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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年8月2日説教(コヘレト3:1-15、与えられた時を生きる)

投稿日:2015年8月2日 更新日:

2015年8月2日説教(コヘレト3:1-15、与えられた時を生きる)

 

1.何事にも時がある

 

・コヘレト書を読み続けています。コヘレトは紀元前3世紀に生きた知恵の教師ですが、彼の著したコヘレト書(口語訳「伝道の書」)は、その内容が「神に対して懐疑的である」ことより、教会の中では読まれることの少ない書です。しかし、今回木曜祈祷会でコヘレト書に取り組み、本音の言葉で人生の真実を指摘するその内容に惹かれ、皆さんと共有したいと思い、説教にさせていただくことになりました。今日学びますコヘレト3章1節の言葉「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」も、心に迫る言葉です。私たちはこの世に生を受け、喜びや悲しみ、成功や挫折、様々の経験をしながら、年老い、やがて死んでいきますが、その時々に決定的な時を私たちは体験するからです。「何事にも定められた時がある」、私たちもそのことを実感します。

・コヘレトは語ります「生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時、石を放つ時、石を集める時、抱擁の時、抱擁を遠ざける時、求める時、失う時、保つ時、放つ時、裂く時、縫う時、黙する時、語る時、愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時」(3:2-8)。私たちはこの世に生を受け、定められた時が来れば死にます。私たちの人生は生で始まり、死で終わりますが、いつ生まれ、いつ死ぬかを、私たちは決定出来ません。それは「定められた時」、神の支配下にあるとコヘレトは語ります。その与えられた人生の中で、いろいろな出来事が生起します。「植える時、植えたものを抜く時」、作物を栽培するにはまず作付けを行い、一定の時が過ぎれば収穫の時を迎えます。「殺す時、癒す時」、人と人は出会い、ある時には憎み合い、ある時は愛し合います。「破壊する時、建てる時」もあります。コヘレトの生きた時代(紀元前3世紀)はエジプトとシリアの両大国がイスラエルを挟んでその勢力を争った時代でした。イスラエルは繰り返し、争いに巻き込まれ、ある時には戦争の時、やがて平和の時をコヘレトは生きます。「泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時」、人生は喜怒哀楽の連続です。

・時の中には私たちが決定できる時もありますが(求める時、保つ時)、多くの時は私たちの意思を超えた所で決定されます。人生の大きな枠組である「生まれる時、死ぬ時」は、私たちの選びの中にはありません。私たちの時を支配しているのは私たちではなく、別の存在だとコヘレトは語ります。コヘレトはそれを「神」と呼びます。私たちは生きているのではなく、生かされています。しかし私たちは、生かす主体の神の業を「見極めることは許されていない」、だから人間には悩みが生まれるとコヘレトは語ります「人が労苦してみたところで何になろう。私は、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」(3:9-11)。

・「神のなさる業を見極めることは許されていない」、その私たちに神は「永遠を思う心」を与えられました。しかし私たちが見ることが出来るのは過去と現在であり、過去と現在から将来を予測しようとしても将来は見えません。だから「人間にできることは与えられた現在を精一杯生きることだ」とコヘレトは語ります。「私は知った、人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは神の賜物だ、と」(3:12)。人は明日のことはわからない。そのことを不安に思い、嘆く時に、人生は不安なもの、空しいものになります。そうではなく、「明日のことは神に委ねる」生き方を選んだ時、私たちに平安が与えられます。イエスは言われました「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)。

 

  1. 与えられた時を生きる

 

・人には神から与えられた時があります。私たちは今現在を生きています。しかし私たちの人生は死によって限界づけられています。だからこそ、現在生きていることに意味があるとコヘレトは語ります「私は知った、すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。今あることは既にあったこと、これからあることも既にあったこと。追いやられたものを、神は尋ね求められる」(3:14-15)。

・私たちが正しく生きようとしても、この世の現実は不条理に満ちています。正義を行うべき司法の場にも、行政の場にも悪があります。しかし「人はやがて神の裁きを受ける、正される時が来る、だから悪の存在に絶望しない」とコヘレトは語ります「太陽の下、更に私は見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。私はこうつぶやいた。正義を行う人も悪人も神は裁かれる。すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある」(3:16-17)。不正に対して戦ってみても、現実の流れは何も変わりません。2011.3.11に福島で原発事故が起こり、10万人の人が今なお避難生活を行い、原発周辺は立ち入りが制限されています。また原発の放射性廃棄物の処理にも目処が立っていません。その中で原発の再稼働が勧められています。福島事故がなかったことにしようとの政治の動きがあります。いくら反対してもその流れは変わらない。沖縄の人々がいくら辺野古への基地移転に反対しても、国はアメリカ軍基地の建設を止めません。70年前に沖縄戦で死んでいった人々の悲しみが封じ込められています。何をしても空しい、何を行っても空しい、コヘレトが語る通りです。しかし、その空しさの中で、「すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある」ことを信じ、そのために今為すべきことをする。これがコヘレトの教える生き方です。

 

  1. 生かされた時を生きる

 

・今日の招詞にマルコ1:14-15を選びました。次のような言葉です。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」。「時は満ちた」、この時という言葉は、カイロスという言葉です。ギリシア語の「時」には、「カイロス」と「クロノス」があります。通常の時間(クロノス)の流れの中に、「その時(カイロス)が来た」、「救いの時(カイロス)が来た」とイエスはその宣教を始められました。コヘレトの語る、定められた時=ヘブル語ゼマンをギリシア語に翻訳したのがカイロスです。ナザレのイエスが来られることによって、決定的な時(カイロス)が来たという理解が新約の時の理解です。パウロが語る通りです「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤ4:4)。この時を私たちは知っています。

・「定められた時がある」という言葉が人生を変えたと語るのは、政治学者の姜尚中氏です。彼は1950年熊本に在日韓国人二世として生まれ、早稲田大学政治学研究科博士課程を経て、ドイツ・エアランゲン大学に留学、1981年31歳時に帰国しますが、就職先がなく、大学非常勤講師やアルバイトをしながら働いていました。彼はNHKのインタビューの中で語ります「僕は主夫業そして非常勤をやりながら、今でいう非正規雇用に近い不安感の中にあった。その時、上尾合同教会の土門一雄牧師に私淑して洗礼を受けた。その中で彼が私に残した言葉は、『すべてのわざには時がある』(コヘレト3:1)だった。牧師は僕の姿を見て焦っていると思ったのでしょう。だから『すべてのわざには時がある、植えるに時があり、生まるに時があり、死ぬるに時があり、そして踊るに時があり、笑うに時があり、悲しむに時がある』と語った。ここから教えられたことは、今の自分は不遇かもしれないけど、必ず時が巡ってくるのではないだろうかと。その時のためにただ待つのではなくて、やっぱり日々の『今ここ』を頑張るしかないと。その後、土門牧師の紹介でICU(国際基督教大学)の助教授という定職をようやく得ることができた。37歳の時だった」(2012年5月10日NHK教育テレビ「仕事学のすすめ」から)。

・「必ず時が巡ってくる」、この「時」は、「カイロス(神が定めた時)」です。当たり前の時間の流れ(クロノス)の中に、突然に神の時(カイロス)が突入します。姜尚中氏はその時を「今ここを頑張りながら待ちました」と語ります。イエスが「神の国は近づいた」として宣教を始められたのも、このカイロスの時を指します。ここで大事なことは、当たり前の時間の流れ(クロノス)の中にある日突然カイロスの時が来るが、しかしそれを意識しない人には、相変わらずクロノスのままで終わるということです。姜尚中氏がどうせ駄目だと思って何もしなければ、せっかくの時も生かせなかった。イエスの「神の国は近づいた」という言葉を聞いて、イエスに従った人々はカイロスの時を持ちましたが、従わない多くの人にはそれは空念仏に終わりました。

・先日、多久和兄弟に双子のお子さんが生まれ、教会からお祝いを差し上げました。その後、多久和兄から次のようなメールをいただきました「実際に子を与えられて、生命の神秘を感じる日々です。育児を通して、子を愛する神の愛の深さを学べることを期待しています」。「求めよ、そうすれば与えられる」、多久和兄がお子さんの誕生を通して神の愛の意味を求め続ければ、お子さんの誕生が多久和さんのカイロスの時になりうると思います。「すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある」、そして「時は満ちた」との宣言が為された。このことを生かすも殺すも私たちに与えられた機会ではないかと思います。

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