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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年11月20日説教(ヤコブ4:1-17、神の前に豊かになる)

投稿日:2016年11月20日 更新日:

2016年11月20日説教(ヤコブ4:1-17、神の前に豊かになる)

 

  1. 世の友となるな

 

・ヤコブ書を読んでいます。今日が4回目です。ヤコブ書は手紙の形を取りますが、内容的には教会生活の実践についての訓告集です。著者は主の兄弟ヤコブとされています。ヤコブの関心は「人はキリストを受け入れても、なぜ神の子となれないのか」という問題です。彼は、人は心の中に自己中心的な本能的欲望があり、他者を押しのけてでも自分の願いを満たそうとするから、人と人との争いが生まれると考えています。ヤコブは語ります「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(4:1-3)。 ここにあるのは一般論ではありません。教会の中に派閥争いや異なるグループ間の対立がある、その現実を踏まえた言葉です。
・教会も人の集団ですからそこに様々な派閥が生まれ、それぞれの間に争いが起こります。パウロが指導したコリント教会でも派閥争いがありました。彼は書きます「私の兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると・・・知らされました。あなたがたはめいめい、『私はパウロにつく』『私はアポロに』『私はケファに』『私はキリストに』などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」(第一コリント1:11-13)。私たちの教会もかつてそのような分裂を経験しました。

・ヤコブは語ります「神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです」(4:4)。 彼は教会の人々を「神に背いた者たち」と呼びます。「神の建てられた教会の中に対立、争いがあるとしたら、それは神に従っていないことのしるしではないか」と彼は語るのです。「世の中と同じ悪が教会にあるとしたら、それは信仰の在り方が間違っているのではないか」と言うのです。教会に求められるのは「平和」であり、それは「隣人を大切にする信仰」から生まれます。正しい信仰とは何でしょうか。正しい聖書知識、教会の伝統に忠実であること、しかし「そんなものより大事なものがあるではないか」とヤコブは語ります。「私たちがどれだけ隣人のことを愛する教会になるかが基本だ」と彼は語るのです。

・だからヤコブは語ります「悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。律法を定め、裁きを行う方は、お一人だけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか」(4:11-12)。教会の中で対立する相手方を罵り、サタン呼ばわりする人々がいたのでしょう。私たちは他人の欠点はよく見えますが、自分の欠点は見えない存在です。イエスは語られています「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。」(マタイ7:3-4)。ヤコブの言葉は真実をついています。他人を批判しながら、自分の誤りに気付こうともしない者こそ私たちです

2.生きているのではなく、生かされていることを知りなさい

・神に生かされていることを忘れ、自分の力に頼る人は愚かです。ヤコブは次の段落で「明日の命もわからないのに、1年先の利益を勘定する愚かさ」を取り上げます。「よく聞きなさい。『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません」(4:13-14)。ヤコブは将来の計画を立てることに反対しているのではありません。計画を立てるのは人間の務めですが、その成就は神の手に委ね、自分の務めを精一杯果たすことを求めているのです。だから彼は語ります「あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです」と(4:15)。

・その謙虚さが亡くなれば、人は傲慢になります。「ところが、実際は、(あなたは)誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです」(4:16)。申命記も警告します「あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにして下さったのである」(申命記8:17-18)。かつて夫たちは妻に語りました「誰があなたを養っているのか。私が働いて稼ぎ、あなたを養っているのではないか」。この言葉は間違っています。夫が働けるのは神が彼に健康を与えた故であり、夫が誇るべき事柄ではないのです。

・NHK特集「資本主義の未来 、巨大格差、その果てに」を見ました(2016年10月25日放映)。それによればアメリカでは上位3%の人々が全体の54%の資産を保有しているそうです。富の格差が生まれ、少数の富裕層は豊かな生活を楽しみ、その他大勢の人々は貧困の中にあえいでいます。そのため、社会の活力がそがれ始めている。過剰な富の追求は「社会全体の幸福度を下げ」ます。アダム・スミスは「資本主義の精神」の中で、「資本主義の最大の要素は利己心であるが、同時に共感(compassion)がなければ維持できない」と語ります。「共感」とは相手の不利益にも考えを及ぼすことです。現代の資本主義が病み始めたのは、この共感が薄れてきて、格差が広がっているためではないかと番組は問いかけました。今回のアメリカ大統領選では、「失われた中間層」、ラスト・ベルト(さび付いた地帯)に暮らす貧しい白人たちがトランプ候補を熱烈に支持した結果、予想外の結果が生まれました。貧富の格差が許容できない範囲にまで広がっていたのです。

 

3.神の前に豊かになる

 

・今日の招詞として、ルカ12:20-21を選びました。次のような言葉です「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」。「愚かな金持ちの例え」と呼ばれている例え話です。物語は次のように展開します「ある人の畑が豊作で、有り余るほどの穀物が収穫され、それを倉にしまい込みます。そして金持ちは自分に言い聞かせます『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。すると神は言われました『愚か者よ、今夜、お前の命は取り上げられる』」(ルカ12:16-21)。原文のギリシャ語では短い話の中に、私(ムー)と言う言葉が4回も出てきます。私の作物、私の倉、私の財産、私の魂、彼の関心は私だけです。しかし、命が終る時、私の倉も、私の穀物も、私の財産も、私の魂も終ります。故にイエスは言われます「愚かな金持ちよ、何が一番大切なものか、知らなかったのか」。

・この例えはヤコブ4:13-14と考えを同じくしています。ヤコブが語ったように「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と考えても、私たちには「自分の命がどうなるか、明日のことは分からない」。金持ちは自分の命が自分の支配下にあると思っていた。そこに考え違いがあった。私たちも老後や不時の災害に備えて貯金すれば安心だと思っていますが、その前に死んでしまうかもしれない。命は私たちの支配下にはない。また、努力して蓄えても、死んでしまえばその財産は他人のものになります。さらに、地上の財産は私たちが神の国に入るためには何の役にも立たない、だから、「この金持ちは愚か」なのです。例えは私たちに、「同じように愚かになるな」と語ります。命への道が「獲得し、蓄え、所有し、守る」ことでないとすれば、それは「感謝して受け、与え、仕える」道です。

・イエスは「日々、自分の十字架を背負って従いなさい」といわれました。毎日の生活の中で従うということです。具体的には、自分の大事なもの、時間とお金を捧げていく生き方です。私たちは何故主日の礼拝に集うのか。それは一週間が守られたことを感謝し、最後の一日を主に捧げるためです。聖書では、「収入の十分の一を捧げよ」と言います。収入は神が与えて下さったのだから、その一部を神に返すのです。教会に捧げられる月約献金は牧師の給与になり、教会の水道光熱費等になります。十分の一献金は痛みを伴うお金です。痛みを伴うからこそ価値があります。この痛みを通して、私たちは「獲得し、蓄え、所有し、守る」ことから解放されていくのです。牧師の給与を皆さんが支えることを通して、牧師は聖書を学び、祈り、御言葉を語り、そのことを通して地域の人々に福音の言葉が語られていきます。

・「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」とイエスは語られました。これを私たちの現実の中で読みかえれば、「豊かであったのに主のために貧しくされた人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」と言えます。「今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる」という言葉は「今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは私の弟子たちの奉仕により満たされる」と読み替えられます。最後の「今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる」は、「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは私の弟子たちの奉仕により笑うようになる」。イエスが私の弟子たちと呼ばれるのは、今日この会堂に集まっておられる方々です。私たちは「神の前に豊かになる」ために、ここに集められているのです。命への道が「獲得し、蓄え、所有し、守る」ことでなく、「感謝して受け、与え、仕える」道であることを再度認識する必要があります。

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