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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年1月31日説教(ヨハネ9:35-10:6、本当に見えるのか)

投稿日:2016年1月31日 更新日:

2016年1月31日説教(ヨハネ9:35-10:6、本当に見えるのか)

 

1.生まれつきの盲人の癒し

 

・ヨハネ9章はイエスが盲人の目を開けられた記事として有名です。物語は、弟子たちは道端に座って物乞いをしていた盲人を見かけて、イエスに尋ねたことから始まります「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(9:2)。当時の社会においては、障害は罪の結果だと考えられていました。それに対して、イエスは答えられました「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(9:3)。古代でも現代でも、障害を天罰とする考えかたが強く、障害者は、障害を差別する社会の目に苦しんでいます。その中で、「神の業がこの人に現れるために」というイエスの言葉に接して、多くの障害者は感銘を受け、信仰の道に入られました。

・このように、ヨハネ9章は盲人の癒しを記した記事ですが、実は、全体41節の中で、癒しの記事は最初の12節のみで、大半はイエスとファリサイ人との論争の記録です。つまりヨハネ9章は癒しそのものよりも、癒しとは何かという論争が主題となっています。盲人が癒された日は安息日でした。厳格に律法を守り、守らない人たちを攻撃するファリサイ人は、盲人が癒されたことよりも、その日が安息日であることを問題にして、イエスを非難します「安息日を守らない者は、神のもとから来た者ではない」(9:16)。彼らは盲人の眼が開けられたことを喜ぶよりも、「安息日に仕事をしてはいけない」という自分たちの考え方を優先したのです。彼らは盲を癒された人に問いただします「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか」(9:17)。

・盲であった人はイエスがどなたであるか、知りません。しかし、「見えなかった目が今は見えるようになった」ことは知っています。神から遣わされた人でない限り、このような業は出来ない。彼は信仰を告白します「あの方は預言者です」(9:17)。この信仰告白が新しい問題を引き起こします。ファリサイ人は繰り返し、イエスの罪を認めよと男に迫りますが、男は引きません。「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」(9:32-33)。彼は自分の主張を曲げず、ファリサイ人は彼を外に追い出します。

 

2.見えるとあなたが言う故に、あなたの罪が残る

 

・今日の中心主題はここから始まります。盲であった人が会堂から追放されたことを聞いて、イエスが彼を捜して来られます。そして彼に出会うと「あなたは人の子を信じるか」と言われました(9:35)。彼は答えます「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」。イエスは言われます「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。彼は「主よ、信じます」と言って、イエスの前にひざまずきました。その彼にイエスは言われました「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」(9:39)。

・目の見えなかった人は、最初はイエスが誰か知りませんでした。だから彼は言います「あの方は預言者です」(9:17)。しかし、パリサイ人との対話を通して彼はイエスが誰であるか、少しずつ見えてきました。彼は次には「あの方は神のもとから来られた」(9:33)と告白します。そして最後にイエスと出会うことを通して、彼はイエスの前に跪きます「主よ、あなたこそ救い主です」(9:38)。この人は二度イエスから目を開けてもらいました。一度は肉体の目を開けてもらった時、二度目は心の目を開けてもらった時です。ヨハネが問題にしているのは、肉の目ではなく、心の目が開いているか、どうかです。

・人が真実を見るのを妨げるものは罪です。ヨハネはその罪を、闇と表現します。見えないのは、私たちが闇の中にいるからです。その闇を切り裂いて、光であるイエスが来られました。イエスを信じるとは、イエスの光に照らされて、自分が闇の中に、すなわち罪の中にいることを知ることです。知った人は悔改め、悔改めた者には赦しが与えられる。その時、人は、「見えるようになる」。しかし、見えると言い張る者、自分は正しいという者は、自分が罪に中にあることを認めません。ファリサイ人たちはイエスの為されたしるしを見ても、安息日にこだわるあまり、それを神の業と認めることが出来なかった。だからイエスは言われます「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」(9:41)。信仰とは神を神として認めることです。その時に、自分は相対化される。自分の弱さを認める、自分の罪を知る、自分が闇の中にいることを認識する、救いはここから始まります。

・「ああうれし、わが身も」(新生讃美歌544番)を作詞したファニー・クロスビー(1820-1915)は、生まれてすぐ医療ミスにより視力を失い、数々の不幸に見舞われながらも、95歳で召されるまで数千の作詞をし、キリストの愛と生きる喜びを伝えた人です。彼女は語りました「創造主が私に与えられた最大の祝福は、私の肉体の眼が閉じられることを許されたことでした。主は私をご自身の御業に用いるように創造し、そのために聖別して下さいました」(立川福音自由教会、2015.08.09説教より)。「神の業が現れるために」、苦難は過去の原因を追究した時には何も生みません。しかし、未来を神がどうして下さるのかを求め始めた時、神の業が始まります。ファニー・クロスビーは肉体の眼が閉じられていましたが、そのことによって心の眼が開けられ、真理を見出した、彼女は見えるようになったのです。そして彼女は見えるようになった感謝を賛美したのです。

 

3.良い羊飼いは羊のために命を捨てる

 

・ファリサイ人は、盲人が癒されたことよりも、その日が安息日であることを問題にして、イエスを非難しました。その彼らに向かって、イエスは羊飼いの譬えを語られます「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である」(10:1)。パレスチナでは羊が野獣や強盗に襲われるのを防ぐために、夜は石を積んだ囲いの中に羊を休ませます。羊飼いは朝、羊を囲いから連れ出し、牧草地に導いて草を食べさせ、夜は囲いの中に導きます。他方、泥棒や強盗たちは柵を乗り越えて羊を奪い、これを殺そうとします。イエスは、羊を飼う役割を与えられながら、羊を貪り、弱めるファリサイ人たちを、「盗人であり、強盗である」と批判されています。 イエスは言われます「門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」(10:2-3)。しかし社会の指導者であるファリサイ人たちは羊のことを本気で考えていない。それゆえに、「 (羊は)ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである」(10:5)とイエスは語られたのです。

・今日の招詞にヨハネ10:11-12を選びました。次のような言葉です。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす」。イエスはご自身を「神からその業を委ねられた羊飼いである」と宣言されます。ここには二種類の羊飼いが出てきます。最初は「雇い人の羊飼い」、彼の関心は報酬であり、羊ではありませんから、狼=困難な情況が来ると逃げてしまいます。イエスの時代、指導者たるべき祭司たちは、神殿で犠牲を捧げ、祭儀を執り行っていましたが、民のための配慮はしませんでした。もう一方の指導者であるファリサイ人たちも律法を守ることの出来ない人々を「罪人」として排除することによって、自分たちの正しさに自己満足していました。いずれも「自分を養う」ことには熱心でしたが、「民を養う」ことはしませんでした。そのため、民は「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれて」いました(マタイ9:36)。

・そのような状況の中で、イエスは、自分こそ「良い羊飼い」だと宣言されます。良い羊飼いは羊のことを気に掛け、羊のために命を捨てます。荒野では獣が羊を狙い、襲ってきます。羊飼いは杖で獣と戦い、羊を守り、そのために命を落とすこともあります。良い羊飼いの最大関心は自分ではなく羊ですから、羊のために命を捨てても悔いません。そしてイエスは実際に、彼の群れのために命を捨てられました。イエスが十字架で死なれた時、弟子たちはイエスを見捨てて逃げましたが、復活後イエスは弟子たちに現れ、弟子たちを赦し、彼らに「私の羊を飼いなさい」と業を委託されます(21:15)。この赦しと委託を受けて、弟子たちは伝道を始め、教会を立てていきました。それから2千年が経ち、この弟子たちの業を継承するのが牧師であると理解されてきました。牧師は英語では“pastor”といいますが、この言葉は文字通り「羊飼い」を指します。しかし牧師だけにその任が委ねられていると考える時、牧師の言動に注目が集まり、「あの牧師は十分な世話をしてくれない」、「あの牧師は羊飼いとしてふさわしくない」とかの評論家的言動が多くなり、教会が内向きになりがちです。私たちはイエスが誰に羊の群れを委託されたのかを、もう一度問い直す必要があります。

・イエスは弟子たちに、すなわち教会の群れに、羊を養うことを委託されています。牧師だけでなく、私たち一人一人が羊飼いに、牧者にされる必要があります。ルターが語った「万人祭司」とはそのことです。教会とは自分の救いを求めてきた人たち(ゲスト)が、他者の救いのために祈る者(ホスト)に変えられて行く場所なのです。そしてイエスは言われました「私にはこの囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」(10:16)。私たちは教会の群れの外にいる人たち、まだ福音を聞かされていない人々への責任を与えられています。執事に立てられた人々は自分も牧会者であるとの認識をお持ちでしょう。しかし、執事だけではなく、全教会員が、「私もまた牧会者として立てられている」との認識を新たにされた時、教会は「神の国」になっていきます。神の国とは「狼と小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、聖なる山のどこにおいても、害することも滅ぼすこともない」国です(イザヤ65:25)。異なった経歴や習慣を持った人々が集まり、そこに「主にある平和」が成立する世界です。教会の中には嫌いな人や性格が合わない人もいるでしょうが、その人たちのためにも「キリストが死んで下さった」(ローマ14:15)ことを思う時、共に働く事ができる場所になります。私たちが「私もまた牧会者として立てられている」との共通認識をもった時、この教会は神のための救いの器となりうるのです。今日はそのことを覚えたいと思います。

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