教会の交わりを壊して去っていった人たちのことです。人間は弱い存在ですから、罪を犯します。罪とは神の御心に反する行為であり、それは神との交わりを妨げると同時に、人との交わりも妨げます。何故なら、罪は自己主張をし、お互いの自己主張の衝突が争いを生むからです。長老は、共同体の交わりが人間の罪によって妨げられ、破壊されている現実を見つめています。ですからそれを克服する道を説きます。神は、罪を犯さざるをえない弱い人間が、光の中で交わりを維持することができるように、罪を克服する道を備えてくださった。それが「御子イエスの血」、受難による贖いです。 私たちの教会でも、「信仰が違う」として去って行った人々がいます。どの教会も長い歴史の中で分裂を経験しています。その痛みと罪を告白することが必要です。

・もし私たちが、「自分の罪を公に言い表すなら」(1:9a)、「神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清める」(1:9b)と宣言されます。しかし、「罪を犯したことがないと言うなら」(1:10a)、「それは神を偽り者とすることであり、神の言葉は私たちの内にありません」(1:10b)。教会を分裂させた人々は、「自分たちには罪がない、キリストの贖い無しで自分たちは救われている」と主張したようです。しかし罪がなければ、キリストが死ぬ必要はなかった。そのような態度は福音に示された神の言葉を拒否することです。長老は共同体の各員に勧めます「自分が罪を犯さざるを得ない弱い存在であることを認めて、キリストの血による清めを受け、互いの交わりを維持するように」と。自分には罪はないとして、相手を裁く心が交わりを破壊するのです。

 

3.光の中を歩みなさい

 

・今日の招詞に第一ヨハネ3:16を選びました。次のような言葉です「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです」。ヨハネ教会は使徒ヨハネによって建てられ、長老ヨハネによって継承されてきました。彼らはユダヤ教会からの迫害に耐え、皇帝礼拝を求める不条理の中にあっても、信仰を守ってきました。しかし内部からの異なる信仰の出現により、教会の土台が崩されています。時間の経過とともに、教会の信徒は二代目、三代目になり、イエスとの顕現体験を持つ者は少なくなり、彼らは理性で納得できることしか認めようとしません。やがて、彼らは、イエスの受肉を否定し、イエスの受難とその贖いをも否定するようになりました。

・理解できない事柄、実証できない教理は信じない、今日でも同じです。アメリカではキリスト教徒は保守派とリベラル派に分かれますが、リベラル派の多くはユニテリアンと呼ばれる「理性主義信仰」を奉じます。彼らの考え方は「イエスは神の子ではなく人間だ。イエスは私たちをよりよい生に導く善良で賢明な道徳の教師だ」というもので、ハーバード大学等がその本拠になっています。キリスト教信仰を知識として受け止めていった時、その信仰は力を持ちません。なぜならいつの間にかそれは信仰ではなく、ヒューマニズムになってしまうからです。信仰とは感動であり、「イエスが私たちのために命を捨ててくださった。そのことによって、私たちは愛を知った」という感動のみが、「だから私たちも兄弟のために命を捨てる」という行為を生みます。

・私たちは自分の罪を知り、自分の惨めさに泣いたことがあります。泣いたことのある者は他者の悲しみを悲しむことが出来、苦しんだことのある者は他者の苦しみを理解できます。その意味で、私たちは悲しむ人、苦しむ人に共感することが出来る者とされました。ヨハネは言います「兄弟を愛する人はいつも光の中にいます」(2:10)。現実の教会の中には罪があります。意見の違う人も考えかたの異なる人もいます。全ての人を好きになることは出来ません。しかし、私たちには嫌いな人も愛する能力が与えられています。愛は感情ではなく意思です。そして、その人のためにもキリストが死なれたことを私たちは知っていますから、私たちはその人を憎みません。

・自分の信仰が異端か、聖書に基づいているかの判別は簡単です。自分と異なる人を受入れるか、憎むか、です。1944年にナチスへの抵抗運動の中で殺されていったボンヘッファーは死を前にした獄中からの書簡で語りました「われわれがキリスト者であるということは、今日ではただ二つのことにおいてのみ成り立つだろう。すなわち、祈ることと、人々の間で正義を行うことだ」(ボンヘッファー「抵抗と信従」p213)。獄中において祈る力はキリストも同じ苦しみをされたことを知るゆえに可能になります。殺されるかもしれない状況の中で正義を行う力は、キリストの復活なしには生まれません。「イエスが私たちのために命を捨てて下さった」、この感動なしにはキリスト者であり続けることはできないのです。

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