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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年1月24日説教(ヨハネ6:1-15、命のパン)

投稿日:2016年1月24日 更新日:

2016年1月24日説教(ヨハネ6:1-15、命のパン)

 

1.五つのパンでの養い

 

・イエスが五つのパンと二匹の魚で五千人を養われた出来事は有名であり、四つの福音書全てに記事が載っています。この五千人の給食の記事は、マルコ福音書では6章30節~44節までの14節の小さな記事ですが、ヨハネでは6章1節~71節に及ぶ長い物語となっています。マルコは奇跡の事実を伝えるだけですが、ヨハネでは奇跡の意味の神学的考察が為されています。出来事はガリラヤ湖のほとりで起きました。ヨハネは次のように描き始めます「イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。」(6:1-2)。イエスの周りには病気の癒しを求めて、大勢の人が集まって来ていました。

・ヨハネは続けます「イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった」(6:3)。イエスは、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(6:5)と言われます。フィリポにはわかりません。彼は答えます「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(6:7)。1デナリオンは当時の労働者1日分の賃金、1家族が1日に必要な食料を買うだけの金額でした。仮に1デナリオンで家族5人が食べられるとしても、200デナリオンで1千人がやっとです。そんなお金はここにはないし、仮にそのお金があったとしても、こんな寂しい場所で、そんなにたくさんのパンを買える訳がありません。

・その時、もう一人の弟子アンデレが、食べ物を持っている少年を探し出して来ました「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(6:8-9)。子供が、自分の弁当用に大麦のパンと干した魚を持っていたのでしょう。五千人にどうやって食べさせるかと言う議論をしている時に、パン五つと魚二匹では何の足しにもならない。しかし、イエスは、手元に五つのパンと二匹の魚が与えられたのを見て、「人々を座らせなさい」と言われました。ヨハネは記します「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた」(6:11)。

 

2.パンの奇跡の意味

 

・イエスがパンと魚を祝福して人々に配られると、そこにいた人々を「満腹させ」、またパンくずが「十二のかごに一杯になった」とヨハネは記します。この奇跡の意味はどこにあるのでしょうか。中心の出来事は信仰だと思います。弟子たちは目前の五千人の人を見て、また手元に五つのパンしかないのを見て、「これではとても役に立たない」とあきらめます。ピリポはこれだけの人数にパンを与えるのは無理だといい、アンデレは五つのパンでは何の役にも立たないとため息をつきました。彼らには「神が働いて下さる」という信仰がなかったからです。小さな子供は弟子たちが困っているのを見て、自分の手元にある五つのパンを差し出しました。差し出してどうなるという当てはなかったけれど、自分が食べるのをあきらめて差し出しました。イエスはそこに子供の信仰を見られました。「その信仰さえあれば神は応えて下さる」とイエスは信じ、天を仰いで感謝されました。私たちの手の中にあるもの、それがどんなに小さく僅かであっても、イエスの前に差し出され、イエスに祝福され、主の御用のために用いられる時、10倍にも100倍にも増やされていくことを物語は示唆しています。もし私たちが生活の中で、「あれもない」、「これもない」と不足や不満を言っている時、それは私たちがピリポやアンデレの陥った過ちに陥っているのです。「必要なものは神が与えて下さる」ことを忘れているからです。

・ドイツの神学者ボンヘッファーはこの箇所について述べています「我々が我々のパンを一緒に食べている限り、我々は極めてわずかなものでも満ち足りる。誰かが自分のパンを自分のためだけに取っておこうとするとき、初めて飢えが始まる。これは不思議な神の律法である。二匹の魚と五つのパンで五千人を養ったという福音書の中の奇跡物語は、他の多くの意味と並んで、このような意味を持っている」(「共に生きる生活」P62)。ボンヘッファーの言葉は印象的です。わずかなものでも一緒に食べるとおいしい。イエス時代の食卓は貧しいものでした。大麦のパンと塩とオリーブ油、飲み物としては水か薄めたぶどう酒、魚や肉を食するのは祭りの時だけでした。しかし家族が集まって食卓を囲み、感謝の祈りの後に食事をいただき、一日の出来事を話し合う、団欒の時でした。一方、現代の私たちの食卓には肉や魚があふれていますが、家族で食卓を囲むことは少なくなりました。それぞれが忙しい生活の中で、勝手な時間に、カロリーを補給するだけの食事をする、そのような家庭が増えてきた。「共に食べる」、私たちが見失ってしまった豊かさがこの物語の中にあるような気がします。

 

3.命のパン

 

・今日の招詞にヨハネ6:35を選びました。次のような言葉です「イエスは言われた『私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない』」。イエスが行われたパンの奇跡を見て人々はイエスの力に驚きます「この人こそ、世に来られる預言者である」(6:14)。人々は飢えていました。当時は、旱魃等の天候不順で作物が不作になれば、貧しい人は餓死する時代でした。彼らは思いました「五つのパンで五千人を養いうる人であれば、私たちの生活の貧しさも解決して下さるに違いない」。人々は食べるものにも事欠く現在を、毎日腹一杯食べることの出来る将来に変えてくれる人を求めていました。その彼らの面前でイエスは奇跡を起こされました。

・人々はイエスが毎日のパンを与える力を持っていると思い、イエスを王にしようとします。イエスは群集の心の中にそのような思いが芽生えたことを知って、彼らを避けて対岸のカペナウムに戻られますが(6:21)、人々はイエスを追ってカペナウムまで来ます。その彼らに言われた言葉が招詞の言葉です「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」。「私が命のパンである」という言葉はギリシャ語では「エゴーエイミー(私は・・・である)、ホ・アルトス(そのパン)、テ・ゾーエー(命の)」です。ここで問題にされている命は「ゾーエー」としての命です。ギリシャ語の命には「ビオス」と「ゾーエー」の二つがあり、ビオスは生物学的命を指し、ゾーエーは魂の命、人格的な命を指します。人間が生きるには生きがいが必要です。その生きがいを消失し、「生きていてもしょうがない」という時、動物としての命(ビオス)は生きていても、人格としての命(ゾーエー)は死んでいます。私たちはここで、群集が求めるものとイエスが与えようとしているものの間にすれ違いがあることに気づきます。群衆はビオスとしての命を養うために地上のパンを求め、イエスは「地上のパンは父なる神が下さるから、もっと大事なゾーエーとしての命を求めよ」と言われています。

・このイエスの言葉は、私たちにも生き方の見直しを迫ります。人はパンなしでは生きていくことが出来ません。私たちはパンを求めて、毎日働きますが、いつのまにか人生の大半が、「パンを獲得する」ことに費やされ、本当に必要な霊の糧を忘れてしまっているのではないかという問いかけです。人間を人間にするのは、獲得した給料の多さや地位の高さ、あるいは成し遂げた業績ではありません。私たちは多くのお金をかけて子どもを教育し、長い年月をかけて住宅ローンの支払いを行います。そして子どもの教育を終え、家を準備し、老後を迎えてしばらくの時を過ごすと、やがて死が迫ります。このような人生で良いのか、何かが欠けているのではないか。「人はパンだけで生きるのではない。物理的な充足だけでは人は幸せにはなれない」と聖書は問いかけます。

・では生きるために必要な「命のパン」は、どのようにすれば得られるのでしょうか。イエスは言われます「私は、天から降って来た、生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである」(6:51)。世の人に命を与えるためにはまず「罪」を処分しなければなりません。罪によって、命の源である神への道が閉ざされているからです。イエスはそのために自分の肉を裂き、血を流して、贖いの業をすると言われます。「私は十字架で死ぬことを通してあなたたちのパンになる。だから私を食べよ。私を食べることによって復活の命を得よ」とイエスは言われています。

・イエスの十字架死を「贖いの死」として受け入れるのは理性的には難しいことですが、由木康牧師は述べます「魂の世界では、人は自分の命を捨てただけ他人を生かすことが出来る。親は子の為に自分の命を消耗しただけ子を生かし、教師は生徒のために自分の命をすり減らしただけその生徒を生かし、社会事業家は助けを要する人々のために自分の命をすり減らしただけそれらの人々を生かす」(由木康「イエス・キリストを語る」、P183)。「魂の世界では、人は自分の命を捨てただけ他人を生かすことが出来る」、真実の言葉ではないでしょうか。

・初代教会の礼拝の模様を伝えている文書があります。ユスティノスという古代教父の手紙です「日曜日と呼ばれる日には、町や村に住む者たちが一つの場所に集まる。そして使徒たちの回想録や預言者たちの文書の朗読が行われ・・・司式者が教えを説き、このような優れたことがらに倣うように勧告し促す。次に皆立ち上がり、共に祈りを唱える。祈りが終わるとパンとぶどう酒と水が運ばれる。司式者は祈りと感謝を捧げる。会衆はアーメンという言葉でこれに唱和する。一人一人に「感謝された」食物が与えられ、これに預かる。また欠席者の下には執事がそれを届ける。次に裕福で志のある人々は、各人が適切とみなす基準に従って定めたものを捧げる。このようにして集められたものは司式者の下に保管され、孤児や寡婦、病気やその他の理由で困窮している人々、獄にいる人々のために配慮する。司式者は窮乏の下にある全ての人々の面倒を見る役割を果たす」(「ユスティノスの第一弁明」)。初代教会の礼拝の中心は聖餐式、「イエスの肉を食べ、血を飲む」行為でした。この行為がクリスチャンたちを新しい生き方に、すなわち「パンを共に分け合う」生活へと変えていったのです。初代のクリスチャンたちは「パンを共に分け合う」ことを通して、人生の不条理を克服していったのです。私たちもこのような教会を形成したいと願います。

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