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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年1月10日説教(ヨハネ4:1-26、命の水)

投稿日:2016年1月10日 更新日:

2016年1月10日説教(ヨハネ4:1-26、命の水)

 

1.イエスとサマリアの女の出会い

 

・ヨハネ福音書を読み続けています。今日はヨハネ4章「サマリアの女との出会い」の物語です。イエス一行はユダヤからガリラヤに行かれる途上でサマリアを通られました。一行がサマリアの町シケムに着かれた時、郊外の井戸に一人の女が水を汲みに来ました。イエスはその女に「水を飲ませてほしい」と言われ、女は驚きます。「ユダヤ人はサマリア人とは交際しない」(4:9)、ユダヤ人はサマリア人を汚れた民族として軽蔑していました。

そのユダヤ人のイエスがサマリア人の女に声をかけられたからです。びっくりする女にイエスは言われます。「もしあなたが、私がだれであるか知っていたならば、あなたの方から頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(4:10)。女は更にびっくりして言います「あなたは生きた水を与えることが出来るというのですか」。それに対してイエスは言われます「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4:13-14)。女は直ちに反応します「その命の水を私に下さい」(4:15)。

・女は正午に、町外れの井戸まで水を汲みに来ています。水汲みは、普通は涼しい朝か夕方にします。しかし女はあえて暑い昼時に、しかも町外れの井戸に来ています。他の人たちと顔をあわせることが出来ない事情があったからです。水汲みは女にとって苦痛でした。だから女はイエスに「生ける水を下さい」と頼みます。その女の生き方をイエスは指摘されます。女は過去に5度の結婚に失敗し、今は内縁の夫と同棲しています。離縁の原因は、彼女の不身持のためかもしれません。イエスは女と話すうちに彼女の最大の問題は、「水の渇き」ではなく、「魂の渇き」であることに気づかれます。女は男から男へ頼るべきものを求めていきましたが、どこにも本当の満たしを見出すことが出来ず、今は「不身持の女」との評判が立てられ、周りの人々から排除され、人目を避けて暮らしています。女が新しくやり直すためには、まず現実を見つめることが必要でした。だから女の最も触れてほしくない部分に、彼女の生き方にイエスは触れられます。

・イエスの言葉を通して、女は自分の罪を知り、「全てを知っておられる神がここにいます」ことに気づかされます。何とか、この罪から清められたいと女は願いました。女はすべての礼拝から排除されていました。エルサレムでの礼拝は彼女がサマリア人ゆえに締め出されていました。ゲリジム山での礼拝は彼女の不身持のゆえに同胞から拒否されていました。彼女は魂の渇きを癒すための礼拝の場所がありませんでした。イエスは女に言われます「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(4:22)。「あなたは礼拝から疎外されている。でも、私があなたに礼拝の場所を与えよう。あなたが、どこでも、霊とまことを持って礼拝すれば、神は答えてくださる。神はあなたを疎外されない」。女はイエスの言葉によって回心します。

 

2.渇く魂

 

・人はどのようにして「生けるキリスト」に人は出会うのでしょうか。挫折や苦しみを通して、「自分の魂が飢え渇いている」ことを知らされた時です。サマリアの女はイエスの対話を通じて回心します。でも、何故、こんなに突然に回心したのでしょうか。それは女の置かれていた状況を考えればわかります。女はサマリア人であり、ユダヤ人はサマリア人を軽蔑し、道で遭っても口を利かないのが一般です。それなのに、ユダヤ人のラビであるイエスは女に声をかけてくれました。彼女は女であり、当時の女性は一人前とみなされず、教師であるラビが声をかけることはなかった。その彼女に、イエスは「父なる神はあなたを愛しておられる」と説かれました。彼女は不身持の女として周りからつまはじきにされていましたが、イエスはその罪を告発するのではなく、そのような生き方では幸せにはなれないことを女に示されました。これまで誰も彼女のことを真剣に受け止めてくれなかったのに、今ここに彼女のために語る方が現れた。しかも、この方は「自分はメシアである」と言明されている(4:26)。女は根底から変えられていきます。

・やがて、町に出かけていた弟子たちが食べ物を買って帰ってきます。女はそれを契機に井戸を離れますが、その時、水がめを置いたまま町に急ぎます。水を汲みに来たのに、そのことを忘れてしまったほどに、イエスの言葉が彼女を捕らえたのです。彼女は町に戻ると、人々に告げます「さあ、見に来てください。私が行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」(4:29)。彼女は罪の女として町の人たちからのけ者にされていました。その彼女が自分の最も触れられたくない部分、自分の罪を人々に示して言います「この人は私が犯した罪を全て知っていました。この人こそメシアです」。町の人々は女の日常を知っていました。彼女は隣人を避け、隣人も彼女を避けていました。その女が今は人々の目を避けないで見つめて言います「私はメシアに出会いました」。サマリアの人々は女の証を聞いてイエスのもとに来て、イエスの話を聞きます。その後で彼らは女に言います「私たちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。私たちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」(4:42)。ユダヤ人と敵対していたはずのサマリア人が、ユダヤ人であるイエスの言葉を聞き、救い主として認めました。そのきっかけになったのは、罪人と思われていた女の証しでした。

・ここに二つの和解が成立しました。町の人と女の和解、そしてユダヤ人とサマリア人の和解です。何故和解が成立したのでしょうか。ユダヤ人は通常、汚れた地に立ち入らないためサマリアを迂回して旅をしました(マタイ10:5)。しかし、イエスはあえてサマリアを通られます。ユダヤ人はサマリア人と出会っても挨拶しないのに、イエスはサマリアの女に声をかけられました。イエスほどの教師は、何十人、何百人を相手に説教されるのが当然であるのに、イエスは全力を傾けてただ一人の女に話されました。そして、人が神からの招きを受入れた時に、憎しみを超えた世界が開けます。何故なら、神にとってはユダヤ人もサマリア人も共に愛しい子たちなのです。

 

3.命の水

 

・今日の招詞にヨハネ7:37-38を選びました。次のような言葉です「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、私の所に来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる』」。仮庵の祭りの時にイエスが語られた言葉です。仮庵の祭りはイスラエルの民がエジプトを出て、荒野を旅した時に、仮庵=天幕で過ごしたことを記念する時です。荒野ですから、水は乏しかった。民は水がなくなると、「何故我々をエジプトから連れ出したのか。私や子供たちを渇きで殺すためか」とつぶやきました(出エジプト記17:3)。神はモーセに「岩を杖で打て」と命じられ、モーセが岩を打つとそこから水が出て、民は渇きを癒すことが出来ました(民数記20:11)。それを記念して、仮庵祭の最終日には水注ぎの儀式が行われました。シロアムの池から採られた水が神殿に運ばれ、ラッパの吹奏と共に祭壇に水が注がれます。シロアムの井戸から水を汲まれることを通して、神の救いの恵みが想起される儀式が行われたのです。この水運びの行列を見て、イエスが立ち上がって叫ばれました。「渇いている人はだれでも、私の所に来て飲みなさい」。

・水は貴重であり、人は水がないと生きていけません。水が不足すると、身体はそれを警告するために、喉の渇きをもたらします。水の有無は生死を決定しますので、人は体の渇きには敏感です。しかし、魂の渇きに関しては、人は鈍感です。魂が渇いているにもかかわらず、それに気付かず、魂の死を招きます。日本では毎年3万人の人が自殺します。原因はいろいろでしょうが、「魂の渇きによる死」と言いうるかもしれません。魂にも水が、「生ける生命の水」が必要なのです。イエスはそのような私たちに、「渇いている人は私のところに来なさい。私が生命の水である聖霊をあなたたちに与える。聖霊はあなたに満ち、もうあなたは一人で生きるのではなく、私と共に生きるようになる」と招かれたのです。

・ヨハネ福音書が私たちに教えるのは、イエスを信じることにより、生ける水がその人から湧き出し、それは自分の渇きを癒やすだけではなく、その生命の水は周囲の人をも潤していくということです。サマリアの女はイエスとの出会いを通じて、キリストの証人となり、同胞をキリストの下に導きました。私たちもキリストに出会い、生命の水をいただきました。今度は私たちが他の人々に生命の水を運ぶ番です。詩編は歌います「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める。神に、命の神に、私の魂は渇く」(詩編42:2-3)。私たちの周りの多くの人々が心を病み、魂の救いを求めてあえいでいます。社会の中で疎外され、「お前なんかいなくてもよい」、「お前なんか生きる価値がない」と宣言されて、打ちひしがれている多くの人がいます。

・マザーテレサがキリストに出会ったのは36歳の時でした。彼女は18歳でロレット修道会に入り、インドのコルコタ(カルカッタ)に派遣され、修道会運営の女学校で教師として働き始めます。1946年9月、36歳の時、黙想会に参加するため汽車でダージリンに向かう時、彼女はイエスの「私は渇く」(ヨハネ19:28)という十字架上の声を聴き、修道会を退会しコルカタのスラムに入って働き始めます。彼女は、「神は貧しい人の中におり、人間と共にこの世の苦難を担い、貧しい人の姿で現れ、人間の愛を待ち望み、渇いている」ことに気づき、その「渇きを癒すために私は召された」と信じ、活動を始めます。彼女はキリストに出会い、生命の水をいただき、今度は自分が他の人々に生命の水を運ぼうと決意しました。私たちも、人が「飢えていたら食べさせ、のどが渇いていたら飲ませ、旅をしていたら宿を貸し、裸であれば着せ、病気であれば見舞い、牢にいたら訪ねよ」(マタイ25:35-36)というイエスの御声に招かれています。生命の水を与えられた者は次の人に与えるために水を運ぶ、そのような志を持った者が集う場が教会だと思います。

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