2016年5月8日説教(ヨハネ黙示録18:1-8、大バビロンが倒れた)
1.大淫婦ローマ
・ヨハネ黙示録を読んでおります。黙示録はローマ帝国の皇帝礼拝に反対し、そのために迫害を受けていた教会に、ヨハネが天上で見た幻を書き送った手紙です。「ローマは地上の帝王としてその勢力を誇っているが、その実態はサタンに動かされた獣であり、天上においてはその滅亡が計画されている」とヨハネは書き送りました。そのローマの滅亡を預言した箇所が黙示録18章であり、記述は17章から始まります。ヨハネは記します「七つの鉢を持つ七人の天使の一人が来て、私に語りかけた『ここへ来なさい。多くの水の上に座っている大淫婦に対する裁きを見せよう。地上の王たちは、この女とみだらなことをし、地上に住む人々は、この女のみだらな行いのぶどう酒に酔ってしまった』・・・私は、赤い獣にまたがっている一人の女を見た。この獣は、全身至るところ神を冒涜する数々の名で覆われており、七つの頭と十本の角があった」(17:1-3)。天使が見せたローマ帝国の真実の姿は、「獣=サタンにまたがる大淫婦であった」。ローマ帝国は、皇帝を神と呼んで礼拝することを求めましたが、これこそ「神への姦淫」であり、彼女は高価な布で身をまとい、宝石で飾り、汚れに満ちた金の杯を持ち、聖徒たちの血に酔いしれていたとヨハネは記します「女は紫と赤の衣を着て、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものや、自分のみだらな行いの汚れで満ちた金の杯を手に持っていた・・・私は、この女が聖なる者たちの血と、イエスの証人たちの血に酔いしれているのを見た」(17:4-6)。
・当時のローマは繁栄の絶頂にあり、地上の人々はローマ皇帝を神として崇めていました。しかし、真実の神を知る者にとっては、ローマは「サタンに身を売り渡した淫婦」に過ぎません。女を乗せた獣には七つの頭と十本の角がありました。「七つの頭」、ローマは七つの丘の上に立てられた町でした。その「十本の角」、歴代皇帝の多くは暗殺されるか、自殺しています。三代目カリグラ帝(37-41年)は悪行の限りを尽くし、部下に殺されています。その子クラウディス帝(41-54年)は妻に毒を盛られて死にます。5代目皇帝ネロ帝(54-68年)は放蕩に身を持ち崩し、自殺しています。その後三人の皇帝が軍隊により立てられますが、いずれも暗殺か自殺により短期間で死んでいます。9代目ウェスバシアヌス帝(69-79年)によりネロ後の混乱は収められますが、子のティトス帝(79-81年)はマラリヤで急死、現在のドミティアヌス帝(81-96年)、彼こそ皇帝礼拝を強要した張本人ですが、96年に部下に殺されます。権力を誇ったローマ皇帝の多くが殺され、自害して死んでいる、神の審きは既に始まっている。「このような者たちを何故恐れるのか」とヨハネは書き記しています。
2.バビロンの滅亡
・ヨハネは預言します「大淫婦ローマは地上の王たちを支配しているが、やがてその王たちの反逆によって滅ぼされるであろう」と。「あなたが見た水、あの淫婦が座っている所は、さまざまの民族、群衆、国民、言葉の違う民である。また、あなたが見た十本の角とあの獣は、この淫婦を憎み、身に着けた物をはぎ取って裸にし、その肉を食い、火で焼き尽くすであろう」(17:15-16)。不正が正され、最後の審きが行われるまで、地上の支配権は獣=サタンに与えられているが、それはしばらくの間、“3年半”であり、その間にも天上の準備は進んでいる。だから、「待て」とヨハネは命じられます。「神の言葉が成就する時まで、神は彼らの心を動かして御心を行わせ、彼らが心を一つにして、自分たちの支配権を獣に与えるようにされたからである。あなたが見た女とは、地上の王たちを支配しているあの大きな都のことである」(17:17-18)。
・その時、ヨハネは別の天使が天から降り、「大バビロンが倒れた」と叫ぶ声を聞きます。いよいよ滅亡の時が来たのです「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、そこは悪霊どもの住みか、あらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥の巣窟、あらゆる汚れた忌まわしい獣の巣窟となった。すべての国の民は、怒りを招く彼女のみだらな行いのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女とみだらなことをし、地上の商人たちは、彼女の豪勢なぜいたくによって富を築いたからである」(18:1-3)。地上にいる神の民にはローマから出るように勧められます。何故ならばローマは火で焼かれるからです。「私はまた、天から別の声がこう言うのを聞いた『私の民よ、彼女から離れ去れ。その罪に加わったり、その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神はその不義を覚えておられるからである・・・一日のうちに、さまざまの災いが、死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。また、彼女は火で焼かれる。彼女を裁く神は、力ある主だからである』」(18:4-5)。
・ヨハネがこれを書いた当時、ローマ帝国は健在であり、繁栄し、絶頂期にありました。「パックス・ロマーナ」、「ローマの平和」と呼ばれた時代です。現実のローマが滅亡するのは、それから300年後の紀元410年です。ローマ帝国の滅亡を目撃したアウグスティヌスはその著「神の国」(413~427年)の中で述べます「二種の愛が二つの国をつくったのであった。すなわち、この世の国をつくったのは神を侮るまでになった自己愛であり、天の国をつくったのは自己を侮るまでになった神への愛である。地の国は自己自身において誇り・・・人間から誉を求める。地の国の諸民族においては、その君主たちや、君主たちが隷属させている人々のうちに、支配しようと言う欲情が優勢である・・・地の国は権力をもつ者において強さを愛する」(神の国、第14巻第28章)。「ローマの繁栄は自己愛、支配欲、名誉欲によって生み出された戦争と侵略の支配に他ならない。ローマはその誕生において既に罪の子だった」とアウグスティヌスは語ります。歴史家タキトウスも「ローマの平和は他民族の支配と奴隷化であった」と述べています(弓削達「永遠のローマ」p224)。ヨハネは、アウグスティヌスの300年前に「ローマ帝国の本質は悪であり、その命運は既に尽きている」と洞察しているのです。
3.ヨハネ黙示録をどう読むか
・ローマは滅ぶべくして滅びました。何故ならばローマの本質は、「神を侮るまでになった自己愛であり、その誕生において既に罪の子だった」からです。このローマの滅亡が今日の私たちにどういう意味を持つのかを考えたい。今日の招詞にイザヤ31:3を選びました。次のような言葉です。「エジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない。主が御手を伸ばされると、助けを与える者はつまずき、助けを受けている者は倒れ、皆共に滅びる」。イザヤの時代(紀元前7世紀)、アッシリアが世界帝国となり、北イスラエルを滅ぼし、ユダにも攻め寄せてきました。南王国ユダはアッシリアの大軍を前に動揺し、軍事大国エジプトの援軍を求めました。イザヤは、「エジプト人は人であって神ではなく、その馬は肉であって霊ではない」語ります。エジプトは勝てるという目算があればユダを助けるでしょうが、負け戦で自分を滅ぼすことはしない、何故ならば国家の本質は「自己愛」であることをイザヤは見抜いていたのです。
・目の前に敵の大軍を見た時、人は対抗できる軍事力を求めますが、イザヤはそれこそ「偶像」だと語ります。現在の日本は、「日米軍事同盟による抑止力」で平和を保つとしていますが、アメリカは中国やロシアとの戦争の危険を冒してまでは日本を助けないことは明らかです。アメリカ人もまた、「人であって神ではない」からです。イザヤの時代、多くの人びとは、イザヤの預言「エジプトではなく主に頼れ」は非現実的であると考えて来ました。北には強大な軍事力を誇るアッシリア帝国があり、南にはエジプト帝国があり、その中で小国イスラエルが生き残るためには、両帝国のパワーバランスの中で外交政策を考え、自分たちも相応の武力を持って自衛すべきだと考えました。現代の日本でいえば、日米軍事同盟を基本として、かつ自国の軍事能力も高めて、中国・ロシアに備えるという考え方です。
・しかし、日本は武力を持つことを禁じた平和憲法を持ちます。為政者にとってこの憲法の存在が邪魔になり、改憲の動きが出始めています。日本国憲法は9条1項において「戦争の放棄」を宣言し、9条2項で「いかなる軍隊も武力も保持しない」と宣言しました。世界で初めての平和憲法です。この憲法は日本人の発意によって出来たものではなく、占領軍の理想主義的キリスト者たちによって起草されたものです。しかし、戦争の悲惨さを、身をもって知った多くの日本国民は、この憲法を歓迎し、今日まで自分たちの憲法として守って来ました。戦争で亡くなった数百万人の屍の上に建てられた憲法だからです。しかし、その後の日本は武力を持たない不安に耐えられず、1951年米国と軍事同盟を結び、1954年には自衛隊を発足させ、その後軍備が増強され、今憲法9条の改正が諮られています。こういう問題に聖書は何を語るのか、私たちは考える必要があります。
・ユダヤの国はアッシリアが強くなるとアッシリアになびき、エジプトが強くなるとエジプトになびきました。その結果、国は滅びました。小国がいくら軍備を強化しても世界帝国の軍隊の前では意味がなく、また大国は自分たちの都合で動くことを忘れてしまったからです。イザヤの平和を継承されたのがイエスです。イエスは言われました「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5:5)。「柔和な人々」とは、腕力や政治権力、経済力や軍事力を使って無理やり人に言うことを聞かせようとしない人のことです。今の世界には、結局ものを言うのは「力」だという信仰が根強くあります。「武器をより多く持つ者が勝つ」、「威嚇こそ最高の平和に至る道だ」、多くの「現実主義者」は、この世界では「軍馬の思想」のみが有効な平和の手段だと言います。
・しかし、歴史上、軍馬の思想で平和が達成されたことはありません。軍馬の思想を極限まで推し進めた強国アッシリアはバビロンに滅ぼされ、バビロンもペルシャに、ペルシャもギリシャに、ギリシャもローマに滅ぼされます。栄華を極めたローマも今では遺跡が残るだけです。力で支配しようとしたローマは滅んだのです。「目には目を、暴力には暴力を」、これが人間の論理であり、この論理によって人間は有史以来、戦争を繰り返してきました。イエスはこのような敵対関係を一方的に切断せよと言われます。「悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」(マタイ5:39)。
・「敵を愛せよ、敵を愛することによって、敵は敵でなくなる」とイエスは教えられました。殴られたら殴り返すことが正義である社会においては、仲間以外は敵であり、敵とは何をするか解らない、信用の出来ない存在になります。人間がお互いを信じることができない社会においては、平和は生まれません。「米国の軍事力なしには日本の安全保障はない」という論理も、どこかで破綻します。少なくとも聖書はそう語ります。「イエスの言葉は本当に非現実的なのか、この世では通用しない言葉なのか」を、私たち信仰者は考える必要があります。柔和なイエスがこの世界の歴史の中に誕生したということは、新しい世界が始まったということです。「殴られても殴り返さない」、それこそが平和を生む唯一の方法であり、それを体現するイザヤ書の預言は2700年後の今日も真理であり、日本国憲法9条の「戦争放棄」の考え方は、聖書に基づいて制定された条文だと知る時、私たちはそこに神に摂理を見ます。